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初の女帝が誕生します

崇峻暗殺という異常事態の中で次期大王を誰にするかが問題となった。候補者は三名である。

・押坂彦人大兄皇子:敏達の長子。

・竹田皇子:敏達と炊屋媛の子。

・厩戸皇子:用明の長子。


敏達は用明の兄であり、押坂彦人大兄皇子の方が大王家の直系である。蘇我氏の血を引く厩戸皇子や竹田皇子よりも、押坂彦人大兄皇子の方が大王家の血が濃い。しかし押坂彦人大兄皇子は蘇我氏と無縁であるばかりか、先の蘇我物部戦争においても中立を貫いている。


血統からは押坂彦人大兄皇子であるが、蘇我氏としては蘇我系の皇族を皇位につけたい。そうなると竹田皇子か厩戸皇子が候補になる。この時の皇族の実力者は炊屋媛である。炊屋姫は欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛の間の娘で、用明天皇の同母妹である。容色端正で立居振る舞いにも過ちがなかった。一八歳で、敏達天皇の皇后となった。額田部皇女と言われるように額田部の民を伝領しており、経済力があった。


炊屋媛の子の竹田皇子ならば炊屋媛の支持も得らえる。しかし、竹田皇子は幼少・病弱であった。となると厩戸皇子になるが、そうなると竹田皇子が大王位になる可能性が遠のき、炊屋媛は面白くないだろう。善徳は決めかねる中で、ウルトラCとして大王家の有力者である豊御食炊屋姫を推すことにした。


群臣は大王即位をお願いしたが、炊屋姫は辞退した。百官が上表文を奉り勧め、三度目に至り、遂に従われた。この三度目で受けることは、三顧の礼に見られるように中国の慣習に倣ったものである。炊屋姫は一二月八日、豊浦宮(奈良県高市郡明日香村豊浦)で即位する。


初の女帝になるが、古くは女王卑弥呼や壱与を戴いた伝統があり、混乱なく受け入れられた。ここに大王は祭祀に専念し、政治は蘇我氏が行う体制が確立した。推古は豊御食炊屋姫という名をおくられたが、豊は美称、御食は神への供え物、炊屋は米などから飯を作る建物を指す。卑弥呼とは既婚者という点で異なるが、卑弥呼と同様に巫女的な役割が期待された。


推古天皇より、しばらく女帝が登場する。女帝は皇女であることだけでなく、皇后であることが重要であった。継承者が病弱・幼少の皇子である大王家の後見人的な位置づけである。このため、藤原氏が皇后を出すようになると女帝はなくなった。


日本史知識では聖徳太子が摂政皇太子となったとされるが、この世界は違っていた。まず摂政という官職はない。君主に代わって政務を摂るという動詞である。摂政皇太子は君主に代わって政務を摂る皇太子になる。しかし、皇太子は存在しない。だからこそ毎回、天皇の没後に後継を巡り混乱が生じている。推古朝は大王が祭祀、蘇我氏が政治という分業であった。


推古三年(五九五年)に高句麗から仏僧の恵慈が来朝する。百済からも仏僧の恵聡が来朝する。二人は朝鮮半島情勢だけでなく、隋の制度や文化についても善徳に教える。これは日の遣隋使に活かされることになる。


この時代の外交と言えば専ら朝鮮半島であった。善徳の朝鮮半島に対する外交方針は、前代の継承から出発した。即ち任那復興を目指し、百済と結んで新羅と対抗する。しかし、国際感覚ある善徳にとって、元々先進国であり、一層急速に力をつけつつある半島諸国から任那を奪還することは夢物語であると十分認識していた。加えて百済が新羅と比べて格別信頼に足る相手でないことにも気付いていた。


推古四年(五九六年)一一月、馬子が発願した法興寺が完成する。法興寺は元興寺・飛鳥寺・明日香寺・本元興寺・建通寺等と数多くの名前を持つ蘇我氏の氏寺である。善徳が寺司に任命される。この日から、恵慈・恵聡が法興寺に入った。善徳は寺司となることで、朝廷の身分秩序とは異なる権威を持つことになった。


推古五年(五九七年)一一月、難波吉士磐金いはかねを新羅に派遣した。「吉士」は大和朝廷の姓の一つであるが、元々は朝鮮の「首長・族長」を意味する語であった。磐金は翌年四月に帰国してかささぎ二羽を献上した。 この鵲は難波の杜に放し飼いにされた。二羽はつがいであり、木の枝に巣をつくって雛をかえした。


推古八年(六〇〇年)二月、任那が新羅に対して反乱を起こした。推古は任那を救うことを決意し、境部摩理勢を征新羅大将軍に、穂積祖足を副将軍に任命して兵1万余を派兵した。摩理勢は馬子の弟であり、蘇我氏一門である。摩理勢は大将軍になったが、実際に出征はしておらず、祖足が実質的な大将軍であった。ここには朝鮮半島への介入に消極的な善徳の意向がある。


穂積祖足率いる倭軍は表向き快進撃であった。新羅は殆ど抵抗らしい抵抗をせず、新羅の五城を攻め落とした。新羅王は降伏を表明した。朝廷は難波吉士神みわを新羅に、難波吉士木蓮子いたびを任那に派遣して終戦処理にあたらせた。新羅王は倭軍が攻略した五城を割譲し、長く日本に臣従・朝貢することを約した。任那も倭国に使節を送り、調を貢進することとした。しかし、倭国が兵を引いた途端に再び任那に出兵した。任那の調を納める約束も反故にされた。


善徳は朝鮮半島だけでなく、東アジアの超大国・隋にも目を向けた。善徳は推古八年(六〇〇年)に第一回遣隋使を送る。倭の五王による遣宋から百年以上を隔てた外交使節の派遣である。政治を取り仕切っていた善徳が倭国王を名乗った。中国は女帝を認めない国であり、これは相手に合わせる意味もあった。


隋書倭国伝では開皇二〇年(六〇〇年)に倭国王の使者が隋の都に至り、皇帝の文帝(楊堅)に拝謁したと記載されている。倭国王を「姓は阿海あめ、字は多利思比弧たりしひこ、号は阿輩鶏彌(あめきみ、おほきみ)」とする。阿海多利思比孤は天足彦である。阿輩鶏彌は天王または大王である。王を女帝とは記していない。多利思比孤には妻がいて、「鶏彌けみと号す」と書かれている。鶏彌は君を指す。


倭国の使者は皇帝に自国の風俗を説明した。

「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としています。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねます」

これは日中関係の暗喩である。天は中華の皇帝を天子というように隋、日は太陽神アマテラスの子孫である倭を意味する。倭国の使者は、隋と倭は兄弟の関係にあると説明した。

これに対して皇帝は「これはまったく理屈に合わない」と言った。隋と倭は君臣関係であると改めさせた。外交的には隋のペースで終わったが、隋の制度などの情報収集には成果があった。


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