1.19 敗走
「掛かれ………」
巫女である彼女が手を振り下ろすと、暗闇の方で気配が増える。微かに漂う獣臭。幾つかある入口を跨いで数頭の野犬が入ってきた。
暗闇に浮かんだ小さな二つの光。飼い慣らされたのとはまた違う目つき。それが次々と。
静止させようと巫女の方を見ると、槍の穂先が喉笛に飛んでくる。白い装束の者達が立ち塞ぎ、直ちにその後ろの方へと彼女は隠れた。
獣の群れがこちらを取り囲み、その後ろまで彼らは下がっていく。
「ちょっと待ってください。一体、さっきから何の話を―――……」
「とぼけるな…! お前のことだ、よもやナナシ様のことを語り合うために来たわけでもあるまい」
怒号が飛び交う。布越しからでも分かるぐらい少女は顔を歪めていた。目を吊り上げ、突き刺すような視線が送られてくる。やがて大きく息を吐き出した。
「……。いえ、ですが、こっちは本当に争うつもりはないんです」
「くだらない、構わずやれ」
号令が出されるとともに一斉に野犬達が走り出す。バッサリと切り捨てていった。無抵抗であることを示すために上げていた両手を下ろす。
避けようとしてつっかえる。数匹が同時に裾を引いてきた。咄嗟に手を前に出す。
「―――――――――っ」
首は守れたが、脇腹の方をやられた。次に襲い掛かった個体の顎を殴り付け、跳ね除ける。
他の人は何かをしてこないのか。見向きはするが、反応がよく読み取れない。整然としている。入り口の付近を見渡したが、誰かが出ていく様子はない。なら、まだ間に合う。
裾を引いて噛み付いた野犬らを振り解く。一気に踏み込んだ。跳び付いてきたのを押し返し、最前列にいた一匹を踏み台にして前へ。喰らい付いた者を叩く。
前のめりになって体を逸らし、目下に傷を入れて牙がそのまま行き違う。一直線で巫女の方へ向かった。主導権を握っているのは彼女だ。
引っ掻き回す一匹に肘を入れる。鉤爪にひっ捕らえられて肌が裂ける。深々と肉を牙が抉った。向かってきた頭部を地面に押し付け、滑り込む。白い装束達の隙間を縫い、巫女に向かって手を伸ばした。
「くっ…………!」
全く別の向きに力が働いて、予期せぬ方に押し出された。左から、かと思えば、今度は下から。背に左腕、それぞれ二匹と三匹。
視界の外から増えて、体当たりに進行方向がずらされる。
届かなかった、あと僅か……。
倒れていく身に、畳み掛けるように何匹もが押し寄せた。体を捩じり、立て直そうとするのを止め、強引に崩れていく方に勢いを加える。数匹を巻き込む。転倒とともに自分の体ごと地面に叩き付け、引き摺った。
こっちでは駄目だった。壁との衝突と同時に急いで体勢を整え、入口へと走る。近付く程に数が増えていた。なら、次だ。多少の遠回りをする。
身近にいた一匹の尾を掴み、群れに投げ付けた。すぐさまそれに続く。いち早く反応してきた個体の横っ腹を蹴り飛ばし、ぶつける。阻みにきたのを蹴り返す。退路の方はすぐになくされる。
力づくで道を開けた。最も手薄そうな端から掻い潜り、抜け出す。
たった数歩、離れていただけの個体たちから逃げ、入ってきた方へと。その後を追ってくる。
どの個体もとっくに傷だらけ。恐らくこの分だと逃げ切れる。
入口の前には誰もいない。……近くにだが、白装束が一人いる。他は………巫女の周りには数人、それ以外もあまり動き出す素振りは見られない。
もう一度だけ後ろを一瞥した。先頭の一匹に至ってはあらぬ方向に首が折れている。外のと同じだろう。どうせ首だけでも動く。
「……!」
飛んできた石の台座に弾かれる。薄らとまた塵が舞う。飛んできた方を見れば、白装束がいた。
数匹が下がっていく、巫女は何かの身振りをして。何かを仕掛けてくる前にここから出ようとする。
