無音
「“浄界”の手掛かりは何か見つかった?」
教科書を整理しながら、朱峰椎羅がそんな言葉を投げかけてきた。6時間目が始まる少し前の事だった。
教室内には、誰もいない。移動教室らしい。どうにも寝入ってしまっていたようだ。有紗のやつは――いない。教師の手伝いでもさせられているんだろうか。
揺れるカーテンの外は、乾いた風が吹いている。旗のように揺れていた。日光を反射する机はまるで鏡のようだった。何故だかこんな時間からカーテンを閉め切っていて、教室内が薄暗く感じる。
例によって、俺は朱峰を強く睨み返した。相手はどうでも良さそうだったが。
「…………質問に答えなさい。この負け犬」
危うく激昂して教室内で刃物を振るう所だった。一瞬視界が白んで、俺は必死に机の縁を握り締め衝動を堪えていた。
朱峰は、何も言わず、返答を促すことさえせずに教科書を整理していやがった。実は興味がないのかもしれない。
「……手掛かりなんぞ、ねぇ。そもそも天界なんててめぇの作り話じゃねぇのか」
「なるほどそういう可能性もある。頭がいいのね、思いつかなかった」
本当に興味なさそうに教室を出ていってしまった。どこで足を止めて捨て台詞を吐きやがるのかと窺っていたら、ただの一度だって振り返らなかった。きっと音楽室に向けて旅立っていったんだろう。アホづら晒して返答を待ってた浅葱光一を置き去りにして。
「…………馬鹿にしてんのか……」
それ以外に考えられない。
†
「浅葱君――っ!」
音楽室に着くなり、騒がしい声が俺を出迎えた。数人のクラスメイトがいきなり詰め寄ってくる。火事でも起きたようで、その勢いに思わずたじろいでしまう。
「……なんだ、いきなり」
「大丈夫なの!? 何かされなかった!?」
男子2人、女子2人。特に先頭に立って声を投げてくるのは、少し背の低い、いつもは語尾上げて喋ってそうな明るそうな女子。いまはその顔に必死さしかない。
その背後に立つ男子2人に視線で問うが、気遣うような顔をされるだけ。意味不明。
「………………意味が分からん。何の話をしてる」
「階堂澄花だよ! あいつ、何のつもりで浅葱くんに――!」
意味が分かってしまった。朱峰と蝶野の次くらいに気分の悪い話だった。
視線を向ければ、有紗も不安そうに俺を見ていた。こういうのは、口が軽いとは言わんだろう。相手がいつ刺して来るかも分からんような輩だし、不安の度が過ぎれば周囲に相談するのが正しい。
さて、何のつもりで浅葱くんに近づいているのかと問われれば、それは恐らく仲間にしたいからなんだろう。
――脳裏をかすめる、口裂け女みてぇなあの女。もしかすると、俺に近づいてくるのには裏の意図があるのかもしれない。朱峰を始末させたいだとか。
「……はぁ。知らねぇよ、勝手に絡んで来るんだから」
「ゼッタイ関わらない方がいいよ、浅葱君。あんなやつ、何されるか分かんないし……」
指を絡ませるその女子は、右方、重い話から逃げるように窓の外を見ていた。こいつを冷酷と取ることもできるが、それは筋違いだろう。階堂は余所の教室に忍び込んで、全員の目に付く黒板を罵詈雑言で埋めて何も悪びれない犯罪スレスレ女だ。最も、真相には虐殺者・朱峰椎羅が関わってくるから更にややこしくなるのだが――どのみち、何かあったら困るからヤバイものに関わらないほうがいいよ、と言ってくるこいつらはあまりに正しい。
「…………同感だ。お前らも面倒な真似はすんなよ」
こいつらに喧嘩をさせるのはどうかと思う。
†
ふっと正気に戻れば、教室内から人気が失せていた。まるで怪奇現象。またぼうっとしていたらしい。
有紗を帰らせたような気がする。窓の外、グラウンドにはパラパラと帰っていく生徒たちの姿があった。
「………………」
放課後の教室というのは不思議な空間だ。教室であって教室ではない。赤というよりは橙色の光に全部が沈み、魔法が掛かったかのようにクラスメイトたちのヌルい関係性を押し流す。
毎日ここで全員が勉強して、メシ食って帰っていく。そんな空間に、狩人と天使狩りだけがいた。
「で、どうする気だ光一。あの女、どうせどこかで待ち伏せているぞ」
「追い払う。ボランティアやる気はねぇからな。俺は戦闘専門の天使狩りであって、お前ら狩人みてぇにいちいち面倒くせぇ一般市民なんざ構ってられない」
パシンと拳を鳴らす。言うなれば狩人は、公的かつ総合的な処理業者だ。対して俺は一つのことに特化した専門職。俺があの女を邪険に扱うのはもっと別な理由だが。
「……いいのか、それで。アレも一応は被害者なのだろう?」
「だから余計に面倒くせぇんだよ。あのなタケル、俺は他人の苦痛まで肩代わりしてやってるほど暇じゃねんだよ。仕事ですらない。相手が被害者だから、被害者の我儘は無条件でぜんぶ聞き入れてやらなくちゃいけない、なんて道理はない」
相手が誰であろうと、人間対人間だろう。ならば俺は俺の感情あるいは勘定で動く。
実際、被害者というものは場合によっては加害者よりも厄介だ。個人的感情で動く上に、周囲が文句をつけにくい。例えば妙に偏った法律が立てられそうになったら、その裏で被害者の会が動いていることを疑ってみてもいい。実際にあった話だ。
一時期、何故あんな怒涛の勢いで飲酒運転が厳罰化されたか考えてみるといい。あの不自然なまでの罰金額の跳ね上がりよう、誰かの恨みが篭っていなければ有り得ないのだ。
カバン背負って、タケルとともに教室のドアから外を窺う。
「どこで待ってやがるんだ……ったく面倒くせぇ……」
「帰っていいか。俺は絶望的に関係がない」
「そこの窓から飛び降りるってんならいいぜ。そうじゃないなら、逃げる背中を撃つ」
最速男が沈黙する。実際問題、全速力のこいつを俺の腕で撃ち抜けるのか――いち兵士として興味深いところではある。
夕日の廊下は、誰もいない。平日の銭湯よりも静まり返って、広い空間が意味もなく沈黙しているだけだった。ようやく教室を出ることが出来る。
「よし、ひとまずは安全――と」
「どうだかな。そこらの教室から出てきそうじゃないか?」
縁起でもねぇ。廊下の先や教室のドアを警戒しながら、足音を殺して階段に向かっていく。背中は壁に。疑心暗鬼というやつか? 何かのミッションのようで、知らぬ間に俺は春子さんに叩きこまれた敵地侵入マニュアルを遂行してしまっていた。まったく足音を立てない俺に、タケルが怪訝な顔をする。
「…………光一……お前、呼吸まで止める必要はあるのか」
ねぇよ。




