階堂澄花
和菓子屋の横を素通り、奥まった場所に入れば袋小路がある。普段はまったく立ち入る機会のない場所だ。奥の建物に入るための通路なのだろうが、その建物の入口がトタンで閉ざされているから意味がない。用途皆無のデッドスペースである。
そんな場所が現在は、夕日の赤に染まり、野蛮な決闘の舞台と化していた。
「…………速ぇ、クソが。おまえ本当に人間かよ」
俺は冷や汗を垂らしながら、背後の死神に問うた。この場において最も恐ろしい人間である。ヤロウは、今また手刀を振り下ろして1人を沈めたようだった。人間凶器極まりない。
「そうか? 別に普通だろう」
人間凶器の正体は、世間話のような顔をするタケルだった。こいつが一番恐ろしい。間違いない。周囲を見回せば既に、敵は1人を残してすべて沈められてしまっている。
あっという間の出来事だった。5人組にこの場に連れ込まれるや否や、タケルが動いたのだ。そして終わった。抵抗なんてあったのかなかったのか、どのみち大差はないだろう。流れるように一般人4名を沈める狩人の動きはまさに、悪夢のようだった。
「――さて。少々配分が偏ってしまったな、残りはお前に任せよう」
そう言って笑うのだが、こいつ。ふざけやがって。俺に番長押し付ける算段だったわけかよ。
「………………」
番長は、俺の眼前で不動の彫像と化していた。ピクリとも動かないが、心なしか目が見開かれ驚愕を表現しているように思える。視線の先にいるのはタケルだ。当然、花宮市最速の狩人の片鱗を垣間見た一般人はこういった反応になる。狩人という存在は強力すぎるのだ。タケルがその熱烈な視線に気付き、口の端を吊り上げる。
「どうした? そこでずっと突っ立っているつもりか」
魔王のような嘲弄を向けられ、ようやく番長がピクリと反応。しくじった。ぼうっとしてる間に張り倒しちまえばよかったんだ。
「お手並み拝見といこう光一。さぁ頑張れ。心から応援している」
壁にもたれ腕組して、タケルはどうでも良さそうに笑っている。頑張れという言葉は他人ごとで無責任だというが、その意味を実感する瞬間である。
「なんなんだ、後ろの男は」
「なに気にするなよ。ただのイカレ狂人さ」
番長が、ギャグ漫画みたいに思い拳を固く握ってファイティングポーズ。困惑気味だが威圧感十分、タケルが油断するなというのも頷ける。巨体というのはそれだけで凶器だ。
対して、俺はタバコを踏み消してようやくポケットから手を引っこ抜く。さてどうしたもんか。相手が見た目通りの腕力持ちだとしたら非常に面倒だ。
「――いくぞ」
「ああ、来い。面倒くせぇが遊んでやる」
ちょうど気分も悪かったしな――拳をゴキゴキと鳴らす。野獣の眼光。油断なく構えた巨体が一歩、大きく踏み込んで来てクジラのように沈む。振り上げられる拳がハンマーのようだった。
「チ――!」
こちらの顎先を狙いすました一撃は、龍のように上昇して空を穿つ。俺はのけぞって数センチのところで躱していた。いきなり大振りのアッパーカットとは舐められたもんである。風が顔を撫で、即座に2撃目を振るうべく引き戻される拳――――が、俺の左手はそれを捕獲していた。
「!」
番長の手首を、俺の左手が狼のように掴んではなさない。お陰で、虚を突かれた番長に一瞬の空白ができる。そして――
「ぐ、ぅぅうお――ッ!?」
振り払おうと足掻く番長が苦鳴を上げ、硬直する。軋む骨、砕けそうになる手首、まったく動かすことの出来ない指。鬱血。逆の腕で拳を振るおうとする余裕さえない、突然の重すぎる激痛に番長が悶える。
「きさ、まァ……!」
「悪いが、握力には自信があるんでね。このまま骨を折り潰して引きちぎってやろうか?」
「ぐゥお、おおおおおおぁあ――!!」
番長の空いていた左拳が俺の顔面を狙う。首を逸らしたものの一打だけ浴びてしまった。腰が使えないため大した威力ではないし、掠めただけだったのだが。面倒くさいので、その拳も捕まえて握り締めてやる。
