ナインボール
「…………」
二階、何度かノックしたが返事はない。扉はまるで、塗り固められた壁のようにびくともしない。
本当に物音一つ無くて、実は誰もいないんじゃないかって気になる。
再度、ドアをノックした。
「……おい妹、俺だ。光一だ。ちょっと暇つぶしに話さないか」
あまり驚かさないよう、軽く叩くに留めた。相手は年下の少女なのだ。俺みたいなの、怖がられたって仕方ない。
「何、別に怒りやしねぇよ。すまんが他人の家庭の事情に口出すほど野暮じゃないんでね。俺は単に、灰皿貸して欲しいだけだ。ほら、お前さ、ビリヤードの玉みてぇなやつ持ってたろ?」
だが、紗織は俺が嫌いだったろうか――? 有紗の妹は要領がいい娘で、気丈で、成績いいくせに隠れてタバコ吸ってたのを俺は知っている。
そんな共通項から、いつだったか意気投合したはずなのに――。
「………………」
なのに、答える声は一切ない。俺は再度ノックしようとして手を止めた。
「…………わり。邪魔したな」
踵を返し、帰ることにする。どうにも俺まで嫌われちまったようだ。それも仕方ないことだろう、相手は年頃の娘なんだから。秋の空より難しい。
だが何か物々しい『ごとり』なんて音が聞こえて足を止める。
「ん…………」
目を見張る。
紗織の部屋のドアの前――そこに、いつの間にか懐かしいナインボールを模した灰皿が置かれていた。
†
有紗に見送られ、坂本家を出て家路を急ぐ。タケルから緊急連絡が入ったのだ。
くわえタバコを吹かしながら周囲を警戒。ひったくり犯どころか人がいない。殺人鬼でも出そうなくらいの暗い夜道だった。
「……で、なんだってタケル。どういうことだ」
『それはこっちのセリフだ……光一、一体何があったんだ。朝方に春子さんがテロったのと何か関係あるんだろう。いいかげん吐け、この無法者』
「…………」
どうやら、ようやく蝶野からタケルに話がいったらしい。
『さっき電話があって、総括から、朱峰さんの監視と必要に応じて協力・または処罰、なんていう訳の分からない任務を押し付けられた。何なんだこれは。知っていることがあるなら話せ光一。総括が言うままに『何も聞くな』では納得いかん』
知っているも何も、朱峰椎羅は十年前の虐殺者、赤羽の天使そのものなのだ。
春子さんの指定により、タケルはそのお目付け役を仰せつかっている。これが朝方の、天使狩りと狩人との喧嘩の停戦条件だ。
しかしやはり、タケルは椎羅=赤羽という核心を聞かされていないらしい。蝶野の考えなんだろう。
「――さ。狩人の事情なんて知らねぇな」
『嘘を言うな。お前が噛んでいるんだろう、むしろお前か春子さんの差金なんじゃないのか。――ああ、なるほどな。だいたい話が読めてきた』
思わず舌打ちしそうになった。このバカ、頭の回転が速すぎて気付くべきじゃない真相に気付いちまう可能性がある。
「知らねえっつってんだろ。聞きたいことがあるんなら蝶野に聞け、大体、俺から聞き出したら俺まで面倒に巻き込まれちまうだろうが」
『聞き出されて困る、ということはやはり隠し事があるわけだ……秘密の共有者はお前、春子さん、総括――そして重要な位置に朱峰さんがいて、任務内容は朱峰さんの監視と協力と処罰。つまり朱峰さんには注意を払わなければならない何かがあって、戦力にはなるが今ひとつ信が置けない状況ということになる。そして、揉めていたのは何故か狩人総括と天使狩り――――ふん、そういうことか』
情報を与えなければ気付かれることはない。例え怪しまれようともしばらくは隠し通せるはずだ。
そんな希望的観測は、黒川タケルという狩人の前にあっさり大破した。
『――――朱峰さんは、天使か。それも狩人の側に寝返った協力者というわけだ』
酸性の大気を吸ってしまったように、大きく痛々しく息を吐いて顔を押さえた。
マズった。詮索された時点で電話をぶった切ってしまうべきだった。こいつの思考を相手に、俺は一語でも言葉を発してはならなかったんだ。
「お前、マジ面倒くせぇよ」
『ふん――なるほどな、だからお前が総括と揉める。だから怒った春子さんが攻めてくる。だから総括は情報を隠し、朱峰さんの監視を俺に命じる。昨日今日の狩人と天使狩りの抗争は、俺たち狩人が、寝返った天使を戦力として使うなんて言い出したからだ。そしてこの俺は――総括や春子さんとの話し合いにより、朱峰さんの、いや裏切りの天使の足枷として配置された』
すべて当たっている。少ない情報から正確に見抜かれている。さすがに椎羅が赤羽だということまでは気付いていないようだが――それにしても、ばかげてる。
『……さて、それにしても妙だな』
どきりとした。まさか、朱峰が赤羽だと気付くんじゃないだろうな。有り得ない。そんなヒントは一切ないのだ。
「…………妙って、何がだよ」
『蝶野さんだ。おかしいとは思わないか? 俺に、嘘の情報を教えるでもなくただ『何も聞くな』と言ったんだぞ。そんなもの、疑ってくれと言っているようなものじゃないか』
確かに、ベタベタなやり方だ。秘密にしたいなら『何も聞くな』ではなく筋の通った嘘で注意を逸らすべきだ。
「………そうだな。俺から見ても、隠し事が下手すぎるな」
『何? おい、それは違うぞ光一。言ったろう、蝶野さんの言葉を額面通り受け取るな』
「あん? どういう意味だよ」
電話の向こうで、花宮市狩人のエースが清涼な溜息なんかを吐いた。使命を背負った者特有の沈痛な憂鬱だった。
『――隠すつもりがない。蝶野さんは、遠回しに俺に何かを意思表示している』
「穿ち過ぎだ。誰もお前ほど頭がいいわけじゃない」
『ともかく、さっき朱峰さんが狩人本拠を出たらしい。1人で出かけるんだとさ。俺はいまから朱峰さんを尾行するが、お前はどうする。蝶野さんから、いちいちお前に声を掛けろと言われている』
ケータイ画面を見れば、時刻は7時半――単独で見回りというのが非常に引っ掛かるが、その前に人間の義務を果たさねばなるまい。
「……行くよ。帰ってメシ食ってからな」
『何? おい、ふざけるな天使狩り。夕食など尾行が終わってからにしろ』
「ざけんなテメェ。何が起きても、どんなに仕事が立て込んでても修羅場でも、むしろ死にそうな状況になっててもとにかく何よりも優先してメシだけは必ず食え、寝なくてもいいからメシは食え、メシを食わないなら死ねって親に教わらなかったのか」
殺し合いってのは命の削り合いだ。いざという時に力が抜けて死んじゃいました、では話にならんのだ。
メシだけは絶対に食わなければならない。絶対にだ。




