第58話 月の出
鯛のあら汁はやはり旨いです。
※2021/10/28より改行修正入れております。内容には変更ございません。
アリオが農耕地に出ると月はまだ出ておらず、空いっぱいに星が散りばめられていた。
夜空に雲がゆっくりと流れて行く。
雲が出ることはあっても、アインに雨が降ることはほとんどない。1月の終わりに、3週間ほど雨が降り続ける"雨季"があるだけなのだと、サラマーラが言っていた。
こんな夜道に出るのは、森でテオと暮らしていた時以来だ。
ドロアーナで夜の用心棒をする時は、日が登り切るまでカーサスとトムが、絶対に店から出してくれなかった。お陰でカーサスの店がなんの商売をしていたのかよく分かったものだ。
森で暮らしていた頃、テオは月夜になると、たまに水の精霊たちと散歩へ出掛けた。後ろからこっそりついて行こうとすると、すぐにミランダに見つかるのだが、テオはアリオの手を掴むとそのまま唄を歌って歩き出すのだった。
彼が死んでからミランダの声が聞こえないのは、きっと彼女が彼と一緒に海へ去ったからに違いないと、アリオはそう思っていた。
「あいつ何処まで行くんだ」
薬草庭園から見えた人影を追って走ってきたが、なかなか追いつかない。畑の間の大きな道を抜け、気がつくと森の端まで辿り着いてしまっていた。
森からは水路では無く、ひと筋の小川が流れ出て、側の田園に流れ込んでいる。
小さい頃、テオと遊ぶとたまにこういうことがあった。テオの足は大して速くないのに、森に入ると決して追い付けない。
彼の姿が見えなくなりアリオが不安になる頃に、決まって唄が聞こえるのだ。
そんなことを考えていると森から歌声が聞こえ始めたので、心臓が飛び上がりそうになった。明らかにエリアーデの声だったが、アリオは不安そうに唾を飲み込むと、薄暗い森へと踏み込んだ。
気がつくと雲が広がり始め、星明かりだけでは進む先がよく分からなくなる。アリオは背中の聖剣へ話し掛けた。
「なあ、シャーリーン」
「私も今話し掛けようと思っていた」
隣に光り輝く美人がいきなり現れたので、アリオは思わず転びそうになった。シャーリーンは酷く不機嫌な様子だった。
「なぜ私を連れて来た? そろそろおこぼれに預かろうと思っていたのに」
「ええ…そっちかよ」
アリオは呆れた表情になるのをグッと堪え「頼むよ」と呟いた。すると、シャーリーンが居た場所に光輝く球体が現れる。
「先に言っておくが、私はお前らの仲直りは手伝わない。さっさと済ませて広間に戻るぞ」
光は歌声の方へ、すうっと森の中を進んで行く。しばらく行くと雲が晴れたのか、また微かな光が森の中に溢れ始めた。
目の前をちらつく光の玉に、アリオはテオを追い掛けているような錯覚に囚われていた。
突然、歌が途切れて短い悲鳴が森の奥に響く。
アリオは血相を変えると、弾かれたように駆け出した。置いて行かれたシャーリーンは「おい」と怒りながら後を追っていく。
木の根を飛び越えながら夢中で走っていると、急に開けた場所に出た。そこは小さな泉で、夜空が水面に写りきらきらと輝いている。
手前の岸にエリアーデが倒れていた。良く見ると、彼女の前に、白く透けた少年がかがみ込んでいる。
「エリーから離れろ!」
アリオは聖剣を取って少年の首に当てた。後ろから、追い掛けて来たシャーリーンが抗議する声が聞こえるが、それどころではない。
「お前、私を置いて行っただろう。怒ってるぞ」
「そういうの今いいから!」
アリオは隣に現れた美人の方は見ず、エリアーデの手を握る少年を睨み付ける。
しかし、唐突に足首を掴まれてぎくっとした。少年を通り抜けて、エリアーデの手がアリオを掴んでいたのだ。
「ア、アリオ…? フランシスが見えるようになったんですね! 違うんです…フランシスは私を助けようと…問題は足元の水の精霊です!」
フランシスと呼ばれた少年は振り返ると、アリオの顔を見て冷笑して消えた。一瞬見えたこの世のものとは思えない美しい顔は、その目が笑って居なかった。
フランシスが消えた先を見ると、水から青ざめた白い手が伸び、彼女の細い足首を掴んでいた。姿を消した少年の代わりに、アリオは急いで彼女の手を掴んだ。そのまま立たせようとするが、水の精霊の引く力が思ったよりも強い。
