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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
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サバイバルナイフ


 ――翌日、有紗が我が家を訪れることはなかった。

「ん……ぐ…………」

 真白い朝陽を照射されながらベッドで埋もれるように身じろぎした。いつだったかテレビで見た話だが、人体は朝陽を浴びることによって幸福ホルモンが分泌され、目覚めがよくなるのだとか何とか。なんとも眉唾だが。

「………………」

 体を起こして、そのまましばらく石のように呆けてしまった。何を考えるのも億劫だった。嫌に静かで精錬としていて、眩しくてそして冷たい朝だった。このまま時間を進めることなく止まったままでいたい。もう、律儀に学校へ通い続ける意義もよく分からなかった。

 このまま眠ってしまおうかと逡巡した時――――ホラー映画のように暗くなっていた有紗がよぎる。赤い傘の女。あいつ、ちゃんと学校へ行くんだろうか。行くだろう。俺がここで眠っていたって関係ない。

「あぁ…………ったく」

 崩れ落ちるようにベッドから這い出た。学生カバンと制服を引っ張り寄せ、登校の準備をはじめる。我ながら本当に愚かしい限りだが、気になってしまうものはしょうがない。

「行くか……あぁ……」

 肺腑の辺りから融解して溶け崩れてしまいそうだった。シャツのボタンを止めながら、なんとなく周囲を見回してしまう。

「………………」

 別に誰がいるわけでもないが。春子さんも留守だろう。朝方のマンション一室、温かみのある木の壁材で囲まれた部屋は静まり返っている。まるでコテージ。しかし、張り詰めている。

「………ち」

 いつぞやタケルから貰ったナイフを学ランの内ポケットに突っ込んでおく。昨日までと何かが違う。どこかタガが外れたように危険な空気に包まれている。長らく続いた安息を失うってのは、こんなものだ。



 昨日の雨の残滓が残る街を歩いた。こびりついた澱のようで不愉快だった。まるでカビ。アスファルトやポストの濡れた表面が朝陽を反射する光景は、見ようによっては美しいのかも知れないが、昨日の今日で到底そんな気分にはなれなかった。

 道路のはじっこを1人で歩く。誰にも会わなかった。今日に限って、無人なんじゃないかってくらいに人っ子一人見当たらない。花壇を囲うコンクリの繋ぎ目は規則的。こんな日もあるのだろう。自然、花宮市の街の光景がいかに無機的で味気ないものか実感する。まるでありきたりな幾何学的記号をかき集めて適当に配列しただけのプラスチック製。本当に、人間のいない街ってのは殺風景なもんだ。

 殺風景だからこそ、どんなに美しい雨上がりの情景だろうとうそ臭く思えてくる。大気さえ無愛想に暖かくも冷たくもない。歩きたくもないのに惰性で歩き続けた。

 雨は、嫌いだ。昨日の出来事でいっそう嫌いになった。2度と降らないでもらえるとありがたい。

「……はぁ」

 その内に、無人だった街にも人の気配が戻り始める。単に俺の方が人間のいる区画に歩いてきただけだが。主観的思考。気が付けば、周囲はいつも通りの登校風景、喧々騒々の朝のざわめきの渦中にいた。

 人の声に耳を覆われる。声が多すぎて逆にただのひとつも聞き取れない。携帯電話の軽薄な音がうるさい。まるで雑念の海だろう。

 通学路の最中にある、ここだけ西欧じみた一角。昨日はこの辺りでタケルと会った気がしたが、今日はいないらしい。いつでも呼ばずともその辺にいるくせに。

 ――で、そこを少しすぎれば悪夢の事故現場に行き当たる。

「……………………」

 脇道の出口、伊織が轢かれたまさにその場所を学生どもが普通に歩いて行く。囲いも目印も何もない。警察の仕事は済んだのだろうか。昨日の今日で何事もなかったかのようだ。

 一人だけ足を止めているのが馬鹿らしく思えてくる。街規模で見ればきっと交通事故など腐るほどあるのだろう。その現場ひとつひとつをいちいち封鎖する理由もない。こうやって、一瞬の悪夢は街から忘れ去られていくのだ。周囲で誰か、男子が昨日の事故について喋っていたが。大袈裟なリアクション。茶化されているようで一瞬敵意が湧いたが、別に笑いにしようとしているわけでもない。俺は落ち着くべきだろう。

「…………ち」

 ため息と舌打ちばかり繰り返しているような気がする。伊織の事故現場を通りすぎてからようやく、俺は今日目が覚めた瞬間からずっとイライラしていたのだな、と端的に理解した。

 去り際にもう一瞬だけ振り返ってみるが、そこに幻影みたいな誰かの姿を見た気がした。表情の読み取れないほど遠い横顔だった。すぐに俺自身が人の流れに呑まれて見えなくなってしまったが、

「…………またか……あのくそばけもの、昨日から一体何やってんだ?」

 どうにも気分が悪い。日本刀みたいな鋭利な佇まい。あの髪の長い女は、間違いなく朱峰椎羅だった。


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