忘却の魔女
「――――何だって? 十年前の事件が何だ光一」
退屈で死にそうな授業を終えた昼休み、タケルと共に屋上でまたしても紙パック吸っていた。
こうやって芳しいりんごジュースなんかを吸引していると、なんだかちょうちょにでもなったような気がしてくる。
校庭のバスケを観戦しながら、俺はジュースのストローを教鞭のように振るう。
「だっから、十年前の事件だよ。赤羽事件。お前も覚えてるんだろ?」
「ああ…………かろうじて、な。」
そう言ってタケルは缶コーヒーを両手で包み、縁側のじーさんみたく空を仰いだ。意味深な風流さなんかを纏っていやがる。
「かろうじてってお前……そりゃ、大部分忘れちまったってことかよ」
「何? はっ、馬鹿を言うな光一、俺を誰だと思っている。花宮市の異常現象狩りのエースだぞ」
そんなことは知っている。日本刀一本で悪霊共をぶっさぶさ斬り倒しまくる魔鳥がタケルの正体だ。その剣はあまりに速く、いつしか狩人仲間たちはタケルこそ花宮市最速の狩人であると豪語するようになった。
そいつのドヤ顔が何故だか、いつになくうそ臭く思えて辟易した。
「……忘れたのか」
「フ――俺を誰だと思っている。花宮市最速の一夜漬け学生だぞ」
「知っているかい、人間には短期記憶と長期記憶ってものがあってな、昨日テレビでやってたけど詳しくは忘れた」
「実に光一だな」
「そういうお前こそ、本当にタケルだな」
クソのように冷えた風が流れ、俺たちの間を吹き抜けて遙か遠くの空に呑まれていった。
そんなものを無意味にいかめしい顔して虚しく見送る馬鹿と阿呆。俺とタケルの取り合わせで会話をしていると、実にアレだ。
「………んでだ、十年前の話に戻るが」
「ああ、手短にまとめてもらえると有り難いな。いち花宮市民としては、あまり気分のいい話ではない」
「アレ、一般人に対する口止めはどうなってんだ?」
「…………」
朧気に春子さんに聞かされたような気がするのだ。しかし古い話すぎていまいちはっきりと覚えていない。
陰惨な記憶を俺は、長年の野ざらしで薄汚く汚れてしまった給水タンクを見ながら思い起こす。
「街なかで赤羽の天使が大暴れして、誰かれ構わず虐殺して大パニックを起こしただろ。一般人や狩人だけでなく、警官まで殺されてた。しかも白昼堂々だぜ」
「ああ……そうだったな。交差点で玉突き事故を起こして、ひっくり返った自動車なんかはよく覚えている。なかで血だらけの子供がもがいていた図は、なかなかにつらい光景だったからな」
思い起こせば思い起こすほどに、地獄の炎は彩度を取り戻していく。赤だ。赤赤赤。あの死地と化した街を往く、爬虫類の笑みを張り付かせた赤羽の悪夢――
童女の形をした、椎羅という名前の災禍。
十年の時を経て、何くわぬ顔して転入生ゴッコなんかしていやがるわけだが。
――視界が濁って陰っていくような気がした。霊視にこびりついた赤羽の残照。恨み言はいくらでも湧いてくるだろうが、理性を総動員して横に置いておく。
「……あの事件さ。一般人に見られただろ、それも大量に」
「ん? ああ、それはもう。街の真ん中で羽人間が大暴れして、いろんなものを破壊していったんだからな」
実際、俺だって目撃者の一人だった。俺と同じように襲われた者、俺と同じように椎羅を見た者、俺と同じように運良く生き残った者。
そんな俺と同じような目にあった奴らが、十年経ったいまでもこの花宮市で生きているはずなわけだが。
「よう、狩人には秘匿義務があるだろう? 一切の異常現象は一般人に知られてはならない、だから秘密裏に捕捉し秘密裏に抹殺し秘密裏に処理するってやつ。なのに事件はあこまで露見しちまった」
