第524話 そこに居たのは
ドルンデさん、頼りになります。
必要だからと下水道へ入り込んだことを、早くも後悔し始めていた。
「アリオは結構匂いとか気にするよね。まあ、衛生的に良くないのは分かるけど、後で手を洗えば良いし」
彼女は本当に気にならないらしい、鼻が捻じ曲がりそうなほどのこの臭気。しれっとした顔で、エリアーデがずんずん先へと進んでゆく。水路の両端には人間が1人歩けるほどの通路が据え付けられていたが、狭いので念のため壁に手を付いている。
その壁は水上都市ドロアーナの家々と同じく、直方体の石材のようなものを組み積んで作られているようだ。この都市のほとんどの建物は、建材に同じ石材を使っているように見え、建築様式がドロアーナと似通っていた。
そんなことを考えながら気を紛らせるも、すぐに悪臭が顔を殴り付けてくる。歩くのも億劫になっていると、ポンと肩を叩かれた。振り返ると顔色の悪いチャーリーが立っている。彼も鼻を引きちぎらんとする、この強烈な匂いに耐えられないらしい。
「アリオ、分かるぞ。元とはいえ、犯罪都市出身だからな。ドロアーナより酷ーぞ、これはよ。なんっつーんだ。さっき言ってた……」
チャーリーの言わんとすることを察する。
「生活排水?」
「そう、それだ。死臭より鼻に来やがる」
すると、立ち止まる自分たちをスタスタとマシューが追い抜いてゆく。先を行くエリアーデが角を曲がり、姿が見えなくなったからか、ドキリとするようなことを彼が言う。
「何を言っている。上の歓楽街では、奴隷殺しの見せ物があるんだろう。この下水にも、当然死臭は混ざっている」
「いや、俺が言いてーのは、臭ーのが複雑ってことだ」
マシューとチャーリーの問答はともかく、夜光の精霊マーヤの明かりが見えなくなりそうだ。早足でエリアーデの後を追うと、少し進み、曲がった箇所が広い空間になっていた。
悪臭漂う水路が、6本ほどこの円形広場に集まり、仄暗く汚水が満たされている。その中央にはぽっかり穴が空き、ざあざあと黒い水を飲み込んでいた。ただの排水先であろう穴が、何か得体の知れない生き物の大口に思えてならない。死体など、あっという間に胃袋の中だ。
水路を越えられるよう、ご丁寧にも通路には小さな橋まで掛かっていたが、これより先には進まない様子。ドルンデの小さくて勇壮な背中へ声を掛ける。
「どうしたの?」
「全員揃ったな? そこの床石見てみろ」
精霊が淡く照らす石畳みが、不自然に1列変色している。良く見ると、先にいるエリアーデの向こう側にも、同じように変色した石が線を引いていた。ドルンデの顔が一瞬険しくなる。
「これから見ることは他言無用だ」
すると何やら訳知り顔で、エリアーデがゆっくりと頷く。
「分かっています」
「ええ〜、分かってるの? 俺もう何がなんだか、全然分からないんだけど」
こんな臭くて汚い場所にユリアンたちが居るとも思えず、不満を漏らしてしまう。とにかく今すぐにでも、ここから抜け出したかった。
逞しいドワーフは、自分たちの足元をするりと通り抜け、たった今曲がった角まで戻ると、下から石材の数を数える。そして今度は、見つめた高さの石材を、横方向へ数えながらこっちへ戻ってきた。入れ違いになる時、自分が水溜まりへ落ちやしないかと冷や冷やする。
「まあまあ、黙って見てな。こっからはお前も好きそうな仕掛けだぜ」
ニヤッとこちらへ笑うドルンデは、1箇所を差したまま、エリアーデに指示した。
「こいつだ。エリー、この石を思いきり押してくれ」
「お任せ下さい!」
グッとエリアーデが手を押し込むと、ガクッと石が壁へ引っ込む。途端に足元の空間が地響きを立てて、横へスライドし始めた。最初は言われた通り黙って見ていたが、動き出した通路はザブザブと水面を掻き分け、陰鬱な方向へ泳ぎ始める。
「ね、ねえ、まさか……」
「どうした、アリオ? ワクワクしねぇのか?」
「まさか、あのこの穴に落ち」
ケロッとした顔のドワーフにクレームを入れるも、声はそこで途切れた。水面に開いた暗黒生物の口腔内、もとい丸い排水穴へ、ひゅっと石畳みごと落ち込む。同時にひゅっと肺の中へ空気が吸い込まれた。
ゾッとするなんてものではない。
いきなり失われた足元の感覚に、凍り付いた身体が事態を飲み込むまで時間を要した。浮いたはずの足元が木の板に着地していたからである。
「何その顔。数ヶ月ぶりだってのに、冴えないわね」
酒場だ。売春宿の酒場に詰めていたことがあるから分かる。これは酒場のカウンターだ。黒い艶やかな髪をかき上げる、妖艶な女性の姿が見えた気がした。
しかし、それは窓から差し込む日光に、地下から突然現れた自分の目が眩んだからであった。過去の幻はすぐに消え、良く見知った眉目秀麗な人物が頬杖を付いていた。
「「「マーロ!」」」
自分だけでなく、マシューとエリアーデの声が重なった。
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