衣服を引っ張られ、手が首に掛けられた。壁にまで引き摺られる。別の白装束の男だった。背後から現れてきた。
呼吸が遮られる。体が浮かされ、両腕が強く首に絞まった。壁に自分の体は押し込まれる。体重を乗せてさらにもう一押し。何本もの筋が手の甲には浮き出ていた。神殿の壁にめり込み、蜘蛛の巣みたいな亀裂がそこに入る。
手足に痺れを感じた。人間の力なのか、これは。着々と意識が削り取られる。朦朧とする中で何とか抜け出そうと、絞めつける両腕を掴んだ。
「――――おっと。全員、止まってもらおうか」
蓋の開いた瓶が地面に落ちた。巫女の背後から彼の声がして、何もなかった所から現れる。彼女の後頭部にルイスは銃口を突き付けた。
野犬たちも、白装束もまずはそちらに注意が向く。占めたとばかりに勢いを付けて男の下顎を蹴り上げる。膝を付いたその隙に緩んだ拘束から抜け出す。
「さて、今すぐ離れてもらおうか。 でなければ――」
銃を握っている手に力を入れてみせ、周囲に脅しを掛けた。余ったもう一方の手で彼は丸薬を口の中に放り投げる。
「どうやら私も、頭に血が上り過ぎていたようだ。 鼠が一匹、入り込んでいるのに気付かないとは」
「別に難しいことでもなかったよ。 普通に入ってこれたわけだし、正面から堂々と」
「ほう、それを私のかわいい使いたちに見付からずに」
影で見え辛くなっているが、依然として彼の顔色は悪い。涼しい顔をしているようで首元から汗が滲んでいる。
「心が痛んだりもするのだろう? 幼気な少女にこんな仕打ちをして」
「ああ、それと。 そこの隠し部屋にあった手記、読ませてもらったよ」
「……! そうか……………」
「…………?」
ルイスの言葉で彼女の表情が強張ったように見えた。
「幼気な?君が? だとすれば、どんなに良かったことか。 住人たちも君があんな非道なことをしてただなんて知ったら、どう思うのかな?」
「………。…要求を聞かせてもらおうか」
「取り敢えずは、僕の指示に従ってもらうとだけ」
「逆らえば?」
「勿論、この場で君の頭の中身をぶちまけることになるね。すぐにでも引き金を引いて」
「ほう……………」
何かを考えるようにして、黙り込んだ。かと思えば、口元に笑みを浮かべて。
「それを聞いて安心した。 察するに、手記を全て読むことは出来なかったのだろう?特に肝心な箇所については」
「今、ちょっと指を動かしたね」
銃声が爆ぜた。遅れて巫女の体が倒れ、彼女の長い髪やら装束やらが地面の上に広がる。足元が揺らぐ空気から一変して、直に自らの心音が聞こえてきた。硬直状態のような周囲。
物言わぬ死体にさら二発、三発と。弾丸が貫いた。ドーム状の天井の下、反響が重なる
ぼんやりと立ち込めた硝煙。中身を取り出し、弾を込め直してまた一発。
やり過ぎではないのか………。そう頭を過った。そう思えて手が出かかって、引っ込めた。
たとえ彼がやらなくても、自分がやっていた筈だ……。彼が自分の代わりにやっただけ。確かに生きていた方が何かと利用しやすかったが、そんなのはあくまで理想だ。
自分のことを、善人だと勘違いしてはいけない…。
纏わりつく果実のような甘くて棘のある臭いを払い、彼の方に駆けていく。彼の足元は覚束なくて、息遣いが荒い。限界が近い様子だった。
「あぁ……、全くもって心外なことだ…」
「「!!」」
純白だった装束はすっかり汚れ、彼女は立ち上がる。再び発砲し、巫女の体が仰け反った。だが、起き上がってくる。狙ったのは眉間だ。間違いなく撃ち抜いたのに。
歩みを止めることなく、向かってくる。
「この程度で、殺せるわけがないだろうに……」
何匹もの野犬たちの遠吠えと同時に、硬直状態が解ける。目を伏せながらも上げられた手。その場の全員が一斉に押し寄せた。