「ああ。あの時はやばかったらしいな。なにせ目撃者が多すぎる。いっときは異常現象秘匿の崩壊も危ぶまれたそうだが――」
「そんでだ。結局おまえら、どうしたんだよ? どうやってあの事件を隠蔽したんだ」
「どうやって……と言われてもな。お前も知っての通り、赤羽事件は国内の宗教団体のテロによる、大規模な無差別殺戮だった――ということになっているが」
それが、狩人たちの事後処理の結果だ。テロリストの仕業に見せかける。現実にそのような団体は存在していたし、ちょうど凶悪な犯罪を目論んでいた輩だったので、赤羽事件の罪を着せて逮捕・強制解散、という結果になっているわけだ。
それで事件を知らぬ者たちは誤魔化せるだろう。
しかし、事件をその目で見届けてしまった者たちは騙せない。
「そっちじゃねぇよ……えーと、な。春子さんに聞いた気がするんだよ。どうしてかいまいちハッキリ思い出せないんだが」
「ほう? お前も“忘却”に憑かれたか」
その鋭利な眼光が、赤く血のように輝いている気がした。言葉の意味は掴みにくかったが――。
「なるほどなるほど……分かったぞ光一。お前が言いたいのは、無差別に振りまかれた十年前の事件の“記憶”、その処理についてだな」
「…………そうだ。記憶。ああ、そこの辺りを詳しく説明してくれ」
いいだろう、とタケルは腕組してヘリに背を預けた。軽い話ではない。十年前、秩序崩壊しかかった花宮市の、起死回生の真相が明かされるのだ。
街全体への秘匿漏洩は即ち滅亡。タケルたち狩人にとってのバッドエンドとも言うべき結末だ。その結末を回避するために異常現象は狩られ、情報は隠蔽され、大勢の民間人に脅迫じみた口止めと監視が行なわれている。
「まずは…………そうだな、どこまで覚えている?」
かなり前に春子さんに聞かされた話と、俺が知っている現状を思い返す。
「…………何だったかな。赤羽事件のことを、一般人がまったく覚えてない、ってのは分かる。どうして覚えていないのかは思い出せないが、おまえら狩人たちが記憶処理したんだろう?」
あの時の話だ。有紗を守れず、逆に守られてしまった俺は有紗の親父にぶん殴られた。やり過ぎだったのかもしれないが、俺は仕方のないことだと思う。本当にあの拳は、心の芯に突き刺さったくらい痛くて正しかった。
後日、有紗の見舞いに行って俺は、親父さんに謝ろうと土下座した。有紗は意識不明のままで、俺は心底蹴られてもいいと思った。
だが、有紗の親父は不思議そうな顔をする――親父さんは俺を殴ったことは愚か、どうして有紗がケガをしたのかさえもまったく覚えていなかったのだ……。
「お前ら狩人が、街の住人から事件の記憶を消したんだ。そうなんだろ?」
「ああ、そうだ。正確には…………花宮市全体に科せられた“呪い”だな」
「呪い……?」
呪いってーと、あの呪いか。タケルの眼光が肉を裂く刃物のように鋭さを増す。
「なかなかに広範囲かつ強力な呪いだぞ。効果対象は狩人とその関係者以外全員――まったくばかげたものさ。狩人たちさえも信じられなかったのだが、本当に、街の住人は赤羽に関する記憶を綺麗サッパリ失ってしまった。――――“忘却の呪い”というそうだ」
忘却の呪い。それが、この街から赤羽事件の記憶を抹消したのか。
「この呪いはいまもまだ続いている。いまこの瞬間も街の住人から、あの時の記憶を浄化させ続けているんだ。……忘却は救いだからな。痛みも恐怖も苦しみも、羽人間どもに襲われたっていう事実ごと拭い去っている」
ここから見える花宮市の遠景は、あまりに雑多で広大だ。この光景すべてを10年間も癒し続けてきた呪いなんて、本当に底なしもいいとこだろう。
「……もっとも、忘却の呪いは少々強力すぎたらしくてな。だから俺たちにまで影響が出る。蝶野さんやおそらく春子さんも、大なり小なり忘却の影響を受けているはずだ」
