賄賂
昼頃、正確には昼飯時の少し前、3時限目が終わった瞬間を狙って俺は教室のドアを蹴り開けた。
一瞬だけこちらに目を向けた民衆共は、しかし俺の姿を見るや慣れているのか自分の休み時間に戻る。あるいは連日のことでこのクラスがトラブルに耐性を持ち始めているのかもしれない。動じないのはいいことだ。
「ようタケル、昼飯奢ってくれ」
「そうだな。それはよかったな」
漫画雑誌から視線も上げねぇ。幸いなことに伊織は不在らしかった。心置きなく、安心して自分の席に腰を下ろすことが出来る。
カバンを置きながら隣人に声を投げておく。
「よう、おはようさん有紗。」
「…………」
まじまじと、巨象でも観察するように見られる。心なしかギクシャクしていた。
「う、うん。おはよう光一」
「お、おう」
俺なんか悪いことしたっけか。そんなことを考えていたら教室後方のドアがものすごい音を立てて解放され、戦闘民族な俺は敵襲を疑った。爆薬かと思えば伊織の、破裂寸前の爆薬みたいなニッコリ笑顔が待っていた。
ゾクリ、血も凍る。クラス全員が何事かと見守る中で俺だけがその満面笑顔の恐怖に気づいている。ずんずんずんずんやって来ては、逃げることもできずに凍りついていた俺に迫ってくる。
ガンダムのようにぐしゃりと二の腕を捕まれ、有無を言わさず立たされる。
「――光ちゃん。ちょっと。」
「な、なんだよ、」
「ちょっと。」
嘘だ。嫌だ。有紗にすがろうとするも、無情にも俺は教室から連れ出されるのだった。
†
「お、おい! 何なんだよ放せ! ふざけんなコラ! おい!」
ずいずいずいずい引っ張られていく。まるで掃除機。腕一本掴まれて好き放題引きずり回される引きずり回される。
ニコニコ笑顔(死)の伊織と不良然とひたすらに罵声を投げ散らかす俺。俺としては子犬が危機に際して吠える心境なのだが、周囲の痛い視線はどうにも遠巻きだった。
構うな。叫べ浅葱光一、なんとかしてこの悪魔の腕を振り払わんと、このままでは理科実験室で左腕ギロチン刑くらいは普通に有り得そうで困る。
「おい放せてめ――!」
「黙ってついてこいよ」
「……………はい」
まさかの男口調で返されて、ぐうの音すらも出せなくなった。なにこいつ怖いヤクザか。女のくせに、一体どういう構造でその喉からドスの効いた声を出したんだ。
伊織は鼻歌まで交えてご機嫌(殺)。逃げることはできないらしい。
もうなんだかすべてがどうでもよくなって、呆然と首根っこ掴まれて引きずられるに任せる。さながらプールで背泳ぎで浮いてるみたいだった。
「……あー……」
空、晴れてるなぁ。こんな小汚い、カビの生えたような廊下なんてどうでもよくなっちまうくらいにいい天気。窓枠はフレーム、シャッターは、俺の心だ。
ゾンビの眼で淀んだ世界を見ていた。林道ちゃん(担任のロン毛)が通り魔を見た時の顔になってるとかああどうでもいい。本当どうでもいい。
ほどなくしてどこだかの袋小路に放り出され、オヤビンはニコニコしながら俺の襟首掴んでくる。
こっちはもう立ち上がる気力もないほど死体だった。いつのまにかタバコをくわえてた。
いよいよ殺人機は、珍しく俺のタバコにも構う様子がなく、ただひたすらに俺の襟首掴みあげ、女王様のように見下ろしているのだった。校舎の影になった場所で。
「………………やるじゃん。映画行くんだって?」
そのあまりに陽気でゴキゲン極まりない笑顔に、滝のような汗が滑り落ちた。地面に跳ねてそれも踏まれる。
ああバレてる。やばいバレてるぞ。俺が有紗を連れてってやるってバレてるぞ畜生。
どうすんだクソッタレ、有紗のやつは映画に行きたいと言ってたんだ。
妨害する気か? 優等生を遊びに連れ出すなってか? 畜生なんだ、一体何が望みなんだこの女――!
「いくらだよ」
「は?」
「いくら払えば見逃してくれんだよ」
「…………」
無言で顔を踏まれた。




