1.13 夜の樹海
「援護は任せたよ、出来ればでいいけど」
「え……? いや、ちょっ……」
そう言ってルイスは跳び上がった。真っ向から怪物に突っ込んでいく。近接戦闘はそんな期待出来るものではないと言ってなかったか。彼の背負っていた荷物の留め具が独りでに外れ、開く。
僅かに地面は唸り、怪物の細長い指二本が宙を舞った。
落下の軌道に任せて中身は振り下ろされた。
出てきたのは古びた直剣だ。鍔は短くて切っ先はない。それでいて、刃は彼の身の丈に合わないくらいの大きさがある。多分、人間用ではないのだ。
藻掻いて体をうねらせ、執拗に怪物の口がルイスを追う。風切り音とともに後ろ脚、尾、背面と順に怪物は裂傷を負っていった。身を摺り寄せ合うようにしながらも、それらを潜り抜け、彼は大剣を振るう。背中に飛び乗ってさらにもう一太刀。
技といったものもあるようだが、恐らくルイスの筋肉量と動きは見合っていない。
果たして加勢は必要だろうか。現状では明らかに彼の方が優勢だ。今、また怪物は斬られた。対してルイスは殆ど逃げ切っている。
それより他の生物だ。まずは耳を澄ませてみる。寄ってくる気配は―――――…
―――――けたたましい咆哮が響き渡る。
空気が震える、悲鳴を上げている。耳を塞ぎながらも、自身の腰から二本目の短剣を抜いた。
巨体を起こし、唸り、押し潰そうと怪物は向かってくる。怒り狂った。追い払うことはもう叶わなくなった。痛みに目もくれない。荒らして貪った。
押し寄せる躯幹から逃れようと大木の裏へ滑り込むが、軋んだ。はち切れんばかりに幹は湾曲して抜け出し、回り込んで根元を転がった。打ち付けられた尾を躱す。
盛大に巻き添えを食らった。一斉に蝙蝠たちは騒がしくなる。
一応、先刻と打って変わって鳴き声は聞こえなくなった。ただ、暗さは増すばかり。段々とものが見え辛くなってきている。夜は近い。
旋廻する巨躯から振り落とされ、弾かれて後からルイスが落ちてくる。自分より少し離れた地点にだ。
「いてて……………」
異様に音は大きかったが、受け身を取ったのだろうか。そう時間が掛からず、汚れを払って地べたから彼は起き上がろうとした。枝も泥も、蝙蝠の大群さえも蹴散らして変わらず怪物は疾駆する。
「ごめん、ナナシ君。ちょっと失敗したみたいだ」
「……。囮でもやりましょうか。引き付けておくので、その隙に決める感じで」
「じゃあ、頼んだよ。一応聞くけど、大丈夫だよね?」
「まあ…、見た所いけるでしょう」
二手に分かれて追突を回避する。やはり怪物はまずルイスの方を狙った。
大きく息を吸って腹に力を入れる。怪物の背後から柔らかい皮膚に短剣を突き立て、血は噴き出した。
上手くいってはくれない。結局、そうだ。一番、自分が強い状態だったのは座長と対峙した時だった。あの不自然なまでに自然に体が動いていく感覚。
あれこそが自分にとっての理想と言える。何度か試した。アルマとの決闘の時さえもその感覚を目指したのに。
そのまま降り掛かる返り血を浴びてなぞるように走り抜ける。
この体になってから今まで当たり前にやってきたことが一度、全て出来なくなった。ただ立ち上がることがこんなにも苦痛を伴うものかと。物を掴みことがこんなにも困難なことなのかと。
最後には歩けるようになっていた。けれど、たとえ出来なくても、構わないとさえ思っていた。期せずしてそうなり、決してそれ以上を求めることはなかった。
この先もそれで足りるのだろうか………
噴き出る血液は生臭くて、それでいて温かった。
もう一度、腹に力を入れる。腹を掻っ捌いていくが、怪物の細長い瞳孔が真後ろにまで向く。
「――――――!!」
