普通と常識外
歩道橋の上は別世界だ。いつ立ってもそう思う。
数日前の雨が嘘のような星空の下、錆びた薄緑の歩道橋に立ち、手すりに持たれて下界を傍観していた。流れていく自動車。他人ごと極まりない。
「……エメマンカフェオレって美味ぇよな。ちょいと甘すぎるが」
「珍しく同意だ。ところで、昔うちの兄貴が『エメマンは特別なんだ。それが分からない奴はガキなのさ!』と珍しく熱弁していたが、何だったんだろうなアレは」
分かるはずもない。俺の手にはエメマンカフェオレ、タケルの手には通常のエメマン。ところでこの銘柄に関してのみ、ホットで飲むのは邪道だと俺は思っている。
くわえタバコの煙が、川に墨を流すかのように流れていく。今日はいつにもまして気怠い気分だった。
「なぁ…………片山って結構頭良さそうだよな」
軽くタバコを噛む。理知的だったあの純粋な目を思い返して、小さな罪悪感のようなものを覚えたのだ。
「いまさら、何を言っているんだ。クラス委員長だぞ? 俺たち武力屋とは出来が違う」
「つまんねぇ話をさせてもらうが」
「無意識のうちに見下してしまっていた、か?」
舌打ちする。読唇術ならぬ読心術を当然のように行使してきやがる鋭い男に。
「ああ――その通りだよ、クソッタレ。別に馬鹿にしてたわけじゃないが、でもあんな弱そうな坊ちゃんが、行動力があって知恵が廻るなんてまったく考えられねぇ。日がな遊び歩いて勉強ばっかしてんじゃねぇのかよ」
「これは異なことを言う。光一、それは先入観というやつだな。普通一般から外れすぎるからそんな視界になる」
タバコの灰が落ちる。このまま寝れそうなくらい手すりに凭れ掛かる俺は、マネキンにでもなったようだった。ちなみに階下を観察して羽人間や異常現象が紛れ込んでいないか監視するという名目の任務なのだが、やる気のないナンパくらい無駄だろう。
「…………言ってみやがれ占い師。退屈だから耳だけは貸してやる」
「いいだろう、暇だから付きあおう」
タケルには、婆さん譲りの観察眼がある。お遊びレベルの見様見真似だろうが、タケル本人のキレが加わったそれは実に真実めいている。
「委員長を、日がな遊び歩いて勉強ばかりしている、と言ったな。それは間違いだ。彼は日がな遊び歩いているし、勉強ばかりしているし、何よりそれ以外も含めて24時間ずっと人間として真っ当にやっている」
何が正しくて間違っているかなんて、人それぞれなのだろうが。しかし、人それぞれだからこそ、『説得力』という結果値がついて回るのは当然だった。タケルの眼力はあまりに正確だ。
「委員長はな、普通なんだよ。この『普通』というのを甘く見てはいけない。平和主義が愚かしいなどということは有り得ない。ばかみたいに争っている連中よりよほど頭がいい」
がつんと理解できた気がした。片山の真逆は階堂だ。全員に囲まれる委員長と全員を敵的に回すあのヒス女、どちらが思慮深くてどちらが短慮かなんて比べるべくもない。
「――――そうでなければ、平穏を保っていく事など出来ないからだ。『普通』に……つまり、一見『平穏』にやっている人間というのは、ただ、それだけで社会性やコミュニケーション能力があると言い換えることもできる。平和にやっていられるということは、水面下で身にかかる問題を当たり前のように解決しているということになるからな」
生きている以上、何の問題も起こらないということは有り得ない。一見平和そうにやっているということは、それだけで些細な問題を解決しまくっているということか。
「……まぁ、そう難しい話ではないんだがな。単に、健全に日常を回し続けていられるということはそれ自体がステータスだろう? このご時世、健全に日常を回し続ける、というたったそれだけのことが叶わなくて自滅している人間がどれほどいることか」
