赤の両翼
プラネタリウムみたいだった。夜の校舎の屋上は、辺り一帯誰もいない。夜空を観測するために出来た場所のようで、考え事をするには持って来いだった。
街を俯瞰しながらくわえタバコしていた。白髪になってしまったんじゃないかってくらいに疲労している。腰の後ろ、制服の下には冗談のように重い二丁拳銃が、死刑執行人の鎌のように交差して出番を待っている。夜の街は、本当に静かだった。
「………………」
戦場の隅。今日もどこかで、狩人たちが異常現象ども相手に死闘を繰り広げているのだろう。俺の知らない物語。狩人本拠で見掛けた蝶野率いるあの狩人たちが、総出で日々この街を死守している。
そんな均衡に幽霊のように紛れ込んだ、赤い異物がいる。朱峰椎羅という名のバケモノ。白羽でもなければ悪魔のような黒羽根でもなく、秘匿したその翼の色は何故か“赤”――まったく異物だ。何なんだろうあのいきものは。白でも黒でもない。そして同じ羽根人間の中でもぶっちぎりに飛び抜けている。タケルが押されたほどの巨大狼を、片手のたった一撃で仕留めてしまった常識外。
――――そんな悪夢と、対峙せねばならない。
「…………」
高揚も絶望もない。俺の胸中には何の感情も浮かんではいない。だがそれでも、あの女の姿を思い浮かべれば憎悪だけは確かに湧いてくる。まるで呪い。地下の水脈から滲み出すように、足元を黒く染めて、次第に腰まで浸かっていく。
俺は死の池にいるらしい。タバコの先から落ちた灰、そのまだ赤かった部分が沼の表面に触れた途端じゅうと音を立てて熱を失う。ありとあらゆる光を飲み込む、負の感情っていう悪性物質。この沼の前には、すべてが等しく無価値で虚無だ。
ここで唯一意味のあるものといえば、命のやり取りと、その過程のスリルくらいなもんだろう。自分の死は恐怖、相手への殺害は殺し合いからの開放。そこには間違いなくカタルシスが存在している。死の札を押し付けあう暴力ゲーム。そんな絶望が終わる瞬間はいつも、確かに間違いなく一瞬の安堵があった。――ああ、今回も何故か俺は生き残れたらしい、と。
そして俺たち兵士は間違いなく、鬼気迫る殺し合いの中で高揚している。
「……………来たか」
屋上の扉が開け放たれる。しばらく誰も出てこなくて、まるでホラー映画のようだった。
「……あん?」
開放された四角形の入り口。いまは真っ暗闇だった。確かに気配はあるのに、何故出てきやがらないのだろう――と訝しんでいたら、そいつはようやく姿を現すのだった。
「…………」
長い髪の朱峰椎羅。私服ではなく制服のままだった。今は、何故か注意深く俺を睨んでいるが。
「? どうしたクソバケモノ。えらく、出てくるのが遅かったじゃねーの」
「………その銃口を下ろしてから言いなさい」
言われてようやく気が付いた。俺の右手は既に朱峰を殺しに掛かっている。憎悪余っていつのまにか銃を構えていたのだ。
「ま、気にすんなよ。よくあることだろ、俺とお前の仲だからな。率直に言うと死ねいますぐに」
「随分なご挨拶だこと。呼び出しておいてこの扱いはないんじゃない? それで用件は何なの」
銃口を下げることはなく、続いて左手も銀色の銃を構える。二丁拳銃が既に引き金を待っている。いよいよ、朱峰が顔を険しくするのだった。
「……本気? 何を考えているの。撃てるわけがないでしょう」
「ほう。なんでだ?」
大気に通電する。電源は俺、張り詰めたギリギリ一線の鋭利さが夜の屋上を染める。風がゾッとするほど冷たい。カビ臭い壁もコケでも生えてそうな足場もひどく無機的。この屋上は、こんなにも殺風景だったろうか。
朱峰椎羅がかすかに、口の端を吊り上げ笑みをかたどるのだった。
「狩人を撃つ気?」
