1.1 人外サーカス
―――――痛い。
冷ややかな舞台の上。
男は逆さで宙吊りにされていた。
片足は怪物の太い丸太のような腕に掴まれ、おまけに手には動きを束縛するための枷。顔にはお面。
甲高い咆哮を怪物は上げ、力任せに彼は地面に強く叩きつけられる。
鈍い音を立てて彼は地面に衝突し、砂塵が舞う。
怪物の四肢は巨大な猿ようなのに加え、山羊のような頭部。とはいえ、口から覗かせている歯は草食動物のものなどではないのだが。
続けざまに怪物は殴りつけてくる。
吐き出した息は獣臭い。ネバついた唾液は垂れ流され、肉食動物のような立ち並んだ鋭い牙を剝き出しにした。
向こうは自分のことをただの餌としか認識しておらず、肉食獣のように獰猛だった。
幾度となく振り下ろされる拳は徹底的に体に打ち込まれる。一発一発が渾身の一撃ともいえるそれは地響きを巻き起こし、この会場全体を大きく揺らす。
怪物の前ではこちらの小さな体など紙屑も同然だった。
本当に容赦がないと内心で思う。目の前のこいつは自分を叩き潰してから食うつもりなのだろうか。
でも、別にそれでも構わなかった。今の自分にとっては何もかもがどうでもいい。いつだって自身の目に映る世界は暗く、どんよりと濁っている。
希望などはなく、先にあるのは暗闇。前に進むほど、苦しさが増す。ひたすら居心地が悪く、自分の居場所はない。自分は異物なのだ。
それから拭い去れないほどの後悔。とっくに取り返しがつかなくなった。
生きていることがただ苦痛にしか感じない。なのに、辛いことも苦しいことも抱えたまま明日も明後日もやって来てしまう。
きっと周りの連中は自分の死すらも喜劇のネタとして笑い飛ばす。遺ったものは金に替えられる。
あとはこのままにしてればいい、それで―――――
気付けば、手が出ていた。
ゆっくりと伸ばした手は怪物の首を絞め、明らかに自分より重い巨体を軽々と浮かせる。
踏ん張りがきかなくなながらも、抵抗する怪物を余所に手の力は決して緩めない。それどころか強くしていった。
力はこちらの方が上だ。怪物がいくら強引に手を振りほどこうとしても、ピクリとも動かない。
首からは血管が浮かび上がっていた。泡を吹いてもがき苦しみ、先程の咆哮とは違って人間の唸り声のようなものを上げる。
それだけだった。たった数秒にしてなすすべなく、白目を剥き、だらりと怪物の腕が力無く垂れる。
手を放し、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。衣装の下は多少の血が流れてはいるが、見た目ほど酷くはない。数日放っておけば、完治する程度のものだろう。
取り敢えず観客席に向けて一礼し、怪物を持ち上げて舞台を後にする。静まり返っていた観客席は拍手で溢れ出す。
伝染していくようにそれは一つの握手の音をきっかけに次々にあちらこちらに広まっていった。
歓声や拍手もこんな耳障りに聞こえることもあるんだと知る。
「小さい体でありながら、人ならざる怪力。いくらぶたれようとも悲鳴はおろか、眉すらも動かさない様はまさに人形。どうか彼には再び惜しみない拍手を」
司会の男の言葉で弱まっていた拍手の音がもう一度だけ鳴り響く。当然、その男もまた人間ではない。確かに首から下は人間のものだが、首は蛇であり、チロチロと細長い舌を出し入れをしていた。
「しかし勘違いしちゃあいけません、人外が入り混じるここではこんなのは前座に過ぎない。ここから先に待ち受けているのはあなた方自身の目すらも疑うような奇怪な光景。しかし忘れてはなりません、それら紛れもなく『本物』であり、信じられるのはあなた自身の目だけであることを。苦手ならお帰りいただいて結構、見ると決めた勇敢な方々には最大限の敬意を表しましょう」
恐怖など忘れてしまったかに思えるような熱狂的な歓声で満ちるが、司会の人差し指を口元に当てた静かにというサインですぐに予め示し合わせていたかのごとく静まった。
その様子を舞台裏に戻った彼は垂れ幕の隙間から眺める。手枷を外し、衣装を脱いで先程の怪物との戦いでついた汚れを適当に払う。
見た目は十歳前後だろうか。色が抜け落ちたような白髪に白い肌。何よりも特徴的なのは首の右側。そこに刻まれた曲がりくねりながらも、最後には上へ向かって伸びる幾重もの赤線は燃え盛る炎を連想させるものだった。
「もう終わりにしちまったのか、新入り。もったいねえ」
そこへ小太りで立派な髭を生やした男がムスッとした顔をしながらやって来る。
「そうは言っても、先程のが限界ですよ」
