朝
「忘れ物、ない?」
「ああ」
部屋を出てしかと施錠する。忘れ物以前に持っていく教科書がほとんど無いのだが、黙っておこう。
ぺしゃんこのカバンをひっさげ、振り返れば目の前は花宮市全景。少しばかり曇っていて薄暗いのが癪だが、雨は降るだろうか。
目の前には変わらず静かな有紗が、茶色の瞳で俺を見ている。
「傘は……いいか、面倒だな」
「うん、いざとなれば折り畳み傘あるよ」
そいつは助かる。わざわざ鍵開けるのも面倒だし、このまま登校といこう。
苦行のように長い階段を、有紗に無理をさせてしまわないように気をつけながら下っていく。薄暗い様子はどこぞの怪しげな研究機関みたいだ。
「いつ来てもここの階段、長いね……」
「ああ。いい運動になるな」
有紗にこれを強いるのは酷だと思うが、見やれば意外に平気そうにしている。そういえばこいつ文武両道なんだっけ。体育の成績も悪くないのだ。まったくデキる人間ってのは羨ましいもんだな。
こと体育に関してのみなら、俺とタケルは半ば人外の領域にあるのだが。
「…………よく、この階段を走らされたな」
「え?」
「春子さんに鍛えられたのさ。ノンストップで10往復しなさいだとか、20往復しなさいだとか、無理ならやめてもいいわよだとか」
有紗が小さく笑った。口元に指を当てて控えめに言ってくる。
「何それ。厳しいのか優しいのか分からないね」
「ああそうさ、春子さんはいつでもそんな感じだ。本当は厳しい人なんだが、俺、息子じゃなくて甥っ子だからな――」
随分と甘やかされているように思う。父も母もいない俺は、いろんな面で春子さんに甘えっぱなしだ。
「……ごめん」
「なんで謝る。軽く聞き流してくれよ」
父も母もいない。そんなものはとうの昔に死んでしまった。だが、そんなことはどうだっていいことなのだ。
俺は独りじゃなかった。それで十分だろう。どこも不幸なんかじゃない。
「さて――はぁ、長かったな。悪い有紗、こんな階段歩かせちまって」
「いいよそんなの。私が来たくて来てるんだから」
ようやく拷問のような階段を終え、玄関の自動ドアをくぐって外に出る。そこで、あくまに出会った。
「…………………あれ? 有紗ちゃん、なんで光ちゃんちから出てくるの?」
「悪い有紗、俺やっぱ傘取ってくるわ」
有紗にカバンを押し付けて全速力で逃げ出した。
「あっ、待ちなよ光ちゃん! ちょっと! どういうこと!? まさか有紗ちゃん泊めたんじゃないでしょうね!」
何故だ。なぜ。どうしてよりにもよってこのタイミングで、運悪く伊織がうちのマンションの前を通りかかる? 通学路歩けよクソッタレ。
逃走中、物陰から島村さんがグッと親指立てて来るのを視た気がした。
†
「……なんでお前がこんなとこ歩いてんだよ」
「パン屋さんに予約してたパン受け取りに行ったの。悪い?」
目を合わせることなく、横に並んでずんずん歩く。実に険悪。黒い瘴気が大気を濁らせていく。お互いに鎧甲冑でも着込んでいるような気がした。ガシャガシャと敵意がぶつかり合う。
「購買で買え」
「うっさい。私の勝手でしょ。そういう光ちゃんこそどういうことなの。説明してよ、このロクデナシ」
「………………」
背後を振り返れば、3歩離れてついてくる有紗が、苦笑いして手を振ってきた。家庭裁判所で伊織裁判長に裁かれてる気がしてきた。
いよいよもって睨みつければ、伊織の童女のような瞳が悪魔の冷酷さを湛えている。ふざけるな畜生、なんで俺がこんな犯罪者のように責められねばならない。やましいことなんてまったく何も無いというのに。
「………俺の……」
「は?」
不良の俺以上に不良極まりない、『何言ってんだろうこのゴミ?』みたいな相槌に挫けそうになる。負けるか。非公式狩人をナメんじゃねぇ。
滴る汗を拭い、眉間をぴくぴくさせながら、憎悪を籠めて伊織を睨み返し言ってやった。
「……俺の、勝手、だろ。」
「な――」
さしもの伊織も怯んだ。俺の断言。反論の余地をまったく許さぬ押しの強さに、何故か背後で有紗が手を組んで感動している気がした。気のせいだ。
くっ、と歯噛みして伊織が、苦し紛れに切り返してくる。
「ふ、ふんッ! なにさ光ちゃんのくせに、甲斐性なしのノータリンの分際で10億年早いってのよ! 行こう有紗ちゃん!」
「あ、えっと――」
なかば力ずくで有紗の手を取り、勝手に駆けていってしまう。八百屋の前にいた主婦が白い目で俺を見る。女子に逃げられてる? まったく何なのかしらあのヤンキー。なんですか俺は、性犯罪者か何かですか。
「……ん?」
連行される有紗が、何か言いたげに俺の方を見ていた。




