第538話 能力不明の魔物
ここから交戦。
こういう時に限って、どうして次元の狭間を泳ぐ鯱は姿を現さないのだろう。通り魔の犯人は、付け火を目論んでいると見て間違いなかった。
「ノルンに入ってから1回も見てないけど、本当にタイタン、何処に行ったんだ……!」
他所者の自分たちが、住人たちを避難させるのは至難の業だ。せめて呼び掛けるための足だけでも欲しかった。ぽん、と両肩を細い指で叩かれる。正面に立つ彼女と目を合わせるために、少しばかり視線を落とす。
「タイタンは仕方がないから、今回は諦めよう。それよりアリオにはお願いがあるの」
火災が引き起こされると聞いても、彼女の目はいつもの冷静さを失わず、そしていつもより力強く光っていた。頷く以外に選択肢など無い。
「交戦する可能性のある魔物が、あの時の2体と考えると、シアン様の分が悪いでしょ。1体はシアン様が言っていた通りだと思うから、もう1体のことを見極めて欲しい。だから良く聞いて……」
呪文のような説明を飲み込むのに、時間を掛けてはいられない。彼女の話した魔物の概要は、殺人で描かれた魔法陣などより、よほど荒唐無稽であったが、不思議なことに疑問はひとつも湧いてこなかった。
「分かった。エリーを信じるよ」
ちょうどその時、自分たちの胸のネックレスが暖かくなるのを感じた。聖遺物に選ばれたことを示す、大賢者製チャームの方ではない。先行隊が変身用に使用していたネックレスに、ユリアンが通信魔術を掛けてくれたのだ。魔導士たちが手分けして、ネックレスが1ヶ月ほど機能するよう、魔力を充填してくれている。
このネックレスが暖かくなっているということは、誰かから通信が入ったのである。すぐに耳元でマックスの声が喋り始めた。周りに彼の声は聞こえていない。
「みんな、ごめん……説得する前に、パンさんとポッシュは消えちゃった」
明らかに気落ちしている。犯人の1人と思われるパン屋の奴隷青年に、彼が肩入れしていることを、それとなく耳にしていた。
遠くから響く崩落音を気に留めながら、エリアーデがネックレスに応答する。
「何処へ消えたか、それらしい情報はなかった?」
「たぶん俺たちが街に着いた頃には、もうあの魔王勢幹部が下手人になってたみたいで、あの2人は直接手を下さず、ターゲットだけ決めてたみたいで……パンさんの妹はガルム男爵に食い殺されたらしくて……」
突然暴露された犯行動機に酷く混乱していることが、震えを止めようと強張る声から、ありありと伝わってくる。自分の大事な何かが、大切な人が奪われた時に、人は何を思うだろう。
――俺は3年前、何を考えた? 何も出来ない自分を呪って、でもエリーやチャーリーが居て、テオが言葉を遺してくれて。考える暇も無く、砂漠へ行って……。
もしエリーアーデやチャーリーや、優しい誰かも居なくて、失った絶望だけが両手に残されたら。感情をひた隠しにしながら、毎日毎日、パン生地へ何をぶつけていただろうか。
「パンさんと精霊は、ガルム男爵邸にいる」
急に顔を曇らせたかと思うと、ちらりとこちらを見上げるエリアーデ。
「……と思う。なんとなくだけど」
パッとそう付け足していた。不安そうな彼女は、無言のまま何か考えを巡らせているようで、突然質問を変えた。
「パンさんとポッシュは、どのように消えましたか?」
「なんかこう、見えないカーテンの後ろに隠れるみたいに……かな。ごめん、なんて言ったらいいのか、俺も訳が分からなくて。カーテン同士がくっつく隙間に、さっと引っ込んだというか」
それを聞いたエリアーデはぶつぶつ呟いていたが、結論には至らなかったらしい。今度は指示を割り振り始めた。
「皆さん、聞いて下さい。先ほどの爆音ですが、ガルム邸に下手人と思しき魔物が出現したようです」
すでに緊張が最高潮に達していた一同の、ピリリとした空気が伝わってくる。
「シアン様が先に向かわれました。采配を任されましたので、今から…」
その言葉はすぐに遮られた。
「困ったなあ、こっちは待ってるのに」
まただ。唐突に現れた気配に、聖剣をすかさず引き抜く。その切先が届く前に、見覚えのある道化はぬるりと後退していた。
「エリー、こないだの奴だ! シアンの方には行ってない!」
彼女に任された敵が、運良くこちらへ絡んできた。これは好機だ。何やら喋りながら、ぬるぬる聖剣を避けてゆくが、見たところあまり動きは早く無い。この程度で、本当に魔王勢幹部なのだろうか。
「そいつが火付け役かもしれない! 援護するから離れて!」
エリアーデが大杖を構えるが、今は指示を優先して欲しかった。
「先に指示を! こっちは大丈夫だから!」
そう、自分は完全に油断していたのだ。もう見極めるまでもなく、この魔物に追い付けると。彼女の先ほどの助言をすっかり忘れて。
――『シアン様は、もう1体の魔物は言動に違和感があったと仰ってた。言葉にヒントがあるかもしれない。なんの魔物か分からないから、出来れば交戦はシアン様に任せて、見極めた瞬間、すぐ止めを刺して』
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