足元を忙しなく彼らは動き回る。隙あらば、懐に入ってきて動きを鈍らせにきた。その一匹に氷の杭が突き刺さって、剥がれる。
「ナナシ君、まずはそっちの方に集中して。それだけでいい」
「……。分かりました」
襲い来る個体の脳天を射た。二粒目の丸薬を彼は呑み込む。氷の刃で斬り付け、絡み付いてきたのを素手で引き剥がす。白装束の男を投げる。
こちらに詰め寄ってきて、露にしているその口元を蹴り付けた。どうも仕留めにきている、という感じではないらしい。振り返って、拳を頭部に捻じ入れる。待っているのだ、こちらが疲れていくのを。
手を突き出すのに合わせて噛み付いきたのが一匹。地面にぶつける。やるなら、もっと力を籠めていい。もっと強く。細い二本の後ろ脚を砕く。ほぼ同時に四匹が関節を捕らえた。さらにもう一匹、背後から一直線に喉笛を補足して。
真っ直ぐと急所へと降り掛かってきて、犬の鼻先を捩じ切った。だというのに、痛みなどないが如く向かってくる。
純然たる頭数の上乗せ。一気に群がった。間接に嚙り付き、固定する。強引に抜け出そうとすれば、捩じったり曲げたりで組み伏せられた。
体が軋めく。どこかひびが入ったのかもしれない。辛うじて残った片手で頭蓋を潰す。
一段と深く爪や牙が食い込まされ、ますます強い力で羽交い締めにされる。
思うように動けない。耳元で飛び交う唸り声。地面を這いずる。体を引く。噛み付く場所を変え、より動きに制限が掛かる。見えるのは閉塞した光景ばかり。
ふとルイスの姿が目に映った。胃の内容物を彼は吐いた。抵抗こそすれど、どこかぼんやりと蹲る。もう限界だ。
一層、自分の体力が奪われる。そちらに行かせまいと爪を引いて、進行を妨害する。体が締め付けられていく感覚。散々、藻掻く。散々、足掻いて手を伸ばした。あと少し。手が届くまであと少し。指先が振れた。
壁に掛かっていた松明を掴み、それを野犬の口の中に突っ込む。瞬く間に燃え広がった、そう時間は掛からない。熱に晒され、一匹、また一匹とのたうち回って背を向ける。
残りを踏み付け、ルイスの所に行く。邪魔してきた頭を握り潰す。片腕を犠牲にするつもりでまた一匹の首を吹き飛ばす。
死体の手を足が引っ付いて区別がつかなくなる。
毛は抜け落ち、浮腫んで黄ばんだ色になっていく。
数人を引き連れて、巫女が彼の前に立った。全身から吹きながらも忍び寄ってきて、その口内を蹴り壊す。
尚も火を浴び続けているのがちらほら。それを含めてあとは数えられる程度。ひたすら表面が焼け落ちる。
刃を巫女は引き抜いた。ルイスはその場から動こうとはしない。いや、もう動けないのだろう。やっとの思いでナズルの入ったケースを片手に持つ。
途端に、燃える一匹の足が落ち、内側から炭を飛ばしてようやく身が崩落する。
「無理は良くない、とだけ言っておこう。もう、その薬での誤魔化しも利かないと見える」
震える彼の手。頭上に構えられた刃物、それが真っ先に彼へと。
「え………?」
血が流れる。一度、振り下ろそうとしたのを彼女は止めた。
だが、それ以上に目を引いたのはその態度だ。唇から血を流していた。彼女自ら唇を嚙み切ったのだ。
その間に、ルイスは三粒目のナズルを噛み砕いた。俯いたまま一言二言を唱えられる。
―――――刹那、一面に広がる白銀の世界。
低く切り込んできた獣は、身を低くした姿勢のまま凍てついた。松明に灯る炎が悉くス――、と掻き消える。冷気が吹き荒れ、溢れて押し流されそうになった。
ありとあらゆるものを凍結させ、ただ静止した空間が広がる。その中央。巫女やその取り巻きら。星明りの下、氷の鎧を身に纏うように全身を氷が覆い尽くし、鎖のようにその場に縛り付けられた。
久々の静寂が包み込む。
