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大王は相対的な存在です

系図では蘇我石川宿禰の子が蘇我満智である。石川宿禰否定説に立てば満智が蘇我氏の初代になる。渡来人説には満智を百済の官人の木満智とするものがある。五世紀末の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済に分かれていた。高句麗は朝鮮半島の北部、中国東北部南部、ロシア沿海地方を支配した。新羅は朝鮮半島南東部、百済は朝鮮半島南西部を支配した。

中国は北部を北魏、南部を宋が支配する南北朝時代であった。高句麗は北魏、百済や倭は宋に朝貢していた。ところが、高句麗は宋にも朝貢するようになった。これに対して百済では対抗して北魏にも朝貢しようとする意見が出た。

「八方美人外交は結局、どちらからも信用されない。宋との関係を深めるべき」

木満智は反対したが、逆に糾弾された。木満智は百済を去り、倭の葛城の曽我を開拓して住んだ。木満智は雄略天皇に仕え、宋との外交強化を進言した。雄略天皇は宋に朝貢し、上表文を出した。これは宋書倭国伝に倭王武の上表文として記録されている。

石川宿禰を昆支王とする説も、満智を昆支王の娘と婚姻して入婿となったとし、石川宿禰と満智の両方を認める説がある。


満智は斎蔵いみくら内蔵うちくら大蔵おおくら三蔵さんぞうを管理した。満智の子が韓子からこである。韓子は新羅征討に参加した。その子が高麗である。高麗の子が稲目である。


蘇我氏の勢力拡大の背景には継体王朝への転換がある。天皇家は万世一系ではない。武烈天皇が後継者を定めずに崩御し、応神天皇の五世の子孫とされる継体天皇が即位した。これは事実上の王朝交代である。

とはいえ、武烈天皇に仕えた大伴氏や物部氏が継体天皇の重臣になっており、旧王朝を滅ぼして新王朝を設立するほどの変革ではない。事実か否かは別として継体天皇が応神天皇の五世の子孫と称したことは血統原理が大王になる上で必要だったことを意味する。

また、継体天皇は大和に入るまで二〇年を要しており、旧勢力に継体王朝への抵抗勢力が存在したことも確かである。それが葛城氏であり、継体天皇を支持した蘇我氏が代わって勢力を拡大した。


継体天皇の後は安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇が即位した。三人とも継体天皇の子である。安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇の即位の順序は曖昧である。

第一説は安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇と兄弟が順々に即位したとする。

第二説は二朝並立説である。継体天皇の死後に安閑天皇と欽明天皇が共に即位し、安閑・宣化朝と欽明朝が並列したとする。


二朝並立説の出る背景には母親の相違がある。安閑天皇、宣化天皇の母親は尾張草香の娘の目子媛である。尾張草香は尾張の豪族であり、継体天皇の支持母体である。欽明天皇の母親は仁賢天皇の娘の手白香皇女である。継体天皇と手白香皇女の婚姻は新王朝と旧王朝の架け橋であり、欽明天皇は新旧王朝の統合の象徴になる。つまり安閑天皇、宣化天皇と欽明天皇は新王朝を重視するか旧王朝との調和を重視するかの対立になる。


大和朝廷の大王おおきみは後世の天皇のような臣下と隔絶した存在ではなかった。大王、大連おおむらじ大臣おおおみは皆、朝廷の有力者であった。王と臣という漢字を見ると上下関係は明確であるが、漢字は後から付けられたものである。


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