「それがどうした。引き延ばせば、もう少し盛り上がった筈だ。血みどろな殴り合いになっても構わなかった」
「成程。その発想はありませんでしたね」
脱いだ衣装を手渡そうとするとムスッとした顔のままそれをひったくるように取っていった。
「外が騒がしいようですが、何かあったんですか?」
「どこぞの馬鹿の連れが喚き散らかしてるんだよ。何せ面白半分で団員に手を出した挙句、目の前で腕が食い千切られちまったからな」
「うわぁ…………またですか、やはりドクターが腕の接合を? 腕が突然喋り出すなんてことがなければいいんですが」
「全く、ここじゃあ自分の命も自己責任だって理解してねえ奴ばっかりだ」
「そこは事前にちゃんと説明してなかったんですか?」
「馬鹿にはそれが無意味だっただけだ」
幕の隙間から部隊の様子を眺めると芸の間だけは先程の熱狂が嘘のように観客席は静まり返っていた。中には年端もいかないであろう子供も。楽しんではいる。ただ、同時に恐怖やら緊張感やらでギスギスしていた。
「大半の人は危険な場所だと分かってるのに、毎回よく集まってきますね」
「平和に飽き飽きしてるんだろ、さぞや良識が邪魔だっただろうがな」
口の中の鋭い牙を見せつけるかのように座長はニッと意地悪い笑みを浮かべ、開いた檻に向かって強く蹴飛ばしてきた。
「今の時代、かつてないほど人と人外の境界が明確に隔てられている。人間は境界の向こう側の景色を見ることさえ出来ない。そこへ構えてりゃあ客どもは馬鹿みたいに金を落としていく。ボロい商売だ」
「そういうものですかね、僕からすれば平和が一番なんですが」
「今日はもう寝ろ、明日はきっちり俺らのために働いてもらうからな」
そこまで言うと檻は閉められ、座長は南京錠に鍵を掛けた。恐らくこの檻は明日まで開くことはないだろう。先程とは異なり、足にも枷がつけられている。枷から伸びた鎖は壁に固定され、移動出来る範囲が極端に狭められていた。
「何やってるんだろうな…………」
座長が去って行くとその場にゆっくりと座り込んだ。大したことはしていないつもりなのに、体はこんなにも倦怠感で溢れている。
ああ…………、自分は死に損ねたのか…………。
苛立ちを覚えた。果たしてそれは何に対してのものなのだろうか。出来るなら考えたくない。
ずっと苦悩が脳にこびりついて離れない。どれもどうにもならなくなったで済ませるしかなくなったものばかり。足を引くようについて回り、逃れることが出来ない。
何かをすれば苦しくて、何かをしなくても苦しくなる。挙句の果てに自分でも何がしたいのか分からなくなってしまった。
抱え切れないだけのものを抱え、今にも押し潰されてしまいそうだった。
垂れ幕の隙間からは変わらず団員たちの演技は続いている。胃袋に百匹の毒虫を飼う男や黄金の豹、青銅の魔人、透明人間。それから二人の女性、犬、猫、羊。あとは……………………何なのだろう。
実に様々で奇妙なものばかりだったが、ただ眼球を動かして視界に入るようにそれを追っているだけ。段々と頭に入ってこなくなる。
「―――――どうして君は何もしないのかな?そんな檻なら、どうにかできるだろうに」
暗闇の中から耳慣れない声が聞こえた。そこへ目を向けるが、暗がりで肝心の声の主の姿は見えず、足音だけは近付いてくる。
声の主である青年が隙間から漏れる光の中に足を踏み入れ、その姿をあらわにした。
どこかで会ったような気もするが、どこで会ったのだろう。このサーカスに彼のような団員はいなかった筈だ。
着ている衣服はかなり使い古されてはいるが、中々上等なものだったと窺える。貴族らしい装いではあるが、威張っている様子は少しも感じられない。むしろ、彼からはどこか優しそうな雰囲気が感じられた。
「えっと………、どちら様で?」
団員たちの五感は人間よりも遥かに優れている。警備は手薄ではない筈なので、一般人がそう易々と入ってこれるとも思えない。だとすれば、客人だと考えるべきか。そんな話は一切聞いていないのだが。
「そうだね、強いて言うなら君のファンかな」
「……………?」
彼はファンだと言ったが、どうもそこが自分にはよく分からない。自分はあくまでも今夜限りの代役。さらに言えば、芸に関しては素人でしかない。
「僕が言うのも何ですが、あまりこんな所に来ない方がいいですよ。人格が捻じ曲がったりなど、精神衛生上よくないらしいので」
「ご忠告どうも。でも、別にこのサーカスを見物するために来たわけじゃないよ。目的はあくまでも取引だ」
「取引?座長とですか?」
「君とだよ」