即座にのけぞるように体を倒す。目の前で強靭な怪物の下顎が過ぎていく。浅かった。空振りした牙が音もなく綺麗に噛み合わさる。避けていなければ、上半身を喰い千切られていたのではないのか。
身を低くしたまま潜った。潜って左右とで全く違う動きをする怪物の片目に短剣を突き刺し、深く押し込んだ。刳り抜こうとするが、抜けない。どこかで引っ掛かった。右手を放し、左手で三本目の短剣を抜いて切り傷を入れる。
怪物の前で短剣を振り回し、誘う。この威嚇に関しては殆どテオの見様見真似でしかない。怪物は付いてくる、糸に引き寄せられるように。
幾度となく怪物は木々とぶつかり、薙ぎ倒した。うねり、地べたに体を擦り付け、砂を巻き込んで追い駆ける。血が滲み、泥に塗れ、身を削ってひたすら擦り切れそうな声音で唸って暴れる。大量の落ち葉が引っ付いては剥がれ、脊椎を捻じ曲げてあらぬ方にまで体を伸ばした。
そろそろいい頃合いか………。
太い幹を喰い破る。背骨を捻って巨躯は旋廻を重ねた。地響きまでもが引き起こされ、頭上を落ち葉が舞い上がる。しかし、舞い上がったのは落ち葉だけではない。喰らい尽くそうとくる大顎から逃れると異なるものが目に映った。
枯れ葉に混じってルイスは体を翻し、舞う枯れ葉を突き抜けて落ちていく。
―――――そして、一閃。
重い先端に力を委ね、彼は大剣を振り下ろした。狙ったのは頚椎。深々と刃は食い込んで血が漏れ出ていく。
最初にまずよろめいた。ふらつきながら巨体は向かってきて倒れた。そこから地に伏したまま。動くことはなくなった。
ゆっくりとゆっくりと虚ろになっていく怪物の目に後から追い付いて、瞼が閉じられる。自分にとって苦痛にも思える恐ろしくも長い長い瞬間だった。
大剣を引き抜いてルイスは血を払い落とし、ズボンを赤く汚して寄ってくる。まな板の上みたいに地面は血塗れでぐちゃぐちゃだった。きっとどこを踏んでも血みどろになってしまう。
「終わりましたが、これからどうします?」
「近くに他の生物がいたりはするのかな」
「いません、音で逃げていったと考えるべきでしょうか」
「そっか………。 なら、今日はもうここまでにしよう」
そう言っている間にドッと暗くなる。自身の剣をルイスが荷物に戻すとまた独りでに動いて留め具が閉められた。太陽の一部が隠れ始めたのだろう。
夜がやって来る。もう少しすれば、辺りは真っ暗になって何もかもが見えなくなる。
◆
氷が張り、冷気を放つ。草花が凍結し、目の前にあるのは氷の壁。
塞がれた向こうは一切の光のない暗闇で夜目ですら何があるのか見ることが叶わない。
「これでいいのかな……」
ルイスの指先に集まっていた光の粒子が発散し、その場に倒れ込んだ。
「これで完成ですか」
「……そうだね。長時間、魔力を注いで作ったものだから…、今夜中は保つと思うよ」
こちらを取り囲んで氷で出来上がった棘だらけの壁は建っている。試しにそれを叩いてみると鈍重な音がした。問題はなさそうだ。汗だくで動けなくなったルイスを中央の焚火まで運んでいく。
それから座り込んで三本の短剣を並べた。こういうのは手入れをしておかないとすぐに錆び付いて使物にならなくなる。
「ん―――――?」
意外と簡単に血液は拭いさられ、滑らかに布は滑っていった。焚火に当てると鈍い金属光沢が顔を出す。刃を擦っていた布の端部分がほんの少し斬れていた。すぐに熱から短剣を離す。殆ど手応えはなかった。
刃に触れようとしたが、やめる。
緩んだ自身の手の中から落ちた短剣はカラン、と甲走った音を立てて地面に転がった。自身の指先が切れてしまいそうな気がしたのだ。刃は薄らと焚火の色を反射していた。それを拾おうとする。
脂っこいものに触れると切れ味が鈍ったりするし、使えば多少の刃毀れとかもすると思ったのだが。そんなのはあまり見受けられない。
