踊る水溜まり
昇降口のところで、ちょうど朱峰が靴を履き替えていた。不覚にもクラスが同じであるため、半径5m以内に近寄らなければならない。遠慮したいが、逃げるのも癪だった。
「………………」
タケルに見られながら、無言で靴を履き替える。下駄箱を開けたところで朱峰もこちらに気付き、眉をしかめた。視線も合わせず互いに剣呑な空気を纏って靴を履き替えた。
長い髪がキザに揺れていちいち美しさを演出するのが不快だ。今日は最高に気分が悪い。
「…………傘」
「あ?」
靴を履き替えてようやくお別れだ、と思ったら朱峰が声を発したのだった。しかし意味がわからない。
「……傘、ないの。貸して」
「こっちも1本しかねぇ。クラスの連中の律儀さを憎むんだな」
あの温室育ち共、なんと傘立てに置きっぱなしの置き傘を1本しか放置してなかったのだ。信じられねぇほどの整理整頓能力である。朱峰は不服そうに目を険しくする。
「…………2本あったら、貸してくれた?」
「なんで? 誰が? 悪い冗談はやめてくれハハッ。帰るぞ、タケル」
背後でぼうっとしていた奴に投げる。しかしこのバカ、ツカツカと歩いてきて何を言い出すかと思えば。
「……使ってくれ。」
「え――」
なんと、朱峰に1本しかない真っ黒な傘を差し出してしまうのだった。
「はぁ!? おいタケルてめ――!」
掴みかかろうとしたら顔を押さえつけられる。声を潜めて言ってきた。
「…………騒ぐな。他のクラスの連中が見ている」
「あぁ……?」
周囲を見れば、確かに。何人か俺たちのやり取りを覗いて見ないふりしていた。
「――ち」
朱峰はすでに、この容姿で他のクラスの連中の興味まで引いてしまっていたのだ。だが、だからといって俺たちが濡れ猫にならねばならんのが納得いかない。
「……なんで俺らが濡れて帰らなきゃならねんだよ」
「俺の心象の問題だ。帰るぞ」
などと石のようなタケルは、朱峰の方を見ようともせずに雨の中へ去って行った。見知らぬ女子たちがタケルの背中に小さくヒューとか言っているが、当人はため息ついてることだろう。
礼を言う機会を逸して朱峰が、窺うように俺を見ていた。そこでひとつばかりつまらねぇ皮肉を思いつく。
「そうだくそばけもの。神様って、いると思うか?」
何かを返答しようとしたらしい。しかしそこで固まる。答えようのない質問だと気付いてしまったからだ。秀麗な眉間にシワを寄せ、朱峰椎羅は訝しむように唸るのだった。
「は?」
実にくだらん。校舎を出て、階段を下って近道するためにグラウンドを歩けば、泥が跳ねて舌打ちするしかなかった。
†
灰色の街を駆け抜けた。途中で2度ほど水たまりを踏んで派手に水を跳ねさせてしまったが、だんだんとどうでもよくなってくる。途中からタケルがついて来ているか確認するのもやめた。はぐれたらはぐれたで別にいい。
優雅に傘さして歩いてやがる奴らをかき分け、なんとか最寄りのコンビニの軒下に避難することが出来た。ずっと雨の音に耳を覆われていた聴覚が、久方ぶりに落ち着きを取り戻す。
自分の制服を確認していたら、既に背後にタケルが立っていることに気付いた。相変わらず速い。
「やれやれ…………酷い目にあったな」
「誰のせいだよクソ河童」
いつものおかっぱみてぇな髪型が、黒髪から水を滴らせてただのロン毛気味になってしまっていた。どこのロックバンドだクソッタレ。
「あーチクショウ。煙草がうめぇ……」
「なんだそれは。楽しんでいるのか」
「いらねぇ苦労したってことだよ。まったくふざけやがって……」
崩れるように座り込んで壁に背を押し付ける。いわゆるヤンキー座り。煙草は雨に濡れて湿気ったらゴミになってしまうので、カバンの中に突っ込んでおいたのだが、箱の端に少しばかり水滴が付着していて辟易する。ビニールがなかったら終わってたな。
