第182話 16年前、ある村にて②
今日(2021/6/27現在)の自分は、打ちのめされておる。そう、デイゲームの話です。
嬉しそうな老人の顔を楽しみながら、テオドール老師は外に出た。そして、家の前の棚板に並ぶ、鮮やかな鉢植えへ視線を向ける。いつも気になっている、あの子と目が合う。
ぷくぷくと開いた濃緑の葉の上に、ヴァルアナの胸の花と同じ形をした、斑点模様の花が咲いていた。アナシアという毒草だ。黄色地に紫の水玉模様、短くて見えない茎は青色。
神経毒があることを主張する、小さい植物の横に、その魂である、まだ幼い精霊が腰掛けていた。力のない精霊なので、喋ることもなければ、身体はぬいぐるみぐらいの大きさだった。
こちらと目が合った瞬間、青肌の頬を黄色に染め、さっと顔を俯ける。頭を撫でてあげたいが、自分が触ると、他の精霊に嫌厭されるかもしれない。差し出そうとした手を止めると、入れ違いでヴァルアナが花の鉢へと駆け寄る。
魔力持ちの彼女には、この精霊が見えているし、自分と同じ名前を付け、可愛がっていることも知っていた。そう。この子はもう1人のヴァルアナ。金髪のボブヘアーがお揃いなのが、彼女の自慢だ。
「ヴァルはねえ、私と同い年だから、5歳なの!」
彼女が精霊の頭を撫でると、俯いていた青い顔が、こちらへ目線を上げた。ルビーを2つ埋めたような瞳が美しい。
精霊を見ることが出来ないワラパワは、孫娘を愛しそうに眺めつつ、困ったように笑う。この老人には魔力がなかった。
「儂にも精霊が見えれば良かったんですが、こればかりは。孫が言うには、その花のように愛らしい容貌らしい」
「……ええ。本当に。可愛らしい精霊だ」
明るく笑うテオドール老師のローブの袖を、ワラパワはくいっと引っ張る。何か聞きたげな老人の口元に、自分の顔をこっそりと寄せる。
「花が枯れれば、精霊は消えるのかい?」
ワラパワは声をひそめて、そう尋ねる。アナシアの花は、5〜6年で枯れてしまう。申し訳ないが、自然の摂理ばかりはどうしようもない。ヴァルアナに聞こえないよう、哀しい事実を伝える。
「ええ。あの精霊の本体は、あの花だ。別の核が生じない限り、そろそろ寿命でしょう」
「なんとかならんか?両親が事故で死んだ時、まだ赤ん坊だったあの子にとって、精霊は家族のようなものじゃ」
「…あのアナシアの花。ヴァルの両親が、彼女の誕生祝いで植えたんでしたね………あの精霊は、生まれた経緯自体が、おそらく人間の願い。彼女の側に居て欲しいと、両親がそう願ったんだ」
「あんたも知っとるじゃろう。あれの毒は、煎じて薬にすることが出来る。子供の熱病に良く効く。それに、丈夫に育つ花じゃ」
ヴァルアナは、目の前の精霊を抱き上げる。もう1人のヴァルアナは、まんざらでもなさそうな表情で、彼女の顔に、自分の頭を擦り付けた。
賢い精霊だ。毒草なのに、敵意のない相手には毒を振り撒かない。こちらへ微笑む2人に笑い返すと、テオドール老師は言葉を続けた。
「あの精霊は自然現象ではないので、より魔物に近い。他に核が生じれば、あの植物は本物の身体となり、精霊は魔物になるでしょう。
でもそれは、人間に近付き過ぎるということ。あの2人にとって、それが幸せとは限りません」
「そうか……そうじゃな。魔物になれば、今度はその精霊が、孤独を味わうかもしれん。そんなのは、儂だけでたくさんじゃ」
「あなたには、ヴァルアナがいますよ」
テオドール老師の言葉に、くっくと老人が笑う。ワラパワはとっくりと村を見回す。
苔むした大木に、棚状の家々が取り付き、セルンボビア村を形成している。水害や危機を知らせる役割のあるこの家は、1番低い位置にあるが、それでも水没したことは一度もなかった。
ふと、見上げた正面の家から、赤ん坊の泣き声が上がる。今年コラトリア家で生まれたマックスの声だ。それにハッとして、テオドール老師の顔を見上げた。彼はすでに承知したという風に、こちらへ微笑んでいる。
「ガントリー・コラトリアさんの家の、マックスですね? 心配せずとも、もう発注して貰いました。あの子が1歳になる前に、チャームをお作りして、またお伺いする予定です」
「……ふん。賢いことじゃ。この村の娘は気に入らんかな?」
村長の代わりに嫌味のひとつでもと思ったが、あまり気の利いた言葉は浮かんで来なかった。テオドール老師はおどけて見せる。
「滅相もない。私には勿体ないので、お断りしたまでです」
「よく言うわい」
「やだなあ、本当のことです。女性を泣かせる趣味はありませんよ」
その言葉に思わず、泣かせるのかと問いそうになった。しかし、さすがに言葉を引っ込める。もう一度、孫娘へ目をやると、彼女は見えない何かを、鉢植えの横に下ろす仕草をしていた。
「……そうか。勝手な願いじゃが、もし。もしの話だ。あの精霊が魔物になったとしたら。儂が死んだ時はあの子の側で、一緒に泣いてくれると、嬉しいんじゃが……………。
ああ、すまん。戯言じゃ。魔物は泣かんな」
感傷に浸り過ぎた。我に返ってテオドール老師を見上げる。彼はどこか遠くを見る目で、コラトリア家の建物を見つめていた。赤ん坊の泣き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
彼は独り言のように、ポツリと呟く。
「……泣きますよ。魔物だって泣きます」
「………………そうか。魔物も泣くのか」
その時の、彼の表情が印象的だった。もう失ってしまったものを、絶対に戻らないものを、思い浮かべている顔だ。いつもの軽薄な雰囲気は鳴りを潜め、フードを被ると、輪郭が見えないほど影が深まる。
賢者テオドール老師は、そのままセルンボビア村を発った。
あの日、たった1日だけ。
なんとしても、彼を引き止めるべきだった。
今になっても、それを後悔している。