どうしようかと焦り、アリオが聖剣を強く握り締めると、それはにわかに輝き始めた。彼は聖剣の光に気がつくと、容赦無く白い手へ振り下ろす。
精霊の手が切り落とされると、衝撃で水面が大きく波打ち、切り離された手はたちまち水に戻ってしまった。エリアーデは足が動くようになると、慌てて立ち上がり難を逃れる。
「何するのよ〜! こんなのちょっとしたイタズラでしょ! イ・タ・ズ・ラ! 手を斬るなんて信じらんな〜い」
そう言いながら、青白く透けた少女が泉の上に浮かび上がった。アリオはエリアーデを背中に隠すと、聖剣を構えたまま少女に狙いを定めた。
「水なんだから、どうせ斬られたくらい屁でもないんだろ?」
アリオの指摘通り、彼女の腕はすでに再生していた。エリアーデが背中で憤慨する。
「アリオ、その言い方はよろしくありません」
「そういうの今いいから…ていうかソウル・スフィア忘れんなよ!」
「あれが無くても私は魔法を使えます!」
「はっ! どうだか…」
そのやり取りを見ていた水の精霊は、なんの脈絡も無く突然吹き出した。
「やだ、な〜に? あなたたちそういう仲なの? 面白いから話ぐらい聞いてあげても良いけど、代わりに剣を下ろしなさい」
アリオは「やだね」と短く言い捨てた。頭の中でシャーリーンが反論する。
『この女は悪い奴じゃないし、相性的にも私じゃ倒せないぞ』
その反応にアリオは短くため息をつき、諦めたような表情で剣を鞘に戻すと、シャーリーンへ言い返した。
「お前はどっちの味方なんだよ?」
「大丈夫です、アリオ。フランシスなら、その気になれば押さえられます」
エリアーデが彼の背中から出て来て片手を構える。アリオは先ほどの嫌味な笑顔の少年を思い出して顔を顰めた。
「剣は下ろした。約束どおりにしろ」
「はいはい。別にどうこうする気はなかったのよ、本当に。2つ目の試練について聞きに来たのかと思って…」
「2つ目の試練?」
アリオは精霊の言っていることが全く理解出来なかった。しかし、エリアーデも不思議そうな顔で彼へ尋ねた。
「確かに…アリオは何故来た…の?」
そう尋ねられて急にやることを思い出し、彼は言いづらそうに目を逸らした。やっとの思いで小さく声を絞り出す。
「あ…謝りに来たんだよ」
「え?」
「…だから……謝りに来たの!! さっきはごめん!!」
彼がエリアーデに向かってそう叫ぶと、あまりの声の大きさに彼女は目を丸くした。木の実のように見開かれたその瞳を見て、アリオは恥ずかしそうに俯く。
しばらく沈黙が流れた。
「…続けて」
いつの間にか水の精霊は2人のすぐ真横まで来ていた。宙に頬杖をつきながら楽しそうにしている。
「な、なにを!?」
2人は声を揃えて返答した。その様子を見ていたのか、先ほどの少年が現れてアリオとの間に割り込み、エリアーデを諫める。
「エリー、早く話を済ませて帰ろう。夜は冷えるよ」
「あら、やきもちなんて男のくせにみっともない」
水の精霊がフランシスを嘲笑うと、少年は冷たく言い捨てた。
「君は馬鹿なのか? 私たちに性別なんてない。冗談を言ってる暇があるなら、さっさと協力しろ」
「それには激しく同意する。私も早く帰りたい」
シャーリーンも話に加わり、エリアーデが深くため息をついた。
「アリオ。明日以降のどこかで、訓練を休んで欲しいと話していた用事がこれ」
彼はそれを聞いて、ダミアンに訓練を休む相談ををすることをすっかり忘れていたのを思い出した。
「先ほど手記でも確認し…たけど『剣に力を宿すこと』とは、すなわち精霊を宿すという意味」
「ん? 精霊ならシャーリーンがいるだろ?」
エリアーデはシャーリーンを見ながら説明する。
「さっきのシャーリーンの話をちゃんと聞いていましたか? 敵にも相性というものがあり、効率良く倒すためにも相性の良い力を使うべき…」
金髪の美人は文字通り顔を明るくして、エリアーデを賞賛した。
「良く気が付いたな。そうだ。聖剣には私以外の精霊も一緒に宿ることが出来る」
憶測するのが、さして難しいことでもなかった。エリアーデは順を追って、その理由を説明する。
「聖シアンが聖剣をドロアーナに落とした際、あなたが居ないにも関わらず、聖剣が凄まじい威力を発揮したことを不思議に思っていたのです。あれは、チャーリーが天空に呼んでいた雷電の精霊が宿っていたんですね?」