「が――!?」
めきめきと、指の骨が鳴って関節が潰れそうになる。奇妙な光景。俺の手は自分より巨大な拳をメロン割りのように掴んで離さず、これだけ身長差があるのに掴み合いで圧倒しているのは俺の方だったのだ。
唇を吊り上げる。俺の前腕筋、握力を司る筋肉のギロチンが火を噴く瞬間だ。背後のタケル師匠が嫌悪感のようなものを滲ませて言ってくる。
「……あきれたな。お前の腕力はどうなっている」
「いや、簡単だぜ? 食事と鍛錬さえやってれば誰でも鍛えられる」
その誰にでも出来ることを、誰よりも修羅の如く愚鈍に繰り返して、練磨して、それを習慣に変えて完全に極めきる。プロなら当然のことである。
「おら、降参しな。じゃねぇと両手潰れっちまうぜ」
「くぉおおおおあぁ……!」
番長は、必死で腕を動かそうと足掻いている。しかし動かない。不思議なくらいに、男の腕は固定されてしまっていた。
「おい、意地張るなって。手の使えない入院生活じゃ不便だろう、もう勝負あったんだからいいじゃねぇか」
喧嘩趣味と殺し屋の違いである。勝負などハナから見えていたのだ。それでもこちらとて人間なので、最初の一撃で脳震盪食らわされていればどうなっていたかは不明だが。
「……敗けられん、の、だ……」
「あん?」
ぜいぜいと息を荒げる番長が、地の底から見上げるように言ってくる。谷に落ちる獅子のようだった。
「仲間を、友を見捨てるわけにはいかん、のだ……ッ!」
吐露される言葉。かすれた叫び。その熱い目に、反比例するように俺の気分は冷めていく。
俺の手から逃れられないと悟ったのか、番長はいっそトドメを刺せと要求してくる。
「潰、せぇ……!」
「――はぁ。」
右手を離す。番長の手をおもいきり外側へと振り払ったのだ。開いた顔までの空間を俺の拳が疾走し、広い頬に最初で最後の一撃をめり込ませた。まるで砲弾。高い音を立てて弾ける衝撃。音波で吹っ飛ばされるように、番長の上体が威力に引っ張られてのけぞる。
†
これにて5人全員がダウンと相成った。薄汚いコンクリの袋小路で男5人が倒れている光景は、戦場跡のようで不穏だ。主犯格、無表情のタケルがポツリ。
「やれやれ……阿鼻叫喚だな」
「まったくだ。特に手刀でやられた奴らがひどい」
身じろぎ一つ、うめき声一つなく沈んでいる。瞬殺もいいとこだろう。殺してないんだろうな。
「で、光一。どうするんだ」
「あん? 何がだよ」
「こういった場合の後始末だ。悪いが俺は、お前と違って真っ当な学生なんでな。ストリートファイトの慣習など知らない」
そんなもん俺だって知らねぇ。そも、道端で喧嘩など滅多にしない。下手にストリートファイトやって殺しちまったらコトだからな。
「……まあ、警察呼んだり救急車呼んだりしないことだけは確かなんじゃねぇの」
ほう、なんて目を丸くして俺を見るこの狩人。俺のことを、日がな路地裏で殴り合いばっかしてる輩だと思い込んでいやがる。
「ち…………まぁその、何だ。倒れてるやつから財布を取り上げろ」
「なんだそれは。カツアゲか」
「馬鹿言え、免許証を探すんだよ。こういう奴らなら原付の免許くらい持ってんだろ。なんてか保険みてぇなもんさ。身元押さえといて、仕返しなんぞやって来やがったら即通報してやるぞと脅して、ついでに財布をゴミ箱に捨てるのは勿体無いから頂いておこう」
「ほう、そうか。それが弱肉強食なストリートの流儀なのだな」
俺も知らんけどな。適当な講釈を垂れながら倒れている奴らのポケットを探る。メリケンサック? 厨二くせぇオサレアクセサリだ。クソの役にも立たねぇ。
「チッ。ドブ川に捨ててやろうか」
アスファルトを転がる金属の音。その数歩先、和菓子屋の所に人影を見た気がしたが気のせいだろう。誰がこんなうさんクセェ袋小路を覗きこむものか。
「うしし……ようタケル、あったか財布」
