第208話 あれから3日後
通信魔術便利やなあ。まあスマホの方が便利やけど。
精霊暦10,503年・6の月・17日。
セルンボビア村に避難して3日目の夜。
どれぐらい寝ていただろうか。アリオが目を覚ますと夜だった。窓から差す月明かりが眩しい。
――そうだ…あの意思ある大岩を倒した後、セルンボビア村へ避難して……そこからずっと寝てたのか。
身体を起こすと、見覚えのあるベッド。枕元には聖剣。しまった。これはマックスの両親の寝室だ。意識がはっきりするにつれ、申し訳なくなってきた。
枕元の水差しは、エリアーデが置いてくれたものだろう。先ほどからボソボソと、隣の部屋から彼女の声が聞こえてくる。倒れてからの記憶は全然ない。しかし、エリアーデとマックスが、ずっと側に居たことだけは、何故か鮮明に感じていた。
ゆっくりとベッドから降りると、忍び足でそろそろと部屋を出る。取り敢えず聖剣は置いておくことにした。物騒だがシャーリーンがいるから大丈夫だろう。
すぐに聞き覚えのあるいびきの音が、耳に飛び込んで来た。向かいの子供部屋からだ。
――マックスは自分の部屋で寝てたのか。
子供の成長も考慮してか、少々広い部屋だった覚えはあるが、彼の体格でここに寝ていると思うと、少し滑稽だった。後で部屋の交換を提案してみよう。それか、自分はマシューのハンモックを借りても良い。
そんなことを考えながら、声が聞こえる廊下を移動し、居間を覗き込む。きっとここにあった長椅子を、エリアーデは使っているに違いない。
目に入ってきた映像に、思わず息を呑んだ。もう慣れたと思っていたが、そうでもなかったようである。
そこには精霊が…いや、エリアーデが立っていた。
居間の窓は開け放たれ、月明かりでとても明るい。
2週間ぶりに見る水色の長髪は、流れる水のように艶やか。同じ色の瞳は泉の水面のように輝いて見える。
サラマーロも妖艶な美人だが、エリアーデはそういう言葉で表現するのが無粋なほど、人間離れした容姿をしていた。こうして突然目の当たりにすると、少し心臓に悪いくらいだ。
そんな彼女は、通信魔術で誰かと喋っていた。背筋をピンと伸ばした老女だ。エリアーデよりも厳格な修道服が板についている。
確か中央教会の修道長だったはず。3年前に一度だけ目にしたことがあった。ドロアーナの教会に滞在した際、やはりエリアーデが通信魔術を使っているのを盗み見したのだ。
「賢者エリアーデ・クラーク。報告感謝致します。そういうことでしたら、至急腕利きの者を2名手配しましょう」
映像の修道長がエリアーデを褒めると、彼女は少しはにかんだような表情を見せる。ああ、こんな顔をすることがあるのかと、思わずため息が出そうになった。
思い返せば、彼女が大人に甘えるところを、一度も見たことがない。この修道長やテオドールには、今までもこんな顔を見せていたのだろうか。そう考えると、なんだか胸がもやもやとした。修道長はそのまま話し続ける。
「よくぞ村人を避難させました。中央教会修道長として、あなたを誇りに思います」
その言葉に彼女が嬉しそうに微笑むと、心臓が締め付けられるような気がした。骨折の治りが悪いのだろうか。触った感じ、骨に違和感はないのだが。
不思議に思っていると、喜んでいた彼女は少し顔を曇らせた。とても言いづらそうに、言葉を切り出す。
「あの、修道長……。実は折り入ってお伺いしたいことがあります」
「なんでしょう?」
「テオドール老師のことです。今年中は無理かもしれませんが、どこかで中央教会に寄りますので、詳しくお聞きしたいのです」
エリアーデの言葉で急に思い出した。そういえば、チャーリーが言っていたのだ。テオドールは星十字教会所属のはずなのに、賢者としての登録記録が存在しないと。中央教会修道長にもシラを切られたと言われた時、エリアーデは酷く落ち込んでいた。
修道長は彼女の意を悟ったように、深く深くため息をつく。少し考え込んだ後、ついにこの時が来てしまったと覚悟したようだった。
「よろしいでしょう。あなたが無事に戻れば、必ずお話しすると約束致します。あなたに渡さなければならない物もありますので……そこに居るのは誰です?」
老女が突然、こちらを睨み付ける。その瞬間、背中から頭まで表皮が泡立ち、心臓が止まるかと思った。自重のバランスがずれ、右足の床板がギシリと軋む。
目の前の精霊が振り返った。心に湧いた様々な感想が、一瞬で吹き飛んでしまう。立ち尽くす自分と目が合うと、彼女は見たこともないほど破顔したからだ。
「良かった! アリオ3日も寝てたんだよ」
そうか、3日も寝ていたのか。いや、そんなことよりも。自分に飛び付いて来た彼女の、身体の凹凸が気になって、もう視線を合わせられない。彼女は抱きついたまま、こちらを上目遣いで見てくるので、必死で目を逸らす。
顔が紅潮しているのがバレたのか、こちらを見る修道長の視線が痛い。突き刺さるように、どんどん目を細めてゆく。
「エリー。その少年がアリオさんですね?
お困りのようだから離れて差し上げなさい」
お困りだとやけに強調された気がするのは、きっと気のせいではないだろう。この人にはあまり逆らわない方が良さそうだ。彼女がおずおずと自分から離れると、一緒に魔法陣の近くに寄って挨拶する。
「初めまして、アリオ・アンジェリコです。よろしくお願いします」
思ったよりきちんと挨拶できたことに、修道長は少し驚いた様子だった。
「初めまして。星十字教の中央教会修道長メアリ・ハキラです。いつもエリーがお世話になっております」
老女は少し警戒した表情で挨拶を返して来た。いくら聖剣を継承したとはいえ、犯罪都市ドロアーナで出会ったとあれば、心配して当然である。彼女の親に会っているような気分で緊張してしまう。




