スウェット
雨が降っていた。いつまでもいつまでも、真っ黒な窓ガラスを濡らし続けていた。
俺の嫌いな、水浸しの天候。何もかもが湿気ってしまって、凍えて鈍くなって色褪せる。どうしてこう、雨の日ってのは彩度が薄れてしまったようにボンヤリしているのだろう。
ホラー映画みたいに灯りの落ちた廊下だった。病院だっていうのに嫌に静かで、本当にミイラ女でも現れそうだが、倒せば消える絶望なんて可愛いもんだ。
俺たち3人には、消えない絶望を目前に置かれていた。処置中の表示が緑色に光っている。閉ざされた緊急治療室はパンドラのようで、最後に残るのが希望か絶望かは不明だが、この厚い扉の向こうには間違いなく伊織がいた。
「………………」
どうしてこんなに静かなんだろう。足音一つさえ反響してしまって、大気が凍り付いているように鋭利だから言葉を発すのも息苦しくなる。
「……何か買ってこよう。コーヒーでいいか」
ずっと瞑目していたように思えたタケルが、目を覚ましたように動き出す。俺としてはずっと椅子に座っていたので少しばかり歩きたい。重い腰を上げる。
「……俺が行く」
「いいや、お前はここにいろ光一。ではな」
「………………」
有無をいわさず行ってしまった。俯いたままの有紗の方を目で示して。
「――やれやれだ。俺にだってコーヒーくらい選ばせろっての」
脱力して背中を壁に押し付ける。何のレスポンスも帰ってこないので隣を見るが、表情さえ窺えない。
「…………………………………………………………」
有紗は何も語らなかった。あのあと、少しだけ落ち着いてから警察の聴取に答え、それっきりだ。状況を話し終えたっきり、何の言葉も発さなくなってしまった。
「………ま……分かるけどよ」
何の反応もないが構わない。現場に居合わせちまった人間ってのはそれだけでダメージを負うもんだ。自分がどうにかすればよかったんじゃないか。見過ごしてしまった自分のせいなんじゃないか。どこか、きっとどこかに落ち度があったんじゃないか。――ばかな話。そんなこと、あるわけがないっていうのに人間は、過ぎ去ってからの結果論で自分を責める。本当はそんなことしたって何の意味もないのに、行き場を失った感情は血眼になってどこかに理由を探してしまうのだ。
この世の終わりみたいな横顔を見ていた。本当に――どこにも、落ち度なんてないっていうのに。
処置中のランプはいつまでも消えない。本当に、胸の奥がグラグラと揺れっぱなしで積み木みたいだ。身内の命について悩むってのは生きた心地がしない。
「あの馬鹿、なんだってこんな時に限ってヘマしやがる……」
いつだって蹴ってきたくせに。気に食わないと文句言って来やがるくせに。なのにどうして、今日に限って黙るわ、逃げるわ、挙句の果てに車に轢かれて意識不明と来やがった。せめて喧嘩なんてせず4人で下校していれば、事故は防げたはずなのに。
「………………」
脱力して天井を眺めているうちに、俺自身も意味のない後悔に陥っていたことに気付く。なんて間抜け。いまさら、そんなことを考えたって仕方ないのだ。
処置中のランプは、まだ消えない。
†
深海のように真っ暗な夜道。有紗の家に帰り着く頃にもまだ、雨は降り続けていた。
「じゃあな」
淀んだ瞳の有紗から、言葉が返ってくることはない。責めても仕方ないだろう。有紗はただ、伊織の事故にショックを受けているだけだ。
どんな光景を見てしまったのか――
有紗の幽霊のような背中が、玄関の向こうに消えて行くのを見ていた。
「――ねぇ光一」
「……………………何?」
扉が閉まる寸前、踵を返そうとしたその瞬間に幻聴が聴こえた。振り返れば、ドアの隙間の向こうで、有紗の横顔の唇が何かを言っていた。
「………………ごめんね……伊織ちゃんのこと」
「は? なんだよ、おい――」
俺が言い終えるより早く、扉は音を立てて閉ざされてしまった。もう俺の言葉が届くことはない。
「……なんだそれ……」
誰が悪いとか悪くないとかじゃない。そういう問題じゃないはずだ。
――――なのに、どうして最後の一瞬、有紗はあんな泣き崩れてしまいそうな瞳をしていたのか。
不意に視線を感じて2階を見上げる。誰もいない。誰も。
†
廃村みたいな野ざらしだった。砂埃をかぶった滑り台、錆びた鉄棒、腐敗しかけた木のベンチ。いやに彩度の強いブランコの周囲、鉄パイプにペンキを塗りつけて出来た囲いに腰掛けて、顔を隠すように傘を差していた。
雨は小雨に変わっている。まだ止みきらないとは存外しぶとい。立ち上るタバコの煙は、一度傘に引っ掛って工場の天井のように空へと吸い込まれていく。本当、人間の魂ってもんがあるならそれは煙みたいなんじゃないかと思えた。
黒い折り紙でも貼りつけたような夜――小雨の中で、俺は殺人鬼みたいな目をしていただろう。伊織はどうなるのだろうか。有紗は、立ち直れるのだろうか。
「ち――」
「あれ、やっぱり浅葱先輩?」
「あぁ?」
イライラしてる所に不思議な声を掛けられてしまった。耳に馴染む、しかし久しく聞いていなかった声だ。声の発生源は2m前方、濡れた公園の土地面に突っ立っているらしい。俺が差している傘のせいで胸から上は窺えないが、どうにもラフな格好だ。たるんだスウェットに前を開けたパーカーなんか着ているようだが、手首の部分には安っぽいブレスレットなんかがあった。見た感じいわゆる不良、ご同輩。
俺は冷や汗をかいていただろう。そいつの足元、ごついバスケットシューズに覚えがあったのだ。いつもいつも有紗の家の玄関にあった靴。こんな所で見掛けるはずのないもの。
そいつが寄ってきて、俺の傘のふちを持ち上げる。
「助かった。傘、入れてよ」
その幼く澄んだ瞳が俺を見ていた。雨に濡れたそいつは、パーカーを被ってポリ袋なんか引っ提げていた。俺は信じられないものを見ている。
「おまえ……何、やってんだよこんなところで」
「? なんかおかしい? コンビニ行ってきただけじゃん」
「いや、外に出ても大丈夫なのかよ……」
「今日はなんとなく大丈夫な日。あ、それより浅葱先輩、タバコちょうだいよタバコ。ずっと引きこもってて金なくってさー」
屈託なくもらいタバコをせがんでくる後輩。だが未成年で、俺たちより年下で本当に少女と呼ぶべき年齢だ。学校通ってた頃とあまりに変わりなさ過ぎて、どこかに異常があるんじゃないかと逆に疑ってしまう。この懐きやすい娘と、かつては何度も喫煙場所で出くわしていたはずなのだ。俺があの平和な学園生活に引きずり込まれるよりも以前の日常の一部だった。
「はあ、雨宿りして帰ろ。あーどっかに財布落ちてないかな~」
当たり前のように隣に座る。坂本沙織っていう名の有紗の妹。優等生の世間体をした隠れ不良で、開かなくなったはずの二階の扉の主だった。
「ったく…………何やってんだよお前は、こんな時に……」
「はぁ。なんか、あったんスか」
嘆かわしくて目を覆いたくなる。見慣れた優等生然としたブレザー姿の影もない、ラフなコンビニ帰りのスウェット娘。