「いや、見当たらんぞ。こいつらアレじゃないのか。いわゆる文無しなのではないか」
「ばっか言えおめぇ、そりゃ探し方が足りねぇんだよ。ほら、見ろこいつらのパツキンに無駄なアクセサリーに無意味に高そうな服。ったく無職かモドキどもの分際で、ふざけんじゃねぇってんだ畜生。」
「ふーん。あんた達って、そういう趣味があったんだ」
ぴたと停止する。何だろういまの声。聞き覚えのない、女にしては低くて気怠そうでどこか悪意の篭った声だった。
女は、和菓子屋のそばに立っていた。気のせいではなかったのだ。場違いにも、口元にあんこなんか付けておはぎ食っていやがった。その蛇みたいな三百眼、白目の面積の多い目が俺たちを射る。
「…………誰だ?」
黒い髪の女だった。特別手入れが行き届いている印象はない。荒んだ顔つきの女がいまは、気怠そうに猫みたくおはぎ食いながらあさっての方向を見る。
「さて、誰でしょう。そっちのく……あれ? く、なんとかタケル君のことは前からチェックしてたんだけどねぇ。てか苗字なんだっけ」
「おい質問に答えろコラ。てめぇ、どこの誰だ、って聞いてんだよ」
女がようやく俺に向き直り、眉間を吊り上げ唇を凶器みたいな形に変えた。般若面みたいな顔だった。
「――――初めまして、浅葱光一くん。ねぇ友達にならない? 私、海堂澄佳っていうんだけど」
ゾッとする。それが笑顔だと理解するのに数秒を要した。なんつー悪意垂れ流しの分かりやすい悪人だ。
「誰かは知らんが、お断りだボケ。魔界かスラムに帰るんだな」
面倒くせぇのに出くわしちまった。うちの学校の制服着ていやがるし、どこかで見たような気のする女だが不快だ。まったく最近は不快な女に縁があるらしい。
「えっなんで? けっこう仲良くなれると思わない?」
「冗談だろ。お前みたいな、あからさまに人の輪を壊す人間とは関わりあいになるべきじゃねぇ。行くぞタケル。異常者に関わってる暇はねぇ」
手に持っていた財布を投げ捨てる。クソッタレ、こいつら免許証持っていやがらねぇ。無面で原付き事故して捕まっちまえ。
タケルを連れて袋小路を出ていく。和菓子屋の隣、すれ違う一瞬にそいつは呪わしい囁きを聞かせてきやがった。
「…………だから、『似たもの同士』。仲良くなれるんじゃない? って、言ってるんだけどね」
一瞬、フラッシュバックする。女の横顔。こいつを探し当てたクラスメイト達。すべてに無関心で、ぜんぶどうだっていい。大きすぎる災禍に平穏を潰されてしまったから、人間としての繊細さが破壊されてしまっている。
この女――まさか。
「ねぇ、アナタもあの朱峰椎羅が許せないんでしょう?」
縋るように、運命の王子に出会ったように熱っぽく見上げてくる。思い出した。この女、うちの教室の黒板を落書きで埋め尽くした犯人だ。『朱峰椎羅は人殺し』。あの時、校舎の影でクラスの連中が見つけ出して追い詰めてた、あの三百眼の女。
そいつがなんで、こんな所にいて、俺にこんな風に饒舌に喋りかけてくるのか。
「“覚えている”んでしょう? 浅葱君は忘れていない。私も同じよ。朱峰椎羅が許せないの。絶対許せない……何なのよあの女、人殺しのくせにのうのうとこの街に舞い戻ってきて――ッ!」
「おい……お前、何言って――」
タケルと顔を見合わせる。まずい。この女、確かに“覚えている”と言った。忘却の呪いの効果から外れていたんだ。この女、秘匿されたはずの10年前の出来事を完全に記憶してしまっている。
「何を、言って、ですって!? 冗談じゃない――ウソでしょう、忘れてない! あなたは忘れてないんでしょう!? だから朱峰椎羅のことが許せなくて、ほら、あいつとすごく険悪だって噂になっていたし……!」
歓喜している。狂喜していた。俺はここで最悪の状況に気がつく。タケルまでもが、どこか不思議そうに、俺に縋る女を見ていやがったのだ。タケルは朱峰が10年前の赤羽であることを知らない。知ってはいけない。蝶野から口止めされていたのだ。
