曇りのち雨
授業が始まった途端、雨がぱたぱたと窓ガラスを叩き始めた。雫になって線を描き、滴り落ちていく。冷たい光景。触れたらひやりとしてそうだ。
空は暗く、俺の未来を示すように曇天。死んだ犬のような目でぼうっと見ていた。右手に持ったシャーペンが天秤のように傾く。それが落ちる寸前で、担任教師の林道ちゃんが硬質な声を投げてきた。
「おい浅葱、浅葱光一。この問題を解いてみろ」
黒板には連立方程式が書かれていた。解くのが面倒くせぇやつだ。黙秘しようかとも思ったが、クラスの連中が不安そうに見守っていることに気付いたので仕方なく立ち上がる。
黒板の前に立ち、チョーク持ったところで違和感を覚えた。
「ち――へいへい、って何でだよ。てめ国語教師だろうが」
「気付くのが遅いな浅葱。ちなみに、お前の友人のアイデアだ」
「タケルてめぇ表出ろやコラァ!」
「ふん。何、気にするなよ光一。軽いジョークじゃないか」
そんな俺らのやり取りを見て、クラスメイトたちが声を潜めて笑う。なんだこの晒し者。
「笑ってすまない浅葱くん、悪気はないんだ。ただ、なんていうか意外だっただけだ」
「意外?」
クラス委員にしてクラスの中心人物であるナントカ(昨日名前を覚えたはずだが、忘れた)が、全員の内心を代弁するように言ってくる。
その隣、まったく知らないような何度か言葉を交わしたような女子が笑いを堪えて言って来た。
「浅葱くんって、けっこう面白いよね」
「同感。意外とフランクなんだな、浅葱って」
「……あ、あぁ?」
なんだこれは。しまいには全員に温かい目で見られる。本当に何の晒し者だ。
「私、知ってるよ。朱峰さんのひどい落書きがされた時、まっさきに消したの浅葱くんだった」
「俺も見たぜ。浅葱って熱い男だよな」
「僕も僕も! 一緒に黒板消したよね、浅葱くん」
なんだこいつら、何勝手に盛り上がってる。男子も女子も、口々に噂してはまるで転入生のように俺を持ち上げるのだ。――本物の転入生だけが興味無さげに、縦肘突いて遠くを見ていたが。
「おい……どういうこった林道ちゃん。よく考えるとてめぇ、タケルのくだらん冗談に付き合うような性格だったか」
「さてな。俺は、頭のいい人間の考えに賛同しただけだが?」
こいつも笑っている。ぬるい言葉を投げかけられ、勝手にフレンドリーな存在にされる浅葱光一。このクラスが生ぬるいのは知っていたが、どうして俺が迎合される? 隅のほうで孤立していたはずだろう? こっちはまったく交わる気なんてなかったってのに、一体何をきっかけにこんな状況が起きやがった?
このクラスの中にあって一点、何故だか唯一計算高く見える男の存在に気付いた。
「…………やりやがったな……」
タケルがしたたかに笑っている。
†
昼休みになり、俺は乾いた椅子の上でスライムのように融解した。
「……授業って、拷問だよな……」
「勉強だよ」
茨のように刺々しい返答をくれる伊織。ツンとお澄ましして、教科書抱えて態度だけは優等生のソレである。
「……成績はクソだが」
「独り言が口に出てるよ、このロクデナシ」
教科書をロッカーに仕舞っているようだ。こいつらは学生だから麻痺してるのか知らないが、正方形が並んだだけの開けっ放しロッカーなんざイタズラしてくれっつってるようなもんだろう。イジメられっ子の教科書が捨てられちまうのも頷ける。
もっとも、いちいちそんなことまで警戒しなくてはいけないことの方が嘆かわしいのかも知れないが。常識やルールに絶対基準はない。この暖色で塗り固められた木製の教室の中では、温かみのないルールで生きてるのが銀バケツと俺と伊織くらいなもんだ。教科書片付ける後ろ姿はどこか、殺気立っているように思えた。
「何怒ってんだ?」
「うっさい。死ね」