そう言って彼は手を差し伸べるようにこちらに向かって手を伸ばす。
「僕は君が一番欲しがりそうなものの在り処を知っている、代わりに君には僕に協力して欲しい」
それはごく普通の提案だった。問題があるとすれば、言う相手が悪かったと言わざるを得ない。
彼が触れているのは最も脆く、繊細な部分。自分にとっては侮辱のように感じる。傷口を穿り返されているようだった。
「僕の一番欲しがりそうなものですか………。そんなものはありません」
「あるんだよ」
針に刺されたような痛みが胸に走った。
さらに深く傷を抉られた。
「結構です、聞きたくありません………………」
「せめて話は聞いてもらいたいんだけどね、きっと君のためになると思うから」
「は…、ははは……。……………ふざけるな」
思わず自嘲めいた笑いが漏れ、それからグッと歯を食いしばる。高揚していくとともに自分の心がボロボロと崩れ落ちていく感じがした。
「貴方は僕の何を知ってるっていうんだ。大切だった全てがなくなってから、何も欲しくなくなった。もう何もいらないし、僕が欲しかったものは絶対に手に入らない。貴方の言ったことは全部が出鱈目だ」
色んなものが許せなくなって、腹の奥にしまっていたものをぶちまけてやった。
今、自分がどういう顔をしているのか分からない。きっと酷い顔をしているのだろう。歪で気持ち悪い、そんな顔を。
「…………だから、もういい」
彼に対してか、あるいは自身に対してか。誰に対して言っているのだろう。ちっとも気は晴れない。余計に塞ぎ込みそうになる。
そもそも何故、自分は初対面の相手に八つ当たりをしているのか。
ぐらついた情緒が立て直され始める。ようやくみっともない真似をしたんだと理解していく。こんな話も彼に対してすべきではなかった。それらは全て自分だけのものだ。
「……………すみません、言い過ぎました」
きっと気を悪くしたに違いない。この話もここで終わりになる。
俯いて小さく縮こまった。
「―――――知っているよ」
「え………?」
「君が歩んできたここまでの足跡も君の今日まで抱えてきた想いも、その全てを僕は知っているんだ」
彼の反応は予想だにしていないものだった。顔を上げると彼は優しく微笑みかけ、余りにもまっすぐな目でこちらを見ていた。嫌な目だ。彼の言葉が嘘偽りのないものだと信じてしまいたくなる。
「貴方、本当に何者なんですか?」
「君をこのサーカスに売った女性の孫。と言っても君には馴染みがないか。 僕はルイス、ルイス・ライラック」
そう言ってルイスと名乗った彼は軽く会釈をする。
「……………ライラック? それってテオの…………そういえば、目元がそっくりだ」
「君のことは僕のご先祖様、テオ・ライラックから伝え聞かされてきたんだよ」
一瞬だけ心臓が止まりかけそうになった。まじまじと彼の顔を見て、ようやく友人の男の面影があることに気付く。流石は子孫というべきか。とっくの昔に関係なんてものは断ち切られていると思っていた。自分のよく知る男性と彼の雰囲気は似ても似つかなくて寂しさを感じてしまう。でも、この時は驚きの方が勝った。
「何かここだけジメジメしてない?」
「ああ……。ここは今朝、雨漏りが酷かったので、そのせいかと……」
そう言って彼は辺りを見渡しながら首元を手で扇いだ。
そういえば、何だか黴臭いような気もする。
「それで僕は君のことを何と呼べばいいのかな? 実はまだ君の名前を知らないんだ」
「………てっきり知っているのとばかり。伝え聞いたりしていないんですか?」
「それが全く。どこかで途切れちゃったんだろうね。ちなみに全て知っているっていうには流石に過言だよ。 言葉に説得力を持たせるためのものだし」
「えぇ………………」
彼もまたこちらの名前を知らなかった。ただ、意外とがっかりすることもなかった。元々、諦めかけていたからだろうか。さて、どうしたものか………。
「…ナナシ、それが僕の名前です。家名はありません」
自分の名前を思い出すことは出来なかった。だから、敢えてそう名乗った。
初めてそう名乗った時の彼女は今でも覚えている。
理由はいくつかあったが、一番は忘れたくなかったんだと思う、その名前を最後まで覚えていられるようにと。
「それじゃあ、ナナシ君。少し話そうか」
ルイスの表情や周囲の空気ががらりと変わり、張り詰めたようなものになる。
事実、そこから先は本当に恐ろしいものだった。
この作品を読んでいただき誠にありがとうございます!!
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