問い
「伊織からなんか連絡あったか」
「いや、何もない。そもそもこういった場合、どこの誰から誰宛てに連絡が行くんだろうな」
気怠い、から騒ぎの朝休みに席でだらけながら会話する。タケルの様子はいつもと変わらない。熱心に週刊少年ジャンプ読んでいやがった。だが言ってる内容は確かに的を射ている。
「誰から誰に連絡がいく、か。考えてみりゃそうだな。俺ら、他人だしな」
「ああ、親戚じゃないからな。交友があった吉川本人が意識不明なんだし、それほど密に情報が入ってくることはないさ」
「はぁ、厄介だなあオイ……こんな日でも呑気にお勉強するしかねぇのか、クソッタレ。」
「当然だろう、俺たちが事故ったわけではない。誰の身に何が起きたところで、何も出来ない俺たちは自分の責務を果たすしかない」
溶けそうになる。繰り返す日常っていうのは安穏の象徴だが、こういう時に限ってはひどく残酷で無情なものに思えてくる。例えばむかし婆さんが死んだ時だって、翌々日には学校でお勉強して、それ以降は忘れ去ってしまったかのように日々に埋没していた。――――人間の忘却能力は、そこまで優れてはいないのに。俺たちは内心を置き去りにして昨日までと変わらない一日の運営を強いられる。人が潰れそうになる一瞬だ。
「ま、気掛かりだろうがあと数秒待て。情報収集をする必要もない」
「あん? なんでだよ」
ぱたんとジャンプを閉じたタケルが、有紗の席から立ち上がって自分の席に帰っていく。ヤロウが背中越しに示した先、教室前方のドアから担任教師の林道ちゃんが姿を表した。
「おい席に付け。大事な話がある。あー、みんな知っていると思うが昨日、吉川が帰り道に事故に遭った」
矢継ぎ早、息つく間もなく林道ちゃんが早口に述べた。タケルの横顔を見る。――そうか、教師。学校側には親から連絡が入っているわけか。
「――――意識不明だ。まだ、吉川は目を覚ましていない」
もっとも、開示された情報は余計に気の重くなるものだったが。クラスの連中も苦く暗い雰囲気になる。クラス委員の片山が何か言っている。
俺は隣の空席に目をやる。有紗は欠席。虚しい、落書きひとつない新品みたいな机。
†
その日の授業内容は何も覚えていない。ただぼうっと席に座って立て肘ついてただけだ。
窓から見るグラウンドの一日が妙にドラマティックだった。2時間目の体育、どこかのクラスの男子サッカー、ホイッスル5分前の逆転劇。どこのクラスにもガタイのいい運動部系はいるもんだが、普段は日の目を見ないような暗そうな男子たちまで本気なのが不思議だった。試合終了後に全員で健闘を讃え合っていたのだが、俺には一生縁のない光景だろう。
昼休み、グラウンド隅の影の辺りを人目を忍ぶように歩いて行くカップルも見掛けた。その頃俺はメシを食う気力もなかったのだが、「メシ食わないくらいなら死ね」という座右に従って購買パンを機械的に詰め込んでいた。味気ない。タケルと食った気もするが覚えていない。
そんなグラウンドを、今は下校していく生徒たちがアリの列のように埋めている。全校生徒800人強。こうしてみると壮観で、自分の知っている人生なんて本当に全体からみれば砂粒なんだということがよく分かる。この木の葉と砂が舞い散る学園敷地内では、どうにも日々俺の知らないたくさんの物語が展開されているようなのだ。
いろんな噂を聞くことがある。あいつはあんなに頑張ってたのに県大会に出れなかった。こいつは夢のために学校をやめようとしてるらしい。あの寡黙で背の高い男前はいつも浮気ばかりしてるって話だけど、本当は誰とも付き合ったことがないくらいごく普通の男の子なんだってさ。
悲喜こもごも。面白い奴もいれば普通の奴も、逆に目も当てられない様なつまらない奴もいるだろう。人の数だけ繰り返す日常は異なる。しかしその中でも、朝からずっとこの席で立て肘ついたままだった俺の物語が一番くだらなかっただろう。
何もなかった。何も。有紗も伊織もいない。あいつらが欠けた俺の学園生活はこんなにもくだらないものだったのだ。何人か声を掛けてきたクラスメイトもいた。しかし、俺はそいつらの名前さえ記憶してはいない。自分自身の人間性に疑問を覚える頃合いだ。
「――はぁ、」
