第452話 夢中の死者
なかなか会わせて貰えません。
ついに堪忍袋の緒が……。
柔和でいかにも人好きのする面立ち。漆黒の羽根の如き艶やかな髪に、黒曜石のような濡れた瞳。
「あなたは……」
クラリス・グラハム。話にしか聞いたことのない、幼馴染ソーヤの母親。不妊に悩んだ彼女は、女性をことごとく孕ませてしまう夢魔を頼り、極めて稀有な確率で夢魔を産み落とした。それが自分の護衛として育ったソーヤである。しかし自分が物心つく頃には、彼の母親はすでに故人だったはず。
ソーヤが2歳の時に、この母親は子供を置き去りにして資産家の息子と駆け落ちし、半年後には街の水路で死体となって、2人とも発見されたらしい。夢魔である彼にしてみれば、人間の母親と過ごした短い時間は無意味だったのかもしれないが、まるで他人のように、淡々と話していたことを覚えている。
不思議な人物だ。彼女はずんずんとこちらへ近づき、目の前でひょこっと腰を落とした。
「あらあら、ごめんなさい。私はクラリス・グラハム。ソーヤの母親です。あなたはうちの息子のお友達なのかしら?」
鼻と鼻がくっつきそうだ。それより何より、笑った時の面立ちがソーヤにそっくりである。
「あああの、顔が近いです!!」
慌てて後ろへ下がろうとするが、右手を青年衛士と繋いでいるので、足元からくるんと回転する。これはやりづらい。彼に手を離すよう伝えてみるも、礼儀作法の見本よりも滑らかに、相手はサッとその場へ跪いた。
「そうは参りません。まさかカヴァリエ家のご息女とは。必ず無事に家まで送り届けなければ、自分の首が飛んでしまいます。シアン様。申し訳ありませんが、どうぞしばしの間、我慢下さい」
これはとんだ茶番。こうも丁寧に頭を下げられては、こちらも弱ってしまう。
「こちらも騙して悪かった。このままで構わないです」
諦めてため息をつく自分に、ソーヤの母親が「あらあら」と喜んでいるのが居心地悪い。それにしても、こんなに丁寧な仕草なのに、妙に違和感があるのは何故だ。濃紫の髪を眺めながら不思議に思っていると。
「でもごめんなさい。うちの子ったら、今昼寝中なのよ。朝早くからヤギの世話をしていたから」
クラリスの残念そうな声。また新たな違和感。
「朝からって、一体何時までやってたんですか?」
思わず問い返す。夢魔であるソーヤは夜間に食事をするので、朝寝をしていることが多い。家に戻ってから、そのまま手伝ったとしても、夜明け過ぎには寝てしまうだろう。まさかそれからずっと寝ているということか。
「んー、10時ぐらいまでは手伝ってくれてたかな。私が薬草を摘みに出る頃には、洗濯してたのを見掛けたから」
カノンの返答に思わず目を丸くする。それでは眠いのも無理はない。
「夜から起き続けてたら、眠くなるのも道理だな」
そう呟くと、クラリスもカノンも目をぱちくりさせた。どうもこの2人と居ると調子が狂う。一体何を驚いているのか。カノンは樹が木の葉を揺らすように、緑に塗られた頭をひょこんと傾げた。
「あのー、シアン……様? 子供なんだから、夜は普通に寝てるよ。単にいつも家畜の世話で早起きなだけなんだけど」
ああそうか。彼が夢魔であることは内密。食事といっても、彼は夢しか食べないが。夢魔の中でも獏と呼ばれる部類だ。自分が彼の正体を知っていると、どう伝えたものか。
「いや、あの、その……実は私は彼が夜中にその……食事をしているのを知っていまして」
もごもごと説明すると、クラリスは顔色を変えた。
「あの子、やっぱり夜中にお菓子を盗み食いしてたのね! 後で叱っておきます」
真剣な面持ちをしたと思うと、瞬く間に微笑む。
「でもぐっすり眠ってるのは本当なの。あなたがあの子と親しくしているのは、今の話でよ〜く分かったわ。だから今度はお家の人に許可を取って、ゆっくり遊びに来てね」
ころころと表情が変わる。そしてあまり裏表の無さそうな人物。それがこのクラリスという女性の印象。子供の頃、人間の心をつい読みがちだったソーヤにとって、こんな人間が母親だったことは、どれだけ幸福だったろうか。現実世界では、彼が2歳の時にこの世を去ってしまったことが、今更ながら惜しまれる。
しかし、おそらく二度とここへは来られない。カノンもクラリスも今までの夢の登場人物同様、自分をソーヤから遠ざけている。つまりそれは。
「なるほど。この夢の中のソーヤは、夢魔では無いのか」
再び両眼を見開くカノンとクラリス。
どこかから気付いていた。これは現魔王であり、夢魔であり、自分の護衛であり、そして幼馴染である。まさしくソーヤの夢の中なのだ。
――お前は多くを望まないんだな。そして私はもう必要無いということか。
ここで引き下がるものか。ふつふつとした怒りは温め過ぎた鍋のように、自分の中から吹きこぼれた。
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・次回更新日: 2022/7/27(水)予定
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