疲労
翌日、教室に行けばなんでもないように有紗が席に座っていた。
「な……」
思わずチュッパチャップスを取り落としてしまう。何も変わりない。朝の教室、まだ誰も登校していない空間で有紗1人だけが席に腰掛け本を読んでいた。幻影ではないかと疑ってしまう。
「あ、光一だ。おはよう」
「…………お、おう」
「?」
どこも変わりないようだが、なんとなく警戒してしまう。あの日、雨の中で赤い傘を差していた有紗はなんだか都市伝説に出てくるホラーのようだった。赤い傘の女。
「…………何か、変わりはないか」
「はぁ。特に何も違わないけど」
隣の席に腰を下ろして観察する。キョトン顔の幼馴染み。本当に、どこにも違いが見当たらない。
「そうかい……ま、元気そうで何よりだ」
「あれ。私、何か心配されるようなことしたっけ」
「めちゃくちゃ落ち込んでたじゃねぇか……伊織が事故ったのは自分がちゃんと見てなかったせいだーとか言ってよ」
事故直後の有紗は本当に切羽詰まっていた。冷静になって思い返せば、ああいうのを「パニクってる」って言うんだよな。
「ああ……ごめん。なんか、なんていうか、どうすればいいのか分からなくなっちゃって……」
「構わん。でも、もう休むんじゃねぇぞ」
「うん、ありがと。朝ごはん食べる?」
「おう」
差し出された、弁当箱のサンドイッチをありがたく頂戴する。誰もいない教室の早弁。せっかく作ってくれたものを無碍にするわけにはいかない。
「伊織ちゃん、大丈夫なのかな……」
「さてな……」
それは俺も知りたいところだ。
ほどなくして登校してきたクラスメイトが、有紗の変わりない姿に驚く。怪我してないのとか、心配してたんだよーとか何とか。有紗がいつも通りクラスに溶け込んでいる光景を、クラスに溶け込めていな俺が隣の席で見ていた。不意によぎる雨の中の妹。
「………………」
無理して笑っていたような気がする。どうにも、やはり一度話を聞いておいたほうがいいのかも知れない。
「ところで――」
「んあ?」
有紗が急に声を発する。クラスの連中も、みんな俺に注目した。
「あのさ光一…………喧嘩でも、したの?」
「………………」
傷だらけの不良、左腕にギブス。あちこち湿布と包帯だらけの俺を見て、クラスの連中は難しい顔をした。気付きつつもみな触れないようにしていたのだ。
俺は黙る。黙秘する。
†
廊下を歩きながら、ふと、まるで自分は夢でも見ているんじゃないかという違和感を覚えた。
「…………」
長い廊下を、魚眼レンズのような視界で上から見ている。それは錯覚だ。例えば川のように流れていく生徒たち全員が、何故だかモノクロで彩度がない。それも錯覚だ。
すべての物音が遠くから聞こえる。すぐそばで喋っているはずの声が、水面越し、遥か遠くで聞こえているような感覚の矛盾。とても、鈍い。視界は狭く、すぐそばの壁が海の底のように遠く感じる。平衡感覚が失われたようで倒れてしまいそうになるが、実際にはどこもおかしくないから倒れることなどまったくない。
ただただ五感が鈍くて遠い。
世界の全てに、感覚を閉ざすようなフィルターが掛かっていた。
「……ち…………」
くだらない事態に辟易する。別に、異常現象でも夢を見ているわけでもない。ただほんの少しばかり体調が狂っているだけだ。
『現実感喪失症候群』という。
持病や重病などではない。一時的な軽い五感麻痺、自分が自分でないような感覚、全身を覆う不確かな浮遊感。
疲労性の、よくある症状なのだ。そこらの会社員だって過度に疲れている時に発症することもあるし、誰にでも起こりうる金縛りみたいなもの。
俺としては業腹だ。体調管理を怠って神経が疲労している。これからたくさんの面倒事を解決しなきゃいけないって時になんて体たらく。
「…………寝るか」
水に流されるような違和感をそのままに、保健室へ向けて歩き始めた。




