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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
98/124

暗中模索


 色々なことが起こっている。本当に頭が追いつかなくなりそうだ。しかし、そんな時でも日々の労働が免除されるわけではない。災難を浴びながらしかし通常通りの日常の運営を強いられる。仕事人のつらいところだろう。

「――で、件の天界探しなわけだが」

「ああ。まず、どこから攻める」

 どこからもクソもないだろう。行くあてがなく、午後7時頃からずっと街を見回っている次第だ。着実に減っていく体力値タバコ、見回っていない空白スペースも減ってきたし、路地裏で子猫なんか見付けてしまった日には、いよいよもって機嫌が悪い時の伊織みたいな変顔にならざるを得ない。

「…………アレだ。たぶん旅行会社いけば航空券発券してくれんじゃね?」

「なるほど、それはグアムかハワイかどっちの話なんだ?」

「ほら、なんか、天国に一番近い島とかあったじゃねぇか。そっから朱峰の馬鹿にミサイル投げさせようぜ」

「信じれば祈りは届くかも知れんな。で、件の天界探しなわけだが」

 一周回って振り出しに戻る。路地裏で男子二人が並んでため息を吐くの図。俺は子猫と戯れる。凄まじい形相で威嚇している。

「おーよしよーし、どうどう落ち着け。何も取って食いやしねぇよ」

「……野良猫も災難だな。かような恐ろしい羽狩りに襲われて」

「襲ってねぇよ」

 飽きたのでリリースしてやる。猫は、振り返ることもなく一目散に逃げてった。可愛げがねぇ。

「…………はぁ。あの猫追いかけたら天国に辿り着けるんじゃね」

「幸運を呼ぶ猫か、はたまた死を運ぶ不幸の猫なのか微妙なところだな」

 確かにホラーだ。野良猫追っかけたら死後の世界なんてな。

 周囲を見回すが、閑散としている。ため息しか出ない。シャッターが下りまくっていて、清掃も行き届いていないらしく道路脇にゴミや古新聞が散乱していて、そこらの黒ずんだ建物からは人の気配をまるで感じない。街なか、栄えている地点から少し外れた距離にあるデッドスポットのような場所だった。しかし、こんな薄暗い区画にも温かい光があった。

「お。らーめん屋台やってんじゃねぇか」

 通りがかった公園前に赤いのれんの屋台屋車両を発見した。懐かしいな、最近まったく見なくなった。

 客は1人だけ? まったくシケている。ちょうど小腹も空いたし、売上貢献してってやろう。

「あとにしろ、職務中だ」

「らーめん2つ」

「あいよぉ」

「………………」

 硬い椅子にどっしりと腰を落ち着け、久方ぶりに休息する。真新しいタバコをくわえれば気分も良くなる。減煙しようとしていたような気もするが忘れた。

「ん? どうしたタケル、何んなとこで突っ立ってんだ?」

「まったく……聞く耳がないのか、お前は」

 観念したように腰を下ろす狩人。ちなみに聞く耳がないのではなく、単に聞こえない振りしてるだけだ。

 そんでもって右隣、見知らぬ客を見ればそいつは引き篭もりの妹だった。

「……………………」

 どんぶり掲げてスープ飲んでたところで目が合う。ラフなパーカーなんかがよく似合っていた。俺を見付けて、目を見開き硬直している。俺も似たような顔していただろう。よもやこんなところで出くわすなんて予想だにしていなかった。とりあえず。