「その短剣は素材から既に特別製だよ。ちょっとやそっとじゃあ壊れたりしないんだろうね」
「そうなんですか…。 よくアリッサさんはそんなものを……」
「それに関しては僕もびっくりしたよ」
もし仮にまた会う機会があったのならば、もう一度しっかりとお礼を言うか。
寝転んだままルイスは地図を見て何やら計測しているようだった。傍らでは細々とした煙を上げて薬品が炊かれている。念のため煙を吸わないよう遠ざかった。
「それよりご飯にしよっか、それから話も。もう出来ているんだよね?」
「ええ、血抜きと内臓の処理に関しては上手くいきませんでしたが」
串刺しの肉が数切れ焚火の前で炙られている。あの怪物を腹の辺りのから捌いて取っていったものだったか。一応、食べられそうな部位を選んでそれ以外は削ぎ落した。
「本当に食べられるんですか、これ」
「毒がないのは確かだよ」
一つを摘まんでルイスは口に入れる。露骨に顔を顰めた。自分も一切れを口の中に入れる。
硬い。噛んでも上手く嚙み切れなかった。独特な脂の臭いからゴムを噛んでいる気分で口の中が滑っとする。
ただ、食べれないわけでもない。焚火からもう一切れを摘まんで頬張った。あとはイメージだが、これは最後の最後に目が合ったためだろう。
気を紛らせるためかしかめっ面のままルイスは話を振ってくる。
「そういえば、今日は思ったより先に進んでたよ」
「そうなんですか?」
「多分、予定より早くに目的地に着くことになるんじゃないかな」
「人狼の毛を使ったことやその残りの分を考慮したものですよね?」
「勿論だよ」
どうも実感が湧かない。昼間にあったことといえば、ひたすら動き回って生物に足止めを食らってきたことくらいか。その辺りばかりが色濃く残っている。
「事実、今日のことは事故みたいなものだよ。普通ならあんなに遭遇することもないんだ。図鑑にもそう書いてある」
「………図鑑? そんなのがあるなんて全く聞いてませんが……」
「丸々、中身は暗記してたし、必要ないかなって思って」
「………。…一先ずその図鑑を貸していただけますか?」
「あぁ、いいよ。え――…と。え―…、はい」
厚めの本の背表紙がベロリと捲れてしまう。荷物からルイスが取り出して直接、手渡された際にだった。それに本はシミや傷だらけ。
「随分と古い本ですね」
「悪鬼征伐の頃のだね。その当時は活発に開拓が進んでいったんだ。それ以前は中々、進まなかったけど、フラジャルって人が主導して拍車を掛けた。凄まじいことに化け物だらけの森は次々と切り開かれていったそうだよ。そうやって食糧難は解決して人々は大きな利益を得たわけだ」
「へぇ――…、そんなことが……」
フラジャルか、初めて聞く名前だ。
取り敢えず最後まで軽く覗ていく。それからゆっくりと最初の方から目を通してくと六ページ目に差し掛かった所だろうか。あの拉げた猫の首の挿絵を目にする。
「ここには何て書いてあるんですか? ほら、この一文」
「『触手を獲物が首を吊るように巻き付け、衰弱してから捕食を行う』だね」
サーカスでの体験と一致する。一応、信憑性のあるもののようだ。とはいえ、過信も良くない。ここまで来るのに不測の事態が何度あったことやら。
さらにページを捲るとあの毛の塊の絵があったが、その下にある物に目を引かれる。髑髏マークだった。
「………あの毛の塊って毒があったんですね?」
「そうだね、毛の辺りに成人男性を昏倒させられるのが含まれてるらしいよ」
「その話もまた全く聞かされていませんが………」
「ごめん、ちょっと忘れてた」
「………………」
………果たしてあの時、自分があの毛の塊に触れていたら、どうなっていたことか。
思い返して顔が引き攣る。まずは髑髏マークの付いたものは覚えておくとしよう。次に気にすべきなのは群れで行動する類のものだろうか。