思わずたじろいでしまうほどの辛辣さに、隣の有紗もさすがに驚いて俺を見てきた。横から弁当箱持って影のように現れたタケルもぼやく。
「……随分と剣呑だな。どうした吉川、何かあったのか」
「ふん――そこの躾のなってない犬には触れない方がいいよ、ぜったいヘンな病気うつされるからさ。行こう、有紗ちゃん」
「あ、え、伊織ちゃん――!?」
何かと思えば伊織のボケ、有紗の腕を引いて立ち上がらせ、教室から出ていこうとする。力ずくも甚だしい。
「おい待てコラ伊織。どこ連れてく気だ」
「うぜぇ……喋んな」
「な――」
教室がしんと静まり返る。低いカミソリな声で悪意を吐いたのは、間違いなく伊織だった。
伊織の目が冷然と俺を見ている。毒しか見当たらない少女のほほ笑み。
「そうだ光ちゃん、お昼ごはん用意してないんだっけ? 確か毎日有紗ちゃんに作らせてるんだよね。いいよ。食べなよ」
「あ、おい――っ!」
ゴミのように投げつけられるポリ袋。中身を確認する間もなく、伊織は有紗を連れて教室を出ていく。事態を飲み込む間もなく取り残されてしまった。雷が落ちた直後のような静けさだった。
「何なんだ、一体……」
「浅葱くん、何? なんかあったの?」
「俺が聞きてぇ。いきなり何なんだあいつ、ワケわかんねーぜ」
もしかしてこれは喧嘩ってやつか? ヤケに重い気がして、伊織が投げつけてきたポリ袋を見ればいっそう分からない。
「あいつ、1人でどんだけ食う気だったんだ……」
菓子パン6個。わざわざ学校と反対方面のパン屋に予約してたらしいが。
†
「帰ろう、有紗ちゃん」
「…………」
ホームルームが終わるや否や、逃げるように伊織が教室を出て行った。困惑気味の有紗を連れて。仲良し4人組分断の瞬間である。
「……どうにも、かなり来てるようだな。吉川のやつ」
「知らねぇ。いきなりキレんのはいつものことだ――」
だが、今回ばかりはかなり深刻なように思える。周囲も煮立ったような伊織に気を遣っている。破裂寸前の爆弾みたいだ。
「……スイッチ押してやろうか、面倒くせぇ」
「何か心当たりはないのか」
「ねぇよ」
と口に出してから考える。カバン引っ提げて帰ろうとするが、足はぴたりと止まってしまった。タケルは鋭い。
「………………本当か?」
今朝方、有紗と一緒に家を出た瞬間に伊織と出くわした。それからだ、伊織が不機嫌なのは。時間が経過するごとに怒りは加熱しているように思えた。
「どうだかな。どのみち、訳分かんねーことには変わりねぇよ」
窓の外、グラウンドを行く伊織と有紗。伊織は前だけ見ていたが、有紗だけがちらりとこちらを振り返る。迷惑かけてスマン、と手を挙げておいたが伝わっただろうか。それきり有紗も去って行った。
「まったく…………厄介な女。どう思うタケル」
「そういえば、ついこの間も似たようなことがあったんじゃないか?」
「あー……」
何か、あったな。あの時伊織はどうして怒っていたんだった? 目先の分かりやすい理由じゃない、アイツは確か、もっと別な常識的な部分で怒っていたんじゃなかっただろうか。
そこでポツリと、窓ガラスに点が生じた。
「――雨だ」
彩度を失ったような街の風景、気が付けば頭上は暗雲だった。わざわざ下校時になって降ってきやがるとは、面倒くせぇ。
「……やられたな。光一、傘はあったか」
「置き傘があるだろ。誰かのビニール傘借りて、明日返せばいい」
この教室にあるものを借りパクする気にはなれなかった。汚ねぇ街なかのコンビニとは違うのだ。俺みたいなチンピラのルールが通じる場所じゃない。
「雨、ねぇ…………最近は降ってなかったんだが……」
どこか甘すぎるような、けれどいままで当たり前に繰り返してきた日常が雨に濡れる。
何かが終わろうとしている気がした。