現代社会の闇……否、物陰である。闇なんて格好いいもんじゃないだろう。気が利くということはそれだけで重宝されるに足るアドバンテージだし、社会性がないということはそれ自体が最底辺レベルの恥だ。
タケル先生は、遠く見える花宮市の風景を優雅に鑑賞しながら、久方ぶりに感じるいつものドヤ顔を見せるのだった。
「なぁ光一。『普通に生きているその他大勢』という人々は、実は俺たちが考えているよりずっと賢い人々なんじゃないのか?」
確かにその通りだ。脳裏をよぎるクラスメイト達。ぬるい連中だが、そのぬるさはかけがえの無い賢さが生み出した『余剰』だったのではないのか? ――ただクラスが同じだというだけの縁で、その余剰をこっちにまで配分して充足させようとしていたのだ。他でもない浅葱光一の日々それ自体を。
考えても見れば、いつかの雨の日にコンビニで俺の肩を叩いていった奴ら。あいつらには俺に声を掛けるという選択肢もあったし、俺に声を掛けないという選択肢もあったのだ。この不良生徒を前にして、しかしどいつもこいつも無条件に『声をかける』という選択肢を選びとっていやがったのだ。
明るい、という言葉程度では済まない。そこには確かな『勇気』や『行動力』みたいなものがある。
「………………はぁ……何なんだろうな、『普通』って」
「少なくとも『劣等』の同義語でないことだけは確かだな。人間には知性ってものがある。この知性っていうのは、本能だけで生きていたサルに文明と歴史を与えたほどの巨大な存在だ。負の感情だけで動く人間と、知性で毎日正答を選び続ける人間とでは、実はサルとヒトくらいに天地の開きがあるんじゃないか?」
道路脇を、首輪にリードを繋がれた犬が連れられて歩いていた。アホづら晒してこっちを見ていた。その頭で何も考えていない、ただ欲求だけで生きている動物だ。
対して、人間には知性ってものがある。ヒト社会が持っている医療能力も軍事能力もあらゆる科学技術も、知性っていう目に見えない何かが生み出したスキルだ。そんな超能力を宿した知性に従って、悪く言えば無難に、悪く言わなければ正当に生きている奴らを、多数決から相対的に『普通』と呼ぶのだろう。
人間社会は賢者の集合だ。賢者の集いから外れた奴を没落者って言う。没落者の中から犯罪者が生まれる。本当に、常識とやらを共有し守り合って生きているヒトの集合は、改めて考えれば凄まじい部分がある。
「…………で、あのヒス女か」
話は、常識外で生きている羽人間殺しの天使狩りと、羽人間に憎悪を抱いている階堂ナントカちゃんに戻る。
世の中のいい部分を勉強したら、次は悪い部分のお勉強だ。現代社会の闇ならぬ物陰程度のくだらん話。
「まぁ、いいぜ。俺はあのクラスに執着なんざねぇが、これ以上あのヒス女に面倒事起こされるのは御免だ」
「ああ。既に面倒事だが、俺たちがどうにかするしかないんだろうな」
タケルの静かな横顔は、鞘に収めた日本刀のよう。学校内では穏やかにやっていたい、と言っていた瞬間がよぎる。
「にしてもあの女、来なかったな」
下校時は、どこから襲いかかって来るのかと周囲を警戒しながら歩いていたのだが、結局は学校を出ても、街を歩いても、階堂はいつまでもまったく現れなかったのだ。
「確かに不穏だな。何故来ない? 何か、よからぬことでも企んでいるんじゃないだろうな」
「あり得るぜ。それか、朱峰のバカに手ぇ出して返り討ちにでも遭ったとかな」
クツクツと笑う。実に愉快である。タケルは終始仏頂面だったか。
「ははっ、ああ――寒いな」
笑い疲れてビルのガラス面を見上げる。冷たい風が吹いている。歩道橋から見えるコンクリートの街の表面を、氷のような風が撫でていく。