「なんでこんな目に遭うんだ、くそが……」
「許せ。中身がどんなでも、女性は女性なんだ。学校内で無碍に扱えば心残りになる」
「理解不能だぜこのクソ。端的に言うと殴らせろ」
「………む。分からないか? あの学校内では平和にやっていたい、というただそれだけなんだが」
「……………………」
返す言葉は特に浮かばなかった。驚くことに、その言葉で理解してしまったからだ。
「ああくそ……」
頭を掻きむしる。冗談じゃねぇ、俺は本当に浅葱光一か? どんだけぬるくなっちまってるってんだ。
……あの教室。長居してしまっていい場所なのだろうか、とここに来て初めて疑問が浮かんだ。俺は非公式狩人だ。実力主義の、常に限界ギリギリまで研ぎ澄まされていなければならない兵士のはずなのだ――。
「――――傘、買っていくか」
「ああ」
くだらん感傷を切り捨てる。どうだっていいのだ。俺は、あんな場所でぬるい奴らと馴れ合うつもりなんざねぇ。眼をギラギラさせながらコンビニに踏み込むや否や。
「あ、浅葱くんだー。おっつかれー」
「おっつぅ~」
軽いノリの女子2人が、モアイ顔と化す俺の肩を叩いて自動ドアくぐっていった。石のようにその場に固まってしまう。背後で、タケルが声を潜めてぽつり。
「…………おっつー」
「て、め、ぇ、のせいだろうがこのクソ河童ぁああ――ッ!」
掴みかかる、忍者のように躱される。不動の笑顔のままピクリとも動かない謎のコンビニ店員のおばちゃんを放置してしばらく揉み合った。
「――――煙草。ラークマイルド」
「はい、300円になります」
「では俺は、ついでにカリカリチキンひとつ」
「はい、少々お待ち下さいませ」
「ああそうだ、肝心の傘忘れてたぜ。あとカリカリチキンもうひとつ」
サッカー台にビニール傘2本を追加で載せておく。おばちゃんはそれなりの手際で会計を済ませてくれた。外に出て、元の位置に戻ってカリカリチキンを食べた。
名前通りのカリカリの表面に、中身は肉汁が滴るほどのジューシーチキン。大きさも相まって、肉感がなかなかのものだった。
「……うめぇな、これ。」
「だろう? これで150円というのはなかなか悪くない」
雨の中、コンビニ前で犬のように餌を食う兵士どもの図だった。食事は大事だ。悪くない肉分だったので、また今度補給しに来よう。
食後に一本吸って、念願の傘を差して今度こそ優雅に家路を行く。カバンを脇に挟み、ビニル傘片手にうだうだと。
「しっかしまぁ……止みそうにねぇな、雨」
「そうだな。珍しくよく降っている。そのうちそこらのドブ川が溢れそうだ」
「はぁ、さっさと帰って風呂入りたいねぇ。俺、雨だけはマジで反吐が出るくらい嫌いなんだ」
ズボンの裾が湿って、足首に触れるたびに不快だ。体表すべてを撫で回す湿気、へばりつくような湿気った大気が今日のイライラを加速させる。
「……変わったやつだな。恵みの雨を毛嫌いとは。これがないと生物は滅びるぞ」
「知らねぇ。嫌なもんは嫌なんだよ。ほら、雨の日って薄暗くて陰気じゃねぇか。こういろんなもんが湿気ってると、嫌な出来事でも思い出しそう、に――……」
道路脇に死体が転がっている気がした。
「……………………」
もちろん、そんなものは錯覚だ。視界の端に影が見えたような気がしただけ。何度確認しても、道端にヤクザにやられたチンピラのような死体など転がっていない。
――――雨が跳ね続けているだけだ。
「どうかしたか、光一」
「む……」
険しい顔をした狩人が問うてくる。言外に、「亡霊でも視えたのか」と尋ねてきたのだ。
「いや――なんでもねぇ。ちょっと、考え事してただけさ」