「ああ、撃つさ」
夜を激震させる。禁忌の一手に朱峰が目を見開く。銃口は間違いなく火を吹いていた。文字通り炎を噴出して弾丸を吐き出し、俺の両手に極大の反動を与える。放たれた2つの弾丸は、撃ち終える頃にはもう既に着弾している。何せ音速。タケルの剣も速いが、銃弾の速度には及ぶまい。
「……………………へぇ?」
突風が正面から吹きつけたかのように、俺の肌を悪寒が撫でて駆け抜けていった。一瞬。本当にただの一瞬で、朱峰椎羅が日常用の仮初から別物に変質したのを感じた。
「は……は、」
赤い。蛇みたいに細くなった目が俺を睨み据えていて、足が後退しそうになる。
――銃弾は、ひとつが外れ、もうひとつは弾かれたようだった。朱峰がナイフを振りぬいている。ナイフで弾いてしまったのだ。有り得ない。この距離、あのタイミングでナイフを抜き打ちして砲弾じみた一撃を防ぐ? なんだそれは。猫の百倍の反応速度に計測不能の怪力が乗っている。一体どんな進化系統樹を辿れば、生物がそんな風になるってんだ。
俺は笑っている。俺は笑った。あんまりにもおかしくて、顔を覆い、夜空に響かせるようにおもいきり哄笑したのだ。
なんだこれは。俺は何をやっている? 事情も契約も台無しだ。こんなこと許されるはずがない。狩人と天使狩りの関係性は、今この瞬間、俺が放った弾丸によって完全大破してしまったも同然。おしまいだ。全部、すべてぶち壊しになってしまった。
蝶野との約定はどうなった? 春子さんが取り付けた交換条件は?
可笑しくて仕方ない。笑い疲れて久方ぶりに視線を下ろせば、朱峰の表情には凍りついた殺意しか無かった。マネキンみたいに目を見開いて俺を見ている。その姿があんまりにも恐ろしかったから、あんまりにも強く死を連想させるから、だから俺は気付いてしまったんだ。
――――バケモノに喧嘩を売った。
一歩、可憐な足取りで近づいてくる。その靴底がタイルを踏み割って屋上全体を震わせた。なんて重々しい、地響き。あの足で頭部を踏まれればペシャンコだろう。そんな怪物に銃口を向けて、怒りを買ってしまった俺はいま、死の淵に立っている。また一歩、雷鳴みたいな地響きが近づいてくる。死の権化。破壊するために生まれたとしか思えないバケモノが、かすかに、その口で笑みと言葉をかたどった。
――“う”、
ようやく気付く。その頬を掠めた弾丸が血を流させていた。
――“ざ”、
きっとナイフで弾いた弾丸が掠めたのだろう。いかな超反応の怪物といえど限度がある。弾丸を躱すことも防ぐことも可能らしいが、自分で弾いた弾丸を事故的に浴びることは免れ得ない。あるいはそれほどまでに間一髪だったってことなのか。一歩一歩近づいてくる超級は、間違いなくこの戦闘の瞬間に高揚していた。
俺は笑った。そいつも笑っている。だって楽しくて楽しくて仕方ないからだ。
そう――
あらゆるすべてを叩き壊して、たったの一瞬の熱量に変えよう。
しがらみなんてどうだっていい。
高笑いしながら、気の向くままに気に食わないものぜんぶ破壊し殺し蹂躙し、そうやってこの現実を叩き壊そう。
――――――――――――――――“い”。
耳に馴染む嫌悪の言葉。思い出した。童女のカタチをした怪物“赤羽”は、十年前も同じ言葉で、同じ嫌悪でたくさんのいきものを叩き潰していた。
「…………ハッ、上等だぜくそばけもの――ッ!」
銃口を向け計4発を斉射。だが、ワニのように笑みを深めた赤羽が低く深く地に沈み、そして唐突に消滅する。
「は――?」
跳ねる石。地面にクレーターみたいな凹みが出来ている。それで、いまの動作が跳躍であると理解した。
――空から、赤い怪物が降ってくる。口元に大きな半月を貼りつけた十年前の悪夢が。