ありったけを注ぎ切って彼は倒れた。真っ暗になった辺りを警戒しながらも、急いで回収する。額に手を当てれば、やはり熱があるようだった。
どうするべきか……。上を見上げた。ナナのこともある……。
「……………」
―――――違う。
亡骸があるのはここではない。
辺りを見渡した。
「どうして……、どうして…、いつもいつもお前ばかり……」
氷漬けの眼球がこちらを睨んだ。片腕ごと砕き、せめて上半身だけでも多少の自由を利かせながら。
そして、遠くから物音がして。打ち漏らしたにしては………、気配が増えていないだろうか………。
一番にルイスを抱え、星明りを頼りに階段を駆け上がる。夜空の見える方へと向かって。
最悪だ。自分を知っている者がいた。あの大勢の中に長命種が混ざっていたのか。それも自分にとっては最も相性の悪い派閥ときた。
外に出れば、騒がしくも、至る所に篝火が灯る。カンカン、と甲高い金属が打ちつけられる音が繰り返し鳴り響いた。静けさが嘘であったかのように集落全体がざわつく。
長い階段を下って、敷地内から抜け出す。
◆
―――――――バチッ
背の上。ルイスの手元で火花を迸って、拒絶されたかのように瓶がそこから弾かれた。近付いてくる光を避け、暗闇の中を移動する。
「駄目だ、こっちにはいない」
「向こうを捜せ」
「見付け出して、火炙りにしろ」
どこもかしこも。これもいつまで続けられるか。すぐにまたルイスはぐったりとして、息を切らす。物も言えなくなって、持ち上げていた腕を力無く垂らした。
この場合はどうすればいい。外に向えば、追手からは逃げられるのか。だが、その後はどうする。
「あっちの……、林の方に向かって、欲しい…………」
殆ど呂律の回らないままルイスは口を開いた。彼の指した方を見る。暗くてよく分からないが、木樹木が並んでいるようにも見えた。誰かがいる様子はない。取り敢えずはそちらに向かう。
足元には草花がが乱雑に生い茂り、その中に体を埋める。草の根を分けてでもあちらは捜し出そうとするだろう。五感に優れた人外がいれば、こちらは一溜まりもない。
火を持った何人もの人々が後ろを走り去っていく。群生する青みがかった白い花から発せられる独特な臭い。確かに前方には林が広がっていた。
「あの林沿いを進めばいい……。そこに外への隠し通路がある、から……」
「どこでそんなことを……?」
「それと、これを君に…。きっと君の身を守るために役立つ……」
そう言って彼はある物を取り出した。ベルトの鞘に収まる短剣たち。あの時に確かに没収されたのに、それがきっちりと三本。しばらくゆっくりと息を整え、ルイスは言葉を並べる。
「僕はここに残らせてもらうよ…。 今回のことで君を巻き込んだのは僕の都合からだ。その責任を取らないといけない。僕が彼らを引き付けておけば、それだけ君の生き残れる確率は上がる……」
「そんな無茶な………、まだ碌に立つことも出来ないでしょうに…」
「君にとっての僕は何なんだい…。 友人か、それとも家族か。そのどれでもない。過ごした時間も短ければ、信頼もへったくれもない。大して親しいわけでもない。その筈だよね……」
……確かにその通りだ。彼がどんな人間かなんて自分は全く知らない。踏み込もうとさえしなかったし、興味も示さなかった。何を迷う必要がある。偶然、利害が一致したから利用するために付いてきた。たったそれだけの関係……。………。
「大丈夫…、もう一頑張りするだけだよ……。 これぽっちも、僕は死ぬつもりは、ないんだ……」
「…………。すみません……、ルイスさん………」
彼を前方の斜面へと転がした。
「出来ないんですよ、そんなことは。 だって、もし貴方に何かがあったら、僕はテオに顔向け出来ないんですから」
「ナ、ナナシ君……。でも、それじゃあ………」
