仏教を信仰しますか
欽明天皇が崩御すると敏達天皇が即位した。蘇我氏も稲目の息子の蘇我馬子が大臣になった。蘇我馬子は飛鳥川の辺りに屋敷を構え、その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。これが嶋大臣と呼ばれた由来である。物部鎌姫大刀自連公は物部守屋の妹である。物部氏も大和朝廷を支える有力氏族であり、ライバルになり、政略的な結婚であったが、夫婦仲は良かった。
敏達一〇年(五八一年)に、欽明天皇と堅塩姫の娘である炊屋媛(後の推古天皇)は敏達天皇に仏教について話した。
「祖父(蘇我稲目)から『仏法を憎むことなく、捨てないように』との遺言を受けた。しかし翌年に仏法の諌止により、仏法を怠ってしまった。その翌年には父(欽明)天皇の遺言も受けている。『仏法を憎んで捨てることのないように。今後も物欲捨て、終生仏神を祀り、自分のものにしないように』ということです。このように、二度、遺言を受けた。しかし、仏法の諌止により、十余年の間、仏法を怠ってしまった」
敏達は答えた。
「今でも尚、他の臣等は、我々と同じ気持ちにはなっていない。だから、もし仏法を行うとしたら、密かに行うべきだ」
敏達一三年(五八四年)九月、百済から来た鹿深臣が弥勒菩薩石像一体、佐伯連も仏像を一体持ってきた。これも朝廷で祀ることができず、馬子が請けた。仏像二体を手に入れた馬子は、鞍部村主司馬達等、および池辺直氷田を四方に派遣して修行者を探させた。
播磨国で還俗した高麗の恵便が見つかったのでこれを師匠とし、司馬達等の女嶋を出家させて善信尼とし、さらに漢人夜菩の女豊女を禅藏尼に、錦織壺の女石女を恵善尼にそれぞれ出家させて法会を行った。
ところが、敏達一四年(五八五年)三月、廃仏派の物部弓削守屋大連と中臣勝海連が最近国に疫病が流行するのは仏教を信ずる者がいるからと敏達に迫り、仏教を止めよとの詔を得た。そして蘇我馬子宿禰が造成した仏殿、仏塔を壊し、仏像を難波の堀江に捨てさせた。さらに佐伯造御室を派遣して三人の尼を逮捕して引き出し、杖刑に処した。
善徳は仏教浸透に情熱を注いだ蘇我氏の嫡男であり、仏教の信奉者となるのは自然のことであった。二一世紀からの転生者にとっては仏教の方が馴染みやすいということもある。当時の仏教は宗教であるだけでなく、科学技術も含めた知識体系であり、未来知識を披露する上で仏教を口実にすることは都合が良かった。
この世界では厩戸皇子が仏教の熱烈な信奉者という話を聞かない。蘇我系の皇子であり、崇仏派に属するが、突出している訳ではない。そもそも仏教信者でなかった用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた厩戸皇子が生まれながらに仏教信者となる理由はない。