「なるほどな――だからあの事件の話はどこか曖昧なんだ。ああ、あんだけ恐ろしい事件だってのにどの狩人もうろ覚えだった。ようやく納得がいったぜ。会話にならんわけだ」
「そうだな。10年前の件は『赤羽事件』とはいったものの、実際には赤羽一匹だけが虐殺を行なっていたわけではないのだし」
その辺りは俺も覚えている、というか俺はあの事件に関しては他の人間よりも詳しく覚えている。何故なのかは分からないが。
「――赤羽事件の概要は、赤羽一匹による大量殺戮ではない。赤羽とそれを追っていた狩人との交戦、そこから交戦でタガの外れた赤羽による無差別虐殺、そしてどこからともなく現れた“羽人間たちによる赤羽の討伐”と失敗。あの事件は、狩人と羽人間と赤羽の三つ巴の紛争だった」
目眩がしてきた。狩人共だって本来は裏側の住人だ。武闘はもちろん呪い持ちだって大量にいる。それと羽人間軍と、地獄の赤羽。なんつー魔界大戦を表側でやっちまったのだろう、10年前の花宮市は。
「……なるほどな。そりゃ、あんだけめちゃくちゃになるわけだぜ……」
「ああ――もはや戦争だな。そこら中で一般人が引き裂かれていたそうだ」
クレーター、クレーター、クレーター。特に俺が覚えているのはそれだ。赤羽の超重量武装によってあちこちが凹んじまったアスファルトに壁、街の風景。
目撃者は何百人もいた。
しかしそのすべての記憶を、この街に科せられた“忘却の呪い”がなかったことにして癒したのだ。
「…………“忘却の魔女”、というそうだ。この呪いの主」
「へぇ。大したもんだな、そいつ。つかすげー便利じゃねぇか。もっと普段からバシバシ使おうぜ」
「馬鹿言え。貴重すぎて本部直属の特派魔女なんだ、そうやすやすと呼べるものか。しかもあれから10年だ。当時小学生だった彼女も既に大人になり、これだけ長年呪いを行使しておきながらまだ暴走の気配がない。奇跡だよ、なにせ――」
――――――呪い持ちは、消耗品だからな――……と、翳ったタケルが消え入るように囁いた。残酷だが仕方のない狩人共の現実の話だ。
「……たしかどこかの島国の出身だったかな。破格の待遇で悠々自適にやっているんだろうが、さて、今頃どこにいるのやら」
「…………あれ? おいちょっと待て」
「何だ。どこか間違っていたか」
ストローを噛みながら、さっきのタケルの話を回想する。やはり一点だけ納得がいかない。
「狩人と、羽人間共と、赤羽の三つ巴っつったか? つーことは何だ、羽人間共はもしかして、赤羽に襲いかかったってことかよ」
校庭のバスケは何かトラブルがあったらしく、ゴールの下で2人の男子がもめていて、周囲がなんとか鎮めようとしている。
「ああ、そのようだな。同じ羽人間同士、どうして争う必要があったのかは知らないが――そもそもあの日の羽人間軍団は、赤羽を追って現れたんじゃないかって言われてるくらいだ」
「…………んだそりゃ」
どうなってる? あの人間味のない女の爬虫類みたいな視線が、フードコートで孤独にBLB食ってた姿が浮かぶ。
赤羽、つまり朱峰椎羅は――――羽人間どもに追われていたってことか?
何故だ? あいつは間違いなく、白羽の奴らと同じ羽人間だろう。なのにどうして同族で争う理由がある?
あいつと奴らとの違い? そもそも……
「………考えたことなかったな」
「む? なんだ光一」
紙パックをゴミ箱にスローイン、3ポイントシュート。屋上のドアへ向かいながら思案する。
そもそもどうして、朱峰椎羅だけが、他の奴らと違って翼の色が“赤い”のだろう?
見やると、バスケットコートの喧嘩は無事収まったようだった。