「心配はしないでください、囮役は僕がやっておくので」
そう言って笑ってみせた。自分の臆病さが故のものだ。短剣を腰に差し、来た道を逆走していく。一人が気付いて、続々と集まって来る。遠くで彼の声が聞こえたような気がした。ひたすら出来るだけ離れるようにして逃げていく。段差を越え、さらに影は増えた。
素早く影が追い付き、隅を過って横から打撃を打ち込まれる。ざっと七、八人。綺麗に頬に入り、体が浮く。人の身を保ちつつ角や羽毛を残した者たち。人外のお出ましだ。
彼らに向かって拳を振り翳せば、側頭部に土塊をもろに受けて吹き飛ばされる。向こう側に魔術を使う人間が数人いるようだった。人外たちは一人、また一人と人の形が解けていく。獣の特徴を足し、力の限り突進する。
回避に移るが、そこへ遠距離からの魔術が撃ち込まれる。風の刃が皮膚を斬り裂いた。素早く入り込んで、巨体をぶつけられる。
直撃した炎が眼前で爆ぜた。頭がぼんやりとしてくる。全くもってやり辛くて、嫌になりそうだった。あれで彼らは一つの集団。これは決闘とは違う…。もっと何かを使っていい……。
緩やかに爆煙が晴れていく。数滴、血を吐いた。
正真正銘の何でもありは寧ろ、ここから……。
突っ込んだ、ただ一直線に。相手の一人を毛深い両腕を掴み、力比べの形となって押し合う。だが、すぐにそれを放棄し、こちらに引き寄せた。額をぶつけ、鼻をへし折る。風に斬られ、手頃な石を掴んだ。術者本人に対して投石する。
砂利を掴み、向かってくるもう一人の目に振り掛けた。髪を握り、勢いに任せてその辺の岩に衝突させる。
光や熱とともに放たれた炎が浴びせられた。石を投げ返す。焼かれている筈なのに、不思議と熱くはないのだ。
「あぁっ……」
痛みが走る。人差し指が見ると、青くなっていた。力の加減を間違えた。だが、問題はない。指はまだ残っている。再度、石を投げ付けた。
短剣を鱗で覆われた足の甲へと突き刺し、後ろにいたもう一人に跳び付いて首を絞める。柄を踏み付け、深く刃を通す。
幼少の頃と喧嘩と何も変わらない。傷付けられたと感じたからこそ、傷付け返した。たとえどうなっても、少しでも相手に傷を負わせられるならと。
あの頃、自分は悪くないんだと思っていて、納得出来ずにただ相手が許せなかった。憎んでさえいて。ちっぽけな自尊心が何より大切だった。
一体いつからだろう、誰かに手を上げるのに臆病になったのは………。
「ハァ…、ハァ……ハァ…………」
その時になって、悪意が蔓延する中で一筋の光明を目にする。少しずつ息を鎮め、衣服の汚れを払う。人外の最後の一人を転がした。その奔流は彼らと繋がっているようで。それにあの渦………。
何だったのか、今のは。曖昧で概念的で形のない。感覚に近しかったものが景色として。たった一つの輝かしきものがそっと、背を押すようで。
あぁ………、よく知っている…………。指を―――――…
軽く衝撃が入った。振り返ると住人が数人。武装していた連中とはまた違う。手に持っているのは農具か。
やっと一区切りついたと思っていたというのに。もう全員、殺してしまおうか…………。
掌から指先にかけて力を張り巡らせる。腕を振り上げ、目の前の人々目掛けた。
「駄目だよ、それ以上は………」
整えられた薄紅色の髪が流れていく。いきなりこちらの体勢が崩れ、半身のみが先行する。空中で固定され、磔にでもされたみたいにそこからピクリとも動かせない。横から少女は腕を掠め取っていた。
「アルマさん…………」
見知った顔だった。
「面倒だから言っとくけどさ……。 何もしてこない方がいいよ………」
その場の面々を少女は恫喝する。皆、慄きながらも、手にした物を構えた。そんな彼らを背にこちらの手を引く。あちらが追い掛けてくることはなかった。