そう、死体なんてものはない。今日はなんでもない学校帰りなのだ。明日も明後日も、くだらない日々を過ごして進む。
「…………俺は雨が嫌いではない」
「そうかい。聞いてねぇけどよ」
「だが……そうだな。雨にはひとつだけ、とびきり嫌な思い出がある」
「へぇ。どうでもいいけどよ」
「兄が死んだ」
「…………」
サラッと何言ってんだこいつ。なんも言い返せねぇじゃねぇか。
向かいから黄色い雨合羽の子供が1人、連れもいないのに楽しそうに駆けてきて通りすぎていった。
「兄も――正確には従兄弟だが、狩人でな。たいそうなバケモノと殺しあって、死んでしまったそうだ」
その指先が、パズルの解き方を思索するように顎に触れる。
「……そうかい」
「だから、そうだな。雨は好きだが、雨が好きだと言うのには少し気が引ける」
ビニール傘の下は、透明なのに表情が窺えない。タケルの横顔は鼻から上が隠れてしまっていた。
「――しかし兄弟揃って狩人か。大したもんだな」
足元も石を蹴れば、池のように水たまりを跳ねて壁にぶつかった。本当に軽い。俺たちの命のように乾いた音だった。
「これは異なことを言う。お前の所など、確かお前に春子さんにさらに“父”、三代揃って天使狩りだったろうが」
「…………」
親父のことはどうでもいい。――本当に、どうだっていい。
タケルもなんとなく察したんだろう。以降、しばらく俺たちは言葉を交わすことなく家路を歩いた。本当にしばらく、何も考えずに歩き続けてふっと気が付いた瞬間のことだった。
「――――……?」
タケルが何か言っている。まったく聞いていなかった。しばらく水の中みたいにぼんやりしてしまっていたのだ。……別に、眠っていたわけでも夢を見ていたわけでもないが。
目の前で、タケルが何か言っている。
「……おい、聞いてるのか光一。何なんだろうなアレ」
「――――は?」
ようやく目が覚める。意識がはっきりして、周囲の雑音を耳で収集し始める。
雨の帰り道を歩いていた。場所は、この一帯だけ西欧風と化している区画。モスバーガーの軒先だった。
その少し先の交差点付近が騒がしい。人だかりができていて、先日の朱峰の黒板落書きを思い出す。
――――なにか、嫌な感じがした。
「……? 殺人事件かなんかか」
そんな風に、脇道と重なる歩道を囲んでしまっては邪魔になるだろうに――しかし、トラブルなんてのは場所を選んではくれないものだ。そして、野次馬は知恵のない群衆となって立ち尽くす。しかし知恵のある者も残っていたのだろう、誰が通報したのか、見ている目の前で騒がしいサイレンを鳴らして救急車がやって来たのだった。向こうの方から、赤い警告灯を光らせ駆けてくる。救急車は歩道沿いにパーキングのような体勢で停車した。
後ろ扉が開く。野次馬が道を開け、救急隊員が機敏な動作で担架を野次馬どもの真ん中に運びこむ。突っ込んでいくようだと思った。
3,2,1,せぇの――
聞き慣れたような聞き慣れないような掛け声で怪我人を担架に乗せる。そこまで見届けてようやく、俺は野次馬どもの中に高そうな黒い乗用車が停車していることに気付くのだった。
「…………事故だな」
タケルが無感動に呟く。雨音のせいで野次馬どもの喧騒は聞き取れない。そうこうしている内に学生服の少女は救急車に担ぎ込まれ、それが誰かも分からないままに病院へと駆けていくのだった。
俺は生唾を飲み込んだ。一瞬、野次馬の中心に見覚えのある姿を見てしまった気がしたからだ。気のせいに決まってる。
「あ――――おい、光一?」
ほどなくしてパトカーもやって来た。知ったことじゃない。俺は歩き出す。野次馬どもを殴り倒すように掻き分けて突き進む。
「どけ……」