「うおぉおあああ――ッ!!」
交差した拳銃を空に向け、乱射しながら慌てて後退する。当たったか外れたかは知らない。ただ、一瞬前まで俺が立っていた空間に、隕石のように朱峰が降ってきて轟音を上げた。
舞い上がる砂埃。視界が悪くて姿が見えない。死にそうになりながら呼吸する。なんだよいまの衝撃、本当に隕石だった。間違いなく叩き潰される所だった。――ドクンと、記憶の底の赤い地獄が回帰しそうになる。恐慌を押さえつけて学ランの内側に手を突っ込み、口でピンを抜いて振りかぶった。
――――手榴弾。春子さん特製、羽人間虐殺用の高威力爆弾だ。
「く、た、ば…………れッ!!」
煙幕の渦中に向けておもいきり投擲する。結論から言えばそれは、大間違いだった。放物線を描く手榴弾と入れ違いになるように、映像編集に失敗したような突風が駆け込んできたのだった。
「あ…………?」
まるで幽霊。0秒で懐に入り込んでくるなんておかしい。瞬きの間に滑りこんできたそれは、手榴弾を投げた体勢のままの俺の脇に入り込んでいて、ギラリと目を光らせ高速回転していた。回し蹴りの予備動作。
直後、俺の胴は爆破された。
「がっ――ぁあッ!?」
爆破されたような超威力にふっ飛ばされた。あまりの衝撃で視界が消える。まるで風船割り、銅が破裂して裏返って潰れたカエルにされたんじゃないかって気がした。
屋上から投げ出された以降のことは分からない。ただただどこまでも落ちていくような感覚があって、背中でどこかのガラスを割り砕いて、木材の山のような場所に突っ込んだらしかった。
オモチャのように派手に跳ねて転がって、最後に壁にぶつかってようやく停止する。動けない。息さえできない。全身が激痛通り越して麻痺しきっている。目も開けられなかった。交通事故にでも遭ったようだ。
「……ぐ……ぁ、」
なんとか堪えて瞼を開ける。俺は、外から教室の窓を割り、整然と並べられていた席たちに突っ込んで、壁にぶつかって停止したようだった。割れた窓のはるか向こう、朱峰が反対の校舎の屋上にいる。笑うしかない。信じられないことに、俺はたったの一撃でここまで蹴り飛ばされてしまったらしい。
絶望するしか無い。遠い少女の姿がゆらりと消え、鉄扉をくぐって校舎の中へ亡者みたく消えていった。きっと渡り廊下を渡って俺にとどめを刺しにくるのだろう。体を引きずって起こそうとするが、まったく力が入りやがらない。あちこちからぼたぼた血が流れ落ちていく。あと気付かないふりしていたが、左腕がヘンな方向に曲がっていた。いますぐ救急車呼んで処置されるべき状況だ。
「んだよ、これ……!」
藻掻く。足掻く。銃はない。満身創痍。なんとか這いずって壁に凭れることに成功した。このままもうしばらく堪えて回復を待つか、どこかに隠れるかと逡巡した次の瞬間に朱峰椎羅が目の前に立っていた。
「ッ!?」
一瞬。恐慌に駆られた。いるはずのない死人を見た気になった。
だって早すぎるだろう。あり得ないだろう、この距離を本当に一瞬で移動してきやがったのだ。まるで瞬間移動手品、生物として間違っている。
朱峰は、うつろな薬物中毒患者のようにただ立っていた。髪に隠れて表情は窺えない。ただただ、朦朧とした殺意だけがこちらに向けられていた。
「ねえ…………」
その姿がふらりと傾いだと思ったら、歩いて、ふらふらと近づいてくる。俺は壁に肩をこすりつけるように後退する。体が痛い、動かない。死神から目が離せない。額から伝った血が左目に入って視界を真紅に染める。捕食者と芋虫、どうやったって逃げ切れないのは明白だった。
朱峰の、傾げた首がどこか無邪気で、無邪気ってのは残酷さの親戚で、きっとカマキリを引き千切って解体する子供のように容赦がなくて執拗なんだろうという気がした。