仕方ないだろ。あいつらとはあまりにも住んでる世界が違いすぎる。生き方や考え方、価値観が外国人のように別物なのだ。俺の目から見れば、『ごく普通の日本人』って輩はかなり奇特な価値観で生きている。
こんな人間に合わせられるのは、伊織みたいな別ベクトルの奇人か、有紗みたいな病的なまでに包容力のある女か、或いは――
「ずっとぼうっとしているな、光一。帰らないのか」
タケル。同業者であるこいつだけだろう。俺は機械のようにカバンを右手に引っ掛けて立ち上がる。関節部分の油が切れたようだった。夕日の赤も、それを遮る安っぽいベージュのカーテンも、砂っぽい教室もすべてが気怠い。
「……ああ、もうそんな時間か。そうだな。帰ろうぜ」
「時間も何も、授業が終われば帰るだろう。――まったく。気持ちは分かるが、その調子では今夜は使い物にならなさそうだな。仕事は控えて家で寝ていろ」
「あ? ははっ、おいふざけんな、誰が無能だとコラ――」
脊椎反射で反論しようとしたら、いきなり振り返ったタケルに思い切り襟首を掴み上げられた。狩人の剛力。首が締まって引き剥がせない。タケルの目はどこまでも真剣だった。
「――家にいろと言ったら家にいろ。お前のような腑抜けが一番困るんだ。殺し合いの場において、お荷物になって勝手に殺されて余計な仕事を増やすような奴は邪魔なんだ」
冷水を浴びせられたようだった。タケルに殺気を向けられるまで、俺はずっと目が覚めていないようなまどろみの中にいたのかも知れない。
「お前が死ぬだけならまだしも、お前を助けて他の人間が死ぬかもしれない。――分かったか? 今夜は、お前の天使狩りは休業日だ。決して外に出てくるなよ、いいな。聞く耳がないのなら春子さんにも伝えておく」
「………………」
特に、最後の言葉が一番のトドメになった。こいつ今まで使わなかっただけで、俺の弱点をしっかり見極めていやがったらしい。
「分かったよ、そうキレんな。ちょっとぼうっとしてただけじゃねぇか」
タケルの手を振り払う。切っ先を下ろすように元に戻ったタケルは、あまりにもいつも通り過ぎた。
「そうか? お前、明日がこの世の終わりだったとしてもあこまで呆けたりはしないだろう。察するに、よほど大打撃を受けていると見える」
襟を直しながら、反論を飲み込んだ。大打撃だと? 俺はそこまで脆くはない。脆くはないのだが、ただ、急速にこの教室にいる意義を見失っちまっただけだ。そもそも……事実無いものは、悩んだって探したって見つけようがないのだが。だから、この俺が巡らせるべき思考なんてものはこの教室のどこにもない。
「――面倒なやつだな。お前は。」
「何?」
「片意地張らず、素直に溶けこむことを認めるがいい。溶けこむ自分を許容しろ。このクラスの誰も拒絶したりなどしないし、むしろ、そうなればみな喜ぶ。」
肩にカバンを担いで出口に向かう。くだらん話。恐らくはとても正しい話だ。
「そういうのが苦手なんだ。俺は」
「お前はプライドが高すぎる。犬にでも喰わせてしまえ」
「そんなんじゃねぇ。単に――」
ただ単に、俺は。
「…………あ?」
教室を出て行こうとしたら、目的のドアのところに誰かが立っていることに気付いた。無気力そうに、既に開かれているドアを二度ノックした音で気付いたのだ。
「……ちょっと、聞きたいのだけど」
長い髪揺れる。血のような夕暮れ色を背負った朱峰椎羅だった。いまはこいつと言い合うことさえ億劫だ。
「なんだ。手短に言え」
「…………疑問に思ったことは、ない?」
「……………………あぁ?」
手短すぎて訳が分からなかった。しかめられた眉間。どうにも朱峰は、真剣にその言葉を口にしているようだったが、いかんせん意味が分からん。
「…………何の話だ」
「そう――分からないのならいい。明日も必ず登校しなさい」
意識が飛ぶような衝撃。言い返す間もない。言いたいことだけを言って、朱峰椎羅はとっとと去って行ってしまったのだ。
俺としては、あまりに強力な痛打を食らってしまったせいで、胸を押さえ、膝をつきそうになってしまった
「おい、冗談じゃねぇ………………俺、いま、あのくそばけものに上から目線で命令されちまった、のか……?」
「そのようだな」
「グゥウウオオオオオオオ――!!」
頭を抱えて発狂する。




