蘇我稲目が大臣です
蘇我氏興隆の祖は蘇我稲目である。善徳の祖父になる。稲目は宣化天皇元年(五三六年)に大臣になる。蘇我氏ではっきり分かっている存在は稲目からであり、稲目より前の代の実在を疑う見解もある。
「稲目よ。汝を大臣に任命する。我が朝廷の繁栄のために、汝の力が必要である。」
宣化天皇は厳かな表情で言った。
「臣は常に朝廷に尽くす覚悟でございます」
稲目は深く頭を下げながら、職務に忠実に尽くすことを誓った。
「稲目様、あなたの存在は大和朝廷にとって極めて重要です。我々はあなたの指導を心待ちにしております」
林田直が発言した。朝廷には新たな大臣への期待と熱い想いが溢れた。
稲目は欽明天皇の代でも引き続き大臣であった。
「稲目、汝が大臣である限り、朝廷は安寧に保たれん」
安閑・宣化朝と欽明朝の並立と言っても大臣は同じであり、激しい対立を意味しない。王朝並立と言っても後の南北朝のように必ずしも対立していた訳ではない。大連が物部氏と大伴氏と二人いたように大王が二人いても不思議ではない。
稲目は自分の娘を二人も欽明天皇に嫁がせることで勢力を強めた。堅塩媛と小姉君である。天皇の外戚として権力を握ったと言えば藤原氏が有名であるが、蘇我氏が先駆者である。しかし、蘇我氏が最初ではなく、その前の五世紀に葛城氏が外戚になり、大王と並ぶ権勢を誇った。
外戚政策は蘇我氏のライバルの物部氏には難しいことであった。物部氏などの連の氏族は大王に分業で奉仕する譜代の家臣である。これに対して臣の氏族は地名を名字とし、元々は大王と同列の豪族であった。妃は臣の氏族から出していた。
稲目は屯倉の経営に積極的に乗り出した。屯倉は大和朝廷の直轄地である。稲目は吉備に白猪屯倉や児島屯倉を設置した。白猪屯倉は鉄の生産地であり、鉄を優先的に入手できるようにした。児島屯倉は交通の要衝であり、水軍の拠点のある場所で、瀬戸内海の水運を掌握した。
「屯倉を発展させ、大和朝廷の力を強化するためには、仕組み作りが必要だ」
稲目は机に資料や地図を広げて熱心に作業していた。そこに林田直が入ってきた。
「大臣様、白猪屯倉と児島屯倉の状況を報告いたします」
「よろしい、早急に報告を頼む」
「白猪屯倉では、鉄の生産が着実に進んでおり、品質も向上しています。児島屯倉では、水軍の拠点としての機能が確立され、瀬戸内海の水運を牽引しています」
「よくやった。しかし、これだけでは足りない。屯倉の経営をさらに効率化するために、システムを確立しなければならない。田令を任命し、名籍を作成する。これによって、耕作者の課税を公正に行うことができるだろう」
田令は屯倉の現地管理者である。田令という言葉は律令制でも残存した。霊亀元年(七一五年)の郷里制では郷の責任者は郷長と定められたが、たとえば讃岐国阿野郡林田郷では田令が使われ続けた。名籍は耕作者の名簿である。政府が耕作者を把握することは律令制の先駆と言えるものである。稲目の施策によって屯倉の経営をシステム化がされ、収益が増大した。
欽明朝の大きな論点は仏教の受容であった。百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した。これが公式な仏教伝来である。公式な仏教伝来であって、それ以前から渡来人達は私的に仏教を信仰していた。渡来人と結びつきの深い蘇我氏にとっても初めて知ったものではなかった。
「仏教を礼拝するべきかどうか、この重大な問いに皆の意見を聞きたい」
欽明天皇は臣下に尋ねた。稲目は慎重に仏像に向かい、深く拝礼する。その様子を、物部尾輿と中臣鎌子は注視している。
「私はこの仏像に心からの敬意を表します。仏教は大陸の優れた文化であり、受け入れましょう。仏教の教えは我が国にも深い智慧をもたらすことでしょう」
蘇我稲目が答えた。
「稲目の言葉、私にも心に深く響きました」
尾輿と鎌子は驚きと不満の表情を見せた。
「外国の神を受け入れれば、日本古来の神が怒るでしょう」
尾輿が慌てて反対意見を述べた。物部氏は軍事を司っていた。物部は武士の語源とも言われる。物部氏は石上神宮を奉じる神祇の氏族でもあった。仏教によって石上神宮の権威が低下することを危険視した。
「仏教は徹底的に排除すべきです。中臣氏は神祇を司っており、その立場から仏教を受け入れることはできません」
中臣鎌子も反対した。中臣とは人と神の中という意味である。
「成程、各氏族の立場が異なることは理解できる。では、稲目よ、試しに仏像などを拝んでみるがいい」
欽明天皇は稲目に仏像などを授けて試しに拝んでみることを命じた。
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏は大和朝廷の二大勢力であり、対立は不可避であった。財政を抑えた蘇我氏であったが、当時は財力よりも軍事力が物を言う時代であり、朝廷において物部氏の強硬な反対を押し切ることは困難であった。そのため、仏教は信仰を希望する蘇我氏が私的に行うことのみが辛うじて許されたに過ぎなかった。しかも、それすら廃仏派により、妨げられた。
疫病が蔓延し、人々の不安が増大した。
「疫病が国を襲っております。この災いの原因は、蕃神への礼拝によるものです。国神が怒られたのです」
朝廷で尾輿が欽明天皇に奏上した。
「ならば、仏像を廃棄し、国神の怒りを鎮めねばならぬのか?」
欽明天皇は悲しげに言った。
「はい。仏像は難波の堀江に流し、寺を焼き払うことが良いでしょう」
鎌子が答えた。
「しかし、仏像は…」
稲目は驚愕の表情を浮かべて発言した。
「この災いを鎮めるためには、厳しい決断が必要だ」
欽明天皇は厳しい表情で言った。稲目は天皇の命令を受け入れざるを得なかった。