「くそ……」
被害者としてはたまったもんじゃない。なんだよこのザマ。必死で手を這わせてポケットからサバイバルナイフを引っこ抜こうとするがうまくいかない。死ぬ。早くしろ、頭潰されて殺されてからじゃ遅いんだ。
――――有紗と伊織の姿がよぎる。ここしばらくずっと続いていた、似合いもしないぬるい学園生活が脳裏をかすめる。俺は生き残ることに必死だった。
が、首根っこ捕まえられて俺の抵抗は終わった。物理を無視したように片手で吊り上げられる。俺よりも慎重の低い人型に、オモチャみたいに持ち上げられて息が詰まる。
「ぐ、がァ……てめ、ぇ……!」
足が浮いた。まるで懸垂のようだと思った。万力のような手に掴まれた首が潰されたように苦しい。俺の左腕は折れてぶら下がっている。右手は力も入らないまま朱峰の腕を掴み返すだけ。本来なら握力一つで握り潰してやれるはずなのに、どんなに力を込めても児戯。さっきの一撃で全身が麻痺していた。
戦闘不能――そんな言葉が脳裏を掠めた。目の前のバケモノは、目を見開き、細くなった瞳孔に感情はなく、その背中から炎かオーラのように2枚の赤色が立ち上っていた。火の粉のように羽を振りまき、俺の瞳孔に呪いを焼き付ける。
――――――赤い、翼。
俺は吠えた。殺してやる。絶対にぶち殺してやる。掴んだ腕を握り潰すべく再度指に力を込める。どの健が切れようがもうどうだっていい。十年前の地獄が目の前にいる。殺さなければならない死が目の前にいて、その腕を掴んでいる。――いま狩らないで、いつ狩るってんだ。俺の今までは一体何のためのものだったんだ。
「ぶち、殺、ス…………!!」
憎悪を視線に乗せて叩きつける。殺意。絶望。あの日見た、有紗の二度と覚めないかもしれないあの血に濡れた額。戦争映画みたいな花宮市。顔に三日月形を貼りつけた小さな怪物。間違いなくこの街、間違いなく目の前の赤羽。あの日の怪物が今この瞬間間違いなく俺の眼前にいる。
胸の内が沸騰する。理性が消し飛ぶ。殺す。酸のように憎い。その両眼を抉り取って靴底で踏み潰してやる。心の臓を寄越せ。汚らわしい罪の固まり。全身の血管に針を通してやる。
「がぁあああああああぁぁあああァァァァア――!!!」
俺の呪いが通じたのか、一瞬世界が重力を失う。だが、直後にやってきたのは背中の衝撃。俺自身が、襟首を掴まれたまま机に叩きつけられたらしかった。自分の苦鳴が遠く聴こえた気がした。
そこで急速に、熱量を失ったように赤い翼が消え失せる。
「…………ほんとう、犬。」
何か、屈辱的なことを言われているらしい。意味を理解するだけの余力はない。ただただその声が、視線が思考が存在が腹立たしくて仕方ない。一秒だって我慢していられない。――なのに、ポンコツになった体がまったく俺の命令を受け付けやがらない。本当に歯がゆくて歯がゆくて仕方なかった。何度も唸り、何度も吠えた。
「はぁ……うるさい。そう興奮されるとこっちが冷める」
汚物のように睨まれる。もういい、とあっさり捨てられてしまった。冷めきった目で、朱峰が前髪をかきあげ、俺を見下ろし言ってくる。
「勝負あったでしょう。狩人の仕事に戻るから、お前はそこにいなさい。助けと事後処理は呼んでおいてあげる」
俺の言葉が聞こえないらしい。携帯を取り出しどこかへ連絡したかと思えば、心底面倒そうに教室を去っていく。散らかった机と椅子が邪魔そうだった。全身が砕かれたように痛い。芋虫のように這いずる俺は、残酷なまでに遠くなる背中にずっと罵声を浴びせていた。次第に先のダメージからか意識が遠くなっていく。
――――その後のことは、何も覚えていない。