「おい、もう黙れ――! 分かった! 話は聞いてやるからこっちへ来い! 口塞いでろ馬鹿!」
「いやよ……どうして! ねえどうして!? なんで誰も彼も、あの事件を忘れてしまったふりするの!? 夢じゃなかったのに! 幻なんかじゃなかったのに……! 何よ宗教団体の仕業って! どうしてよ! なんでどいつもこいつも、みんなみんな忘れた振りするのよぉお!!」
なのにこの女、止まらない。ヒステリーを起こして泣き叫んでる。俺が口を塞いだってまったく聞き入れやしない。10年だ。10年もの間、この女は、周囲が忘れてしまった出来事を1人で抱え続けていたのだ。“起こったはずの出来事”を誰一人として記憶していない。そんな、納得できるはずのない現実に放り込まれて1人で生きてきたのだ。
タケルは訝しんでいる。俺は口を塞ごうとする。女は、あまりに膨らみきったその感情を破裂させてしまっていた。
「“10年前”――! 朱峰椎羅は、この街で“たくさんの人間を殺して回っていた”じゃないッ!!」
タケルがかすかに目を見開いた。俺は舌打ちする。女は、その場に崩れ落ちてしまって老婆のようにめそめそと泣きはじめる。長年誰にも聞き届けられることのなかった真実。ついに、その怨嗟が、絶望的な現実が歳月を超えて、再び花宮市の街角にシミを落としたのだ。
過去は過去――しかし、すべての花宮市民にとって、それはあまりにも重すぎる出来事だった。らしくもない、激昂したタケルが俺の襟首を乱暴に掴み上げる。
「赤羽か! 朱峰椎羅は……あの女が、10年前のあの赤羽だというのかッ!!」
ここにも、憎悪。いや義憤か。タケルは心底の怒りを俺に向けている。天使を狩ると言っておきながら、最も殺すべき対象を隠匿していた情けない天使狩りを。……返す言葉もない。
「ああ、そうだよクソッタレ。蝶野が隠すっつったんだ、外部の俺にどうすることも出来ねぇだろうが」
「ふざけるな光一! 俺は! この俺だけは、狩人である前に――ッ!」
タケルが、何か言ってはならないことを言いそうになったようだった。狩人っていう組織に雁字搦めの存在。あろうことかタケルはエース、この街の責任者の1人みたいなものだ。
いずれ蝶野の跡を継いで花宮市総括になるであろうこの男は、その将来有望さや才能故に自分のために生きることが出来ない。
「…………ちぃ……何なんだ、狩人とは。一体何のために俺たちは……!」
街の影に吐き捨てられる言葉。実にもっともだ。何も出来ない俺は、無気力な目をして空を見上げる。この世界は本当に、俺たちにとって過酷で性悪だ。
視線を落とす。俺と同類の、荒みきった目をした女。確かに同じ被害者仲間だろう。忘却は救いだ。あのおぞましい出来事を忘れることが出来なかったなんて、これ以上の悲劇があるだろうか。
女の背中は小さくて、張り詰めていたものが切れてしまったのか、子供みたいにいつまでも泣いていた。10年前、俺たちの街にはこんな背中と、昨日まで笑っていたはずの人間が遊び半分で引き千切られた残骸とが転がって溢れかえっていた。赤い血だまりのアスファルトを、ホラー映画のように様変わりした街をワニみたいな赤羽が石斧ひきずって歩く。
白羽どもに捕まえられた恋人は、互いに凶器を持たされ殺し合いを強いられた。恋人を殺せばお前だけは見逃してやる。懊悩と絶望と死の恐怖と裏切りを前にして、永遠を誓い合った愛は破壊され玩具にされた。恋人が動かなくなるまで何度も温かい血を浴びながら、泣きながら吐きながら包丁を振り下ろし続けた。無論最後は、生き残った方も関節ごとにじっくり時間を掛けて千切られながら殺されたのだが。
人間がゴミ山のように詰まれた地獄。銃でも死なないバケモノどもに埋め尽くされた街を逃げ回った。最悪の日の記憶が蘇ったのか、女の泣き声がまた加熱する。
……なかったことになど、出来るはずない。