「じゃあ、先に僕は寝るよ、明日は早いだろうし」
「そうですか、分かりました」
そう言って腹が膨れたルイスは毛布に包まった。自分もそろそろ寝るべきか。手元の本はもう残り数ページだ。眠たそうな目を擦ってページを捲っていく。何だか図鑑というより手記に近い気がする。
「―――――っ」
最後の一枚を捲って裏表紙裏を見た時、息を呑んだ。そこにはやたらと見覚えのある建物のシルエットが描かれている。いや、シルエットだけで本当にそれかどうか判別を付けていいのか。不鮮明な箇所は多い。それに、絵の具合からしてかなりの遠目からのものだった。
だとしても、似ている、教団の神殿に………。
特に不完全ながら描かれた石像の雰囲気や配置の部分が。それに仮にそうであるなら、この型……。懐かしい………。
「………。はぁ―――…」
どうせこれも今、考えたって仕方ないことか……。短く嘆息して本を閉じた。錠剤を呑み、毛布を拾って包まる。
昼間に比べ、夜はかなり冷え込む。どこから入ってきたのか蝙蝠が一匹、飛び回っていた。向こうでは静かに寝息を立ててルイスが眠っている。上へ向かってまだ違和感の残る右手を伸ばす。相変わらず空は隠れて見えない。でも、何となく綺麗な星空ではないかと思った。この時代は夜でも割と明るい所があって見える星が減っている。横になったまま体の向きを変える。
寝ても問題ないのだろうか。目が覚めた時に取り返しの付かないことになっていないだろうか。もっと大変なことになっていないだろうか。自身の目を覆い隠す。
日が落ちて辺りが暗くなる度にそんなことを考える。脳裏に不安がを過る。
「ナナ………」
酷い話だ、大切なものは失った時により一層、大切になるのだから。テオがいてベナがいてナナがいて、自分はそれで良かったのに。全部を台無しにしてしまった。自分にとってはほんの短い間で全てが一斉になくなった………。
………やめよう、これ以上は。そんな楽しいことばかりではなかった筈だ。辛いことだって色々あった。美化されている。それに、自分の悪い癖だとベナにも―――…
…―――兎に角、今回のことが終わるまでこのことは頭の片隅に置いておく。終われば、何か変わるかもしれない。また体の向きを変える。
丁度、闇夜から蝙蝠が寄ってきて、それを掴み取った。ギチギチと蝙蝠は手の中で鳴く。指を解かれてしまいそうで生命力の強さを感じる。昼間の個体もそうだ。生きようと藻掻いている。短剣越しでも十二分に伝わってきた。それとあの肉や骨を断ち切る感触……。
そのまま素手で蝙蝠を握り潰す。蟻を潰す感覚と同じ。何も考えず幼い頃みたいに無心でやった。
絞り出されて蝙蝠の口は塊を吐く。自身の顔に纏めて零れたものが降り掛かった。
鉄臭くて血は妙に生温かい筈なのに、指先はやたらと冷たい。息絶えたそれはもう数刻前の生きていた頃のそれとは全くの別物になってしまった。ただの残骸でしかない。内臓は飛び出て、下半身は原形を留めていない。たとえ留めていても、何処かが捻じ曲がっている。
自分がそれをやった。
繊維のようなものが手に絡まり付き、潰した感触が残っていく。胃が締め付けられる感覚がある。ただ無意味に自分の都合で一つの命を浪費した。まだ鳴き声が聞こえる。自身の指が震えた。多分、これは幻聴だ………。
繰り返していけばいい。何度も何度もやれば、きっと何も感じなくなる。またそれで慣れていけばいい。そうすれば、臭いも感触も気にならなくなっていく。
………果たして人間相手に同じことが出来るかどうか。
次の自分にとっての敵は人間になるかもしれない………。
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