「…………飲むか」

「20歳になってからね」

 ごとりとどんぶりを置く。姉貴にタバコ買いに行かせといて何言ってやがんだコイツ。

 神妙な顔をしたそいつは、何度見なおしたって有紗の妹の坂本沙織だ。

「はぁ、また妙なとこで会うね」

「こっちのセリフだ。てめぇ、引き篭もりがなんで屋台でらーめん食ってんだよ」

「リハビリっすぅー。ヒキは外でらーめん食うだけでも偉大な前進なんでっすぅー」

 タコのような口をされて腹が立ったのでタバコを投げつける。べしと顔に当たるが、机に落ちたそれをささっと奪われる。

「あざーっす」

「む……そっちは、まさか」

 タケルも顔を覗かせる。びくりと妹が反応するも、相手がタケルだと理解して落ち着いたようだった。

「なんだタケル先輩か……っていうか超懐かしい。まだ遊んでたんだ」

「驚いたな。部屋から出て大丈夫なのか」

「へへ、まぁなんとか」

 無言で片手間に火を付けてやる。『今日は大丈夫な日』ってやつなんだろう。涼しい顔したタケルが微笑。

「……タバコはやめておけ。光一のようになるぞ」

「はぁ、それは問題っすね。禁煙しようかな……」

「返せコラ」

「冗談だよ。タバコやめたら生きていけない」

 いまにも消えてしまいそうな儚さだった。俺は何も言わずただ、風が吹いた拍子に妹が遠くへ行ってしまわないよう見ているしかできない。

 屋台のじいさんが鍋に麺を放り込み、手が空いたのかサスペンスドラマに目を向けていた。犯人の独白。精神が圧壊しそうな人生の袋小路の前に、善悪は混濁し、足を踏み外した弱者が蛮行に走るしかなかった自身を笑う。死すべき自分自身を崖から突き落とそうとするのだ。

「………で、なんだ。有紗と喧嘩でもしたのか?」

 完成したらーめんを前に、割り箸を割る。無論片手だ。少し偏ったクソ食らえ。

「別に何もないよ、本当にただのリハビリ。出歩かないといろいろキツくってさ」

「そうか。ま、せいぜいがんばって脱却してくれ」

 いつまでも部屋に篭って腐っている訳にはいかないだろう。蓋をしたとて、現実がそこにあることには変わりはないのだ。

 通りがかった同世代の目を避けたいのかフードをかぶり、妹は憂鬱そうだったが。

「……はぁ。簡単に言ってくれるよねー」

「たりめーだろ。お前、俺が同情して『そうだね、仕方がないね』っつってんのを見たいのか?」

「それは気持ち悪い。すごく、気持ち悪い」

「だろ?」

「うん。きっしょい。もうマジキモイ。ガチでキモい。略してマガキモ。」

 新しい単語が生まれた。そうだろうそうだろうと頷くのだが、どこかおかしい気がしないでもない。

「余計な横槍だとは思うが――」

「ん」

 不意にタケル先生が口を開いた。妹も何事かと目を向ける。

「……本当に、余計な横槍なんだがな。引き篭もりやニート連中、フリーター連中、その他どこか現実を放り投げているような輩がいるだろう。夢だ何だと言って義務を先延ばしにする連中に、篭って毎日ネットとゲームだけに明け暮れる不思議な人種。――いや、別に皮肉を言うつもりはないんだが」

 妹がキョトンとしている。タケルは静かだが、妹を傷つけないよう気を遣いながら、しかし深い話をしようとしているようだった。

「自滅的だとは思わないか? 労働も勉学もしない。未来などどうだっていい。日々そうやって何もしないことが、自分の人生にどれほど深刻なダメージを与えるかを心の隅で理解してなお、何もせず怠惰な日々に溺れ続けるなどと」

 俺はタケルの論旨を理解するため、腕組んで考えこむ。この俺自身はまったく理解不能だ。が、確かにそういうダメな連中がいて、社会問題になっていることはよく耳にする。毎日ただ同じ部屋で腐り続けるなど、俺からすれば地獄だが。

「問題だ光一。どう思う? 部屋に篭り続ければ、待っているのはすぐそこの破滅だ。人間として終わってしまうことを理解しつつなお、何故、彼らはそんなハイリスクノーリターンな選択をする?」

「何が言いたいのか知らねぇが、そりゃ楽だからなんじゃねぇのか? 何の義務もない、自由な日々なんて――」

 妹の顔を見る。こいつに限っては何か事情がありそうなので、別口なのかも知れないが。

「引き篭もり……ねぇ」

 ――実は、誰の心にも多かれ少なかれ存在している願望なんじゃないだろうか。日々の責務、労働、面倒事。すべてから開放されたいという思いは誰の心にも潜んでいるのではないのだろうか。なにせ大変なことばかりなのだ。この俺自身にも、例えば疲れきって追い詰められてる時なんかは、全部投げ出してしまいたいと思う瞬間はきっとある。

 しかしタケル先生の眼力は一味違ったらしい。鋭い切れ味で、隠されていた現代の物陰を炙り出す。

「『どうにもならなくなったら首くくって死ねばいいや』――と、考えるそうだ」

 俺は幽霊でも見た気分になった。ここらではよく見かけるが、決して気分のいいものではない。

「“諦観”だ、光一。楽だからというのは半分当たっている。もう半分は、真っ黒な諦観なんだよ」

 諦観? 諦めってなんだ。俺は軽くカルチャーショックを受けていた。

「あー、うん。分からなくもないよ。毎日篭ってたら、未来なんて決まりきってるから」

「おいおい……分かってんなら篭ってんじゃねぇよ。とっとと外に逃げればいいだろ」

「それがひどく億劫で、とてつもない絶望のように思えるそうだ。不思議な話ではあるがな。外に出て好きに生きる、ということが死ぬよりも苦しく思えるらしい」

 煙を吐きながらボンヤリと思考を巡らせる。『務所ボケ』という言葉がある。長く刑務所にいた人間は、閉じた環境にいすぎたせいで暫く脳機能が弱くなってしまうのだ。同じことが、引き篭もりにも言える。