「あの精霊はかつてシアンに加護を与えていた者の1人だ」
シャーリーンがうんうんと頷くと、エリアーデは確信をついた。
「そして、聖剣のお伽噺には7つの聖遺物しか登場しないにも関わらず、8つ目の聖遺物として存在するソウル・スフィア。これこそ、聖剣と対に使うために500年前に大賢者が作成した魔道具という…わけ」
シャーリーンは目を丸くした。アリオにも、この美人が珍しく驚いていることが分かった。
「そこまで気付いたのか、さすが賢者だな。聖遺物ソウル・スフィアとは、杖の先に付いた水晶のことだ。あの外道は宝物殿から水晶を盗み出し、それを魔法用の杖に改造した。そして精霊を持ち運び始めたんだ」
棘のある言い方で大賢者を批判する。泉に夜風が冷水のように注ぎ始め、エリアーデは身体を小さく震わせた。アリオは情報を頭で整理してから、短く質問する。
「精霊を持ち運ぶって…?」
フランシスはアリオを見て眉間に皺を寄せたが、エリアーデは彼のために説明を続けた。
「アリオ。あなたが良く知っているミランダや、ここにいるフランシスは大気中どこにでも存在出来る、つまり移動可能な精霊なの」
彼は頷きつつ、寒そうな彼女に掛けるものを探したが見つからなかった。
「でも、目の前にいる泉の精霊のように、移動が困難な精霊もいれば、条件が合わなければ呼び出せない精霊もいます。たとえば、この国で氷の精霊を呼び出すのは難易度が高いので、必然的に氷結魔術に頼ることになる…わけ」
「…そうか。魔術だと自分の魔力を使わないといけないし、聖剣もその場に居る精霊からしか力を借りられないのか」
精霊を持ち運ぶ意義について、アリオはやっと合点が行った。目の前の水の精霊は楽しそうに笑うと、ここでようやく2人に名乗った。
「良いわよ。面白いから練習に付き合ってあげる。私は、この『癒しの泉』の精霊コーデリア」
「…アリオ・アンジェリコ」
「エリアーデ・クラークです」
フランシスは、コーデリアとは対照的に面白くなさそうに姿を消した。シャーリーンは無表情でやり取りを眺めている。
「でもね、条件があるわ。私はソウル・スフィアには入らない。そして聖剣に宿るのは、あなたたちがアインに居る間だけ。私がこの世界を去ったら泉が枯れてしまうから。分かった?」
アリオは「分かった」と答えて頷いた。エリアーデは少し困った様子で、コーデリアへ頼み込んだ。
「ソウル・スフィアの練習には付き合って頂けないのですか?」
「ごめんね。私も大賢者のことは嫌いなの。でも、きっと砂の精霊が入ってくれるはずだから、今まで通り説得してみて。イタズラしたお詫びに名前を教えてあげる。彼女の名前はサニータよ」
そう言ってエリアーデへウインクすると、コーデリアは姿を消した。シャーリーンがアリオへ告げる。
「よし。コーデリアは聖剣に宿ったぞ。早く帰ろう」
「ええっ!? もう?」
アリオが驚いて背中の聖剣へ目をやると、もうお決まりといったように頭の中で声がした。
『よろしくね。あ! あともう1個条件』
「な、何……?」
『この国を去るまでに、もう少し進展して』
「何を…?」
戸惑っているうちに、エリアーデとシャーリーンは帰り道を進み始める。慌てて追い掛けるアリオの背中で、コーデリアが不満そうに叫んだ。
『それぐらいの非日常は提供してよね!』
しかし、エリアーデの背中を見つめる彼に、その声は聞こえなかった。
開けた農耕地に出ると、城の明かりが幻想的に眩く見えた。横を見るとエリアーデの顔が青白く照らされ、まるでまだ見えない月が現れたようだ。
ぼうっとするアリオを不思議に思うこともなく、エリアーデは突然切り出した。
「そう言えばあなたの誕生日、私たちがドロアーナを出発した日だった…の?」
「…そうだけど、何?」
彼はあまり興味がなさそうにそう答える。それを聞くと、エリアーデは申し訳なさそうに謝った。
「気が付かなくて…その、ごめんなさい」
一瞬、なぜ謝られたのか理解に困った。
「なんで? もうテオも居ないし、何もないだろ」
「……来年からは、私がお祝いします」
気恥ずかしそうにそう言うエリアーデの顔に、アリオは「ありがとう」と言って微笑んだ。