文句が返って来た。どうだっていい。気が付けば傘は落としてきてしまっていた。雨を浴びながら、罵声を浴びながら、パトカーを降りてきた警官が遠くにいるのを無視して進む。
野次馬どもの中心に、1人の少女が立ち尽くしていた。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
俺と同じで、傘を落としてしまったらしい。足元に転がっているんだから拾い上げればいいのに、不思議な事に、少女は全く動く気配がない。死体みたいに生気がない。――ばかばかしい。死にかけてるのは、いま救急車で運ばれていったほうだろうに。
少女はこちらに気付かない。人壁を掻き分けて前に出るのに気付かない。近寄っても、声をかけても、叫んでも何をしても血の付いた地面を見つめたままピクリとも動きやがらない。
だから俺は、そいつの腕を掴んで強く引っ張ったのだ。
「おい、聞け――! 返事しろっつんだよ、有紗――ッ!!」
びくり、と痙攣するようにこわばった。こちらを殺人鬼でも見るように見つめて、停滞して、ようやく生気が帰ってくる。
表情は何もなかった。笑みを浮かべようとして、失敗した。
「……………………あ…………光一、だ……?」
笑おうとして顔に手を触れる。いつものようにうまくいかなくて失敗する。足元には、二人分のカバンが転がっていた。カドが水溜りに触れていて濡れてしまう。妙に冷静に、引きずって傘をかぶせておいた。
「あの、あのね……伊織ちゃん――が、ね。違うんだよ。ちょっと、フラッて……車が来てるのは分かってたんだよ、道細いのにスピード出してて危ないなって――なのに、フラッって。躓いたみたいに、転んじゃうみたいに、フラッって…………」
有紗は、そんなボロボロの笑顔を浮かべて、誰に話してるのか分からないような言い方で矢継ぎ早に言った。その肩に手を置いて落ち着かせようとするが効果がない。雨に濡れた有紗の肩は細く冷たく、髪が張り付いた横顔は幻影を探す未亡人のようだった。
「ち…………吉川か。運ばれていったのは」
ふらりと野次馬の中から現れたタケルは、その真っ黒な目にらしくもない苛立ちを静かに秘めていた。俺の傘を拾ってきてくれたらしい。受け取って有紗を冷雨から庇いながら、周囲の状況を鑑みた。
目の前は広い、通行量の多い通り。事故現場はそこに至る脇道、歩道の切れ目のまさにほんの数メートルしかない場所。有紗の言では、あの改造臭いスポーツカーが、細い脇道をばかみたいに飛ばしてきたらしい。有紗はなおも亡霊みたいに、うわ言めいた言葉を繰り返す。
「おい光一、本当に事故ったのは吉川で間違いないのか」
「ああ伊織だ。くそったれ――なんでこう、」
雨空を見上げて、声を失う。なんて黒々しい悪魔みたいな暗雲なのか。気が付けばあんな不吉が頭上に広がっていて、それに気付くこともなく俺たちは愚かな日常劇を演じてしまっていた。暗雲の向こうに巨大で雄大な神の眼球なんてものをまた幻視する。
……まるで人形劇。学園で踊る俺たちの喜劇は、当人にとっては重大な悲劇。本当に悲劇が降ってくる事も知らずに喜劇を悲劇と信じこんで演じる。大きな目玉に蟻のように見られながら。
「……ああ、くそ……」
伊織と喧嘩していたことを思い出す。喧嘩したまま救急車で運ばれ、あの悪夢の集中治療室で生きるか死ぬかのギャンブルを強いられるのか。死ぬ時はあっさり死ぬんだってのに、吉川伊織の17年が、笑顔が泣き顔が家族が信じていたものが、オモチャみたいな軽さで秤にかけられる。
そして俺は長らく、恐らくはあの赤羽事件以来ずっと忘れていたことを思い出すのだ。
――――別れはいつだって突然に、
「どうして今日なんだ」ってくらい最悪の日にやって来る。