「……麻痺ってるだけだな。くだらん」

「そういうことだ。未来を思い描かない人間などいない。ならば、奇行に走る人間は、その奇行に相応しい矛盾満載の未来を描いていることになる」

 タケルの様子に、どこか不穏なものを感じた。いつになくバッサリいくじゃねぇの。妹が僅かに緊張しているような気配を感じたので、止めておこうかと逡巡したその時、

 タケルが表情を緩め、まっすぐに妹を見た。

「いつか死んでしまえばいい――なんて考えないでくれ。俺は、インフルエンザの患者に安楽死の薬を与えることが正しいとは決して思わない」

 妹は止まった。そして震えるようにタケルを見返した。話は済んだのか、あるいは珍しく本音なんか喋ったせいで照れているのか、タケルはらーめん退治に戻っている。あくまでもいつもの無表情で。その横顔に妹は、何か思うところがあったらしい。

「ふふっ」

 妹は、少しだけ声を漏らした。おかしそうに笑っている。楽しそうに、憑き物がとれたように。堆積していたものが洗い流されたような清々しさで、フードを脱いだ。

「私は――そこまで深刻なのじゃないかな。ちょっと引っ掛かってることがあって。それさえ解決すれば、きっと……」

 少しだけ元気になった妹の声に、タケル先生はたった一言だけで短く返答した。

「そうか」

 しかし、その一言には深い思いが込められているように思えた。

「偉そうなことを言って悪かった」

「全然。ありがと」

 軽く交わされる言葉の応酬。俺は邪魔しないよう、無言でタバコばかり吸っていた。

「で、何なの。なんで傷だらけなの? 浅葱先輩がギブスとか、ヤクザに追われたとしか思えねー」

 ピン、と妹がギブスにデコピンくれる。痛くも痒くもねぇ。

「ああ。色々あってな」

「ヤクザ?」

「いいや。もっと怖いモンさ」

 不思議そうな顔をされる。俺を一蹴りでボロ雑巾にしやがったのは、この世のものとも思えないバケモンだ。

「俺の話はどうでもいいだろ。問題はお前のほうだ」

「へっ?」

「前は有紗に遮られちまったろ。結局、何だったんだよ。お前が引き篭もりなんぞになってる理由」

「あー……」

 気まずそうに目を逸らされる。やはり何かあるらしい。

「えっと。べつに、そんな、人に話すようなことでは……」

「嘘だな。目を見て話せこのバカ」

 タケルが難しい顔して俺を見ている。分かってる。勝手にボーダーラインを超えて相手の事情に踏み込むなんざ、傲慢もいいとこだろう。

 だが、その傲慢さが今は必要なのだ。妹は弱っている。状況は恐らく、1人の手に負えないほど難しい。時には、無理矢理にでも首を突っ込まないと不味いケースが存在するのだ。

「……………」

 だが、妹は黙り込むばかりで何も言わない。俺は自分自身の人望の無さに軽く失望した。

 どうしてだ。なんでだ。何故、俺は篭りっきりになるほど悩んでいる娘1人助けてやれない?

 弱り切っている妹に罪はない。後輩の悩みひとつ解決してやれない俺があまりに無力なのだ。

「……無礼を承知で聞く。犯罪か? あるいは、金や資産が絡んでいるか」

 すっと、タケルが覚悟を決めたように問いを投げた。さすがは良い質問だと思った。妹は、何も言わずに首を横に振った。

 タケルと目を見合わせる。犯罪、あるいは金。この2つは実は、言葉の見かけに反してかなり広域のトラブルを含んでいるのだ。暴力もストーカーも殺人も犯罪だし、金や財産絡みのトラブルは多い。これらが一切含まれていないとなると、必然的にトラブルの種類は限られてくる。