「ちょっと待ってください、アルマさん。どうやってここに…!?」
「ねえ……。今からでも、人違いでしたってことに出来たりしない………? 私のことなんか忘れて、回れ右して………」
「流石がに無理があるかと……」
「うぅ…………」
観念した様子でアルマは顔を覆い隠していた手を下ろした。
「ただあの後に二人を追い掛けてっただけ……。ここには……まあ…、突っ切ってきた……」
「突っ切ってきたって、一人で……?」
「別に……。隠れてればいいし、隠れるの得意だし……。 でも、何かここって………気持ち悪い…。頭がくらくらする……」
そう言って頭を軽く叩いた。自分の目に彼女はケロっとしているように映っていたのだが。ルイスと比べれば、まだ軽い方だが、症状は出ているようだ。
「ナナシ君……、それにアルマ。 良かった…」
声のする方を見上げれば、風車に体重を預けるルイスの姿があった。あんな状態で逃げていなかったのか、そう思った矢先にアルマは彼の方へ疾駆する。背後から現れた人外の頭を鷲掴みにし、地面に埋め込んだ。
だというのに、最後の最後で大きな奇声を上げた。振り絞られた声。
「……! 一度、外に出ましょう、一人残らず黙らせない限り終わりませんよ」
「いや……。亡骸さえ回収できれば…、事態は収束させられる………」
「でも、それってどこにあるの………」
追手の猛攻を掻い潜り、アルマは大人たちを千切っては投げた。
「ルイスさん、あそこって何か分かりますか」
神殿の裏手、古びた風車のある方だった。先程、渦を見た所を指差す。
「あの方向に、あるのだと確か……。もしかしてあそこに………?」
「ええ、間違いありません。亡骸があるのはあそこです」
「………。ああ、そうだね…。だったら―――……うっ…」
胸元を抑え、彼は悶える。
「ここは食い止めとく……。 ルイスは預かるから、一人で行ってきて………」
「大丈夫なんですか、それ」
「平気……。無理っぽいなら、ちゃんと逃げるし………」
こちらの袖を力一杯、ルイスは握り締めてくる。暗に彼もまた同意しているようだった。
「でも、時間的にそんなに持たないかも……」
「すみません、お願いします」
丘を登っていく。林に入り、気配を感じて隠れた。
「おいおい、その話は本当か」
「ああ、二人は人間、もう一人は人間のにおいじゃねえ」
何事もなく二人組は通り過ぎていった。古びた風車を越え、突き進んでいけば、二つの岩の重なる場所に辿り着いた。
妖しさがあって、それ以上に近寄り難い佇まいを醸し出す。どこか忌避していて、それでいておこがましいとさえ思えて。神殿とまた違うベクトルで幻想的で、息を呑んだ。
二つの岩の隙間が丁度、入口のようになっている。恐らくあの先だ。そこへ駆け込もうとして、中から出てきた者と鉢合わせる。
「またお前か」
「こっちのセリフだよ」
そう言って巫女の少女は舌打ちをした。隻腕となり、霜の付いた髪を払う。引き連れた犬たちとともに出てくる。顔を隠していた白い布は付けていない。今代の巫女の素顔を見るのは恐らくこれが初めて。やはり知らない顔だ。
「急拵えだ」
そう言って、けしかけられた使いたち。その内の一匹に触れて、その肉体を焼き払う。
ここでなら、出来ると思っていた。いや、出来なければ可笑しい。そう感じてしまうまでに自然と。最初からそのようなものであるかのように。
熱風が吹き抜ける。深く息を吐いた。爪の先から髪の毛の一本一本に至るまで、炎で満たされる。そんな感覚。
親指を擦ると、指の隙間から火が漏れた。そして、掌に灯って巡る。
あの時、ナナがやってみせたのと同じ。
燃え盛る一匹はのたうち回ることさえない。
ただ自然の摂理に従って灰となっていくだけ。
託されたのだ。必ずやり遂げる。
次回で決着ですかね。