石灰
ようやく辿り着いた教室は何やら騒がしかった。ドアくぐった途端に野次馬どもの背中が見えたのだ。
進もうとした有紗が立ち往生して、難しい顔してこちらを振り返った。
有紗の代わりに前に出て、男子の肩を掴んでひっぺがす。
「なんだよ。おい、どけ。通れねぇ」
「わっ、浅葱くん――!?」
「あん……?」
俺の名が挙がった途端、全員の視線が俺に集中したのを感じる。騒がしかった声も一瞬にして静まり返る。そもそもこの野次馬どもは、教室前部によってたかって何を野次馬してたってんだ?
なんとなく気圧されて、人の壁より前に出ざるを得なかった。
人間アーチをくぐるように、拓けた現場へとポケットに手を突っ込んだまま踏み込んだのだった。
「なんだ……おい。一体何が、」
――そこで、少しばかり俺は思考が止まった。
黒板だ。クソつまんねぇラクガキがされていた。埋め尽くすほどに書き付けられていた。
まるで悪意や呪いを鍋に閉じ込めて、十年くらいぐつぐつと煮たような負の渦だ。見ているだけで、これを書いた奴の気分を想像するだけで滅入ってくる――得てして地獄ってのはそういうもの。現代だってどこでだって、人の悪意と理不尽がはびこっているならそこは地獄だろう。
チョークで厚く重ね塗りするように負の言葉を刻みつけられた黒板は、数平方メートルの地獄と呼ぶにふさわしい。濃く書き付けすぎて実に目に痛い。
……そんなものに睥睨されるように、教卓があるべき場所で誰かが俯いて立ち尽くしていた。教卓が倒れていて、この状況がただ事ではないことが見て取れる。
“――朱峰椎羅は人殺し”
そんな言葉に見下ろされて、転入生である朱峰椎羅は幽霊のようにそこに立ち尽くしていたのだ。
なんだこれは。イジメか? 残念なことに、書いてある内容は真実なので言い逃れなどできないが。
「…………ふーん」
俺は顎に手を当て鑑賞した。黒板の文字は凶器を刺すように筆圧が強くて熱が篭っているが、実にくだらん。例え朱峰が人殺しだったとしてもこれはクソつまんねぇ。
「言っとくが俺じゃねぇぞ」
クラス全体に聞こえるように言ってやると、少しだけざわめきが返ってきた。構わず朱峰の横を通り過ぎて黒板消しを掴み、消しに掛かる。
「んだよこれ、全然消えねぇじゃねえか面倒くせぇ……」
執念なのか何なのか、くっきりこびりついていやがる。チョークが塗りたくられすぎていて消しても黒板が濁っていくだけ。クラスの連中は騒がしい。
「……あ?」
ふっと振り返れば朱峰が感情の読めない目で俺を見ていた。雨にでも濡れてるみたいだ。クソうぜぇ。消去作業に戻る。
「俺は言いたいことは直接言うんだよ。こういううざってぇやり口は好かねぇ。陰湿なんだよ陰湿。分かるかよ、同じ批判でも、こうやって周囲にまで不快を振りまいたのは下手人の陰湿さなんだよ」
それにしてもどこの馬鹿なんだろう。忘却の呪いの効果を逃れていたとでもいうのだろうか。まあ確かにありゃ範囲が広すぎたし個人差があるものだったので、1人2人朱峰を覚えていたって仕方ないのだが。現に俺だって覚えていた。
抹消作業はなかなかに難航し、途中からは顔を見合わせたクラスの何人かが協力してくれた。顔も名前も知らないが、向こうは俺を知っていたらしい。
変な奴らだ。同じクラスだっつーだけの赤の他人だったのに。
「…………」
朱峰は何も言わなかった。俺が背中で拒絶したせいもあるだろう。
少々汚れているが、それなりに黒板が使える状態にまでなった。
労働を終えて野次馬も解散、その場に腰を下ろしてだらけていたら、静かにタケルがやって来た。
「…………学校って、面倒くせぇのな」
「何?」
手のひらはチョークの粉まみれ。陰湿なガキのやり口。少しだけ学校という空間が嫌いになった。
†
「光ちゃん」
階段を上がる途中に階下から声を掛けられた。振り返れば何故か、伊織が騒がしい廊下を背景にご機嫌でそこにいる。
鼻歌でも歌ってそうな異様なまでのご機嫌だ。無意識に顔が引きつる。嫌な予感。
「ん……何さ、その嫌そうな顔。光ちゃんのくせに」
「…………」
ポケットの中の100円ライターに指先が触れる。火を付けて逃げようか、さすがの伊織も制服に火を付けられては少しくらい怯むはずだ。
ずばん、と一段階段を上がってきて鼠のように後退する。
「な、なんだよ伊織。こっち来んな」
「え? いやいや、私は単に感心してるんだけど。光ちゃん、なんだかんか言って結局ただのツンデレだったんだなぁって」
「…………は?」
なんだ? このネコ科もどきはニンマリ細目で何言ってやがる? ずんずんずんずん上がってきては、俺の肩に猫のように両手を置いて囁きかけてきた。
それはそれは悪魔の囁きのようで。
「――朱峰さんのこと。光ちゃん、案外いいとこあるんだね。見なおしたよ」
それで、おしまい。少女の形をした何かは逃げるように軽やかに立ち去っていく。俺は最後まで、伊織の背中が角を曲がって見えなくなるまで冷や汗が止まらなかったんだが。
「…………怖ぇえ……」
あの愛らしい笑顔がトラウマだ。額を拭うと汗ビッショリだった。
ここでチャイムが鳴る。廊下を行き交っていた生徒たちも急いで教室に帰っていく。統率された箱のなかに在ってなお屋上を目指す俺だけが異端だ。
半開きだったドアを蹴り開ける。