 少なくとも犯罪ではない。では、恐らくは問題はもっと内側に関すること。話の規模が少しだけ確定できた気がした。

「有紗に……なんか、言われたか」

 俺は、俺が一番恐れていた可能性を口にする。一帯が静まり返った気がした。石のような膠着が精神を圧迫する。

 妹は、下を向いたまま溺れる魚のように口を動かした。本当に言いたいことは言葉にならなかった。どうしようもない震えが、その弱り切った肩を揺すり、苛む。

「…………違う。違うんだよ、お姉ちゃんは何も悪くないの。何も言ってない。何もされてない。ただ、私が、勝手に――っ!」

 がたんとテーブルの上のグラスが鳴る。まずった、と思った。踏み込みすぎた。地雷を踏み抜いてしまった気がした。癇癪を起こしたように、妹が立ち上がる。止める間もない。手の届かない距離に立ち、あっという間に幽霊みたく遠ざかっていってしまう気がした。

「待て、おい――!」

「お姉ちゃんと仲良くしてあげて、浅葱先輩。私は1人でも大丈夫だから」

 今にも消えてしまいそうな、そんな儚い笑顔をして言った。

 振り返る。遠ざかる。ひどい胸騒ぎがする。これっきり二度と会うこともない、そんな予感が確かにあった。

 どうする? どうすればいい? だんだん遠くなる背中、考えても考えても答えは出ない。結末を変える機会は今しかないのに、なのにこんな日に限って俺の頭は何のアイデアも生みはしない。

 ――もう、手段など選んでいられなかった。

「逃げんな! 待てっつってんだろうがテメェ!」

 びくり、と明確に妹の背中が震えた。叫んでしまってから俺は目を覆う。何やってんだ俺。これじゃ、本当にただの、弱り切った女を苛めるDV野郎じゃねぇか。

「先輩。心配してくれるのは嬉しいけど、そういうの、迷惑だよ」

 鋭利な矢が、俺の胸を貫いた。妹はまだ笑う。本当に申し訳なさそうな顔をして、一瞬泣きそうな顔をして、そして縋りつくような表情を見せた。こちらに手を伸ばそうとして、しかしその手を寸前で握り締めてしまう。食いしばって背を向ける。諦めることに慣れてしまっているんだろう。歩き始めた妹は既に、脱力しきっている。

 諦観だ。あいつを覆う世界には、真っ黒な諦観だけがあったのだ。追えない。追う資格もない。もう、妹の肩を落とした背中は見えなくなってしまった。

 馬鹿みたいに立ち尽くしたまま、俺は俺自身に絶望する。

「…………悪いタケル。俺、なんも出来ねぇ」

「馬鹿を言え、お前はまだマシだろう。俺など、本当に何も言えなかった」

 表情に苦渋があった。きっと必死で解決策を考えていたのだろう。だが、こいつの頭脳を以ってしても間に合わない場面というのはある。

 タバコを噛み締め、腰を下ろして煩悶する。

「クソ、どうすりゃよかったんだ」

「お前が正しい。呼び止めて無理にでも事情を聞き出すべきだった。あれは恐らく、簡単な事情ではない」

 タケル先生のヒントだ。間違いなく正解なんだろう。

「でも分かんねぇよ。他人の事情だぜ? どこまでなら踏み込んでもいいんだよ……」

 前予想通り、暗中模索の極みだった。どこまでがセーフなのか探りながら解決を試みなければならない。

 頭抱えて項垂れる。そもそもこういうのは俺向きじゃない。ちくしょう、ぶん殴って解決したい。怪物倒せば終わりならどれほど気楽だったろう。

「……ふむ。人間の一番の悩みは、やはり人間なのだな」

「よく分からんが、よく分かるぜ。本当にクソッタレだ」

 あいつの悩みは何なのだろう。俺たちに出来ることはないのだろうか。妹は、このままいつまでもあんな調子でいなければならないのだろうか。

「そうだ光一。坂本さんに聞けばいいんじゃないのか?」

「有紗にも分からねぇってよ。妹がある時いきなり引き篭もりだしたんだ、本当に理由が分からねぇ」

 妹は聡明だった。逆に、賢すぎたせいで解決しにくくなっているようにさえ感じる。

 ただひとつ言えるのは、完全に拒絶されたということ。そのせいで、問題の解決がまた困難になったこと、というそれだけだ。

 隣には、空のどんぶりとグラスだけが取り残されている。

「……ん?」

 いいや違った。どんぶりと皿とグラスだけでなく、妙に散らかっている。銀色に光る何かが妹の席に残されていたのだ。

「…………薬?」

 タケルも覗きこんでくる。銀紙が転がっていたのだ。それも3枚、どれもこれも銘柄がばらばらで、中身はなく、聞いたこともないような名前の薬ばかりだった。

「多いな。あいつ、病気なのか?」

 タケルがじっと、薬の名前を注視し続けていた。


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