甘い毒
「浅葱。坂本の荷物を纏めておいてくれ」
「あ? なんで俺が」
翌日、林道ちゃんから荷造りを強要される俺、不安そうに見守るクラスメイトたち。従うつもりなどまるでなかったのだが、あまりにも不安そうな空気を出されて頷かざるを得なくなる。
「ち……分かったよ、やりゃいいんだろうがクソッタレ。」
仕方なしに休み時間、昼休みを利用して片付けることにした。俺の胸中は複雑だ。
「ほう? どうしたんだ光一、いつもの女性の荷物を漁る趣味が出たのか」
「てめぇは授業中のやり取りを聞いてなかったのか。ぶっ飛ばすぞてめぇ」
タケルを追い払い、ひとまず机の中を覗き込む。荷物らしい荷物はまるでない。その代わり、手を突っ込んだ段階で奇妙なものを掴まされてしまった。ひらひらといまにも千切れそうな。
「…………映画のチケット?」
新聞屋にでも貰ったんだろうか。机の中に放置されているのが謎だが。
「ああ、それ僕が用意したんだ。不要になってしまったね。残念なことだ」
声をかけてきたのは、片山だった。片山が映画のチケットの用意を? なんでだ。
「いや、坂本さんに頼まれてね。知ってるかいその映画。『星になるまで』っていう邦画なんだけど、これがかなり入手困難を極めていて、まぁ普通の人ではちょっと無理だ。僕のように、映画館に知り合いがいるなら話は別だけどね」
聞き覚えのあるタイトル。チケットには、星降る丘から空の海を見上げているシルエットが2つ、背中を向けているらしかった。
「坂本さんにしては珍しく悩んでいたようだったけど、無事、僕がチケットを入手できてね。浅葱くんと見に行く約束をしていたというから、かなりホッとしたんじゃないかな」
いつか、有紗が言っていた。何か『面倒事』が解決できて、胸をなでおろしたと。
なるほど映画のことだったらしい。何となく、窓からグラウンドを見下ろしてしまう。
「…………そうかい……」
腕を組んで歩いて行くカップルの背中が見えた。とても遠く、まるで嘘のように幸せそうだ。本当に乾いた心境で俺はそれを見ていた。
「―――ちょっと、いいかしら」
背後から、冷たい声を投げかけられる。氷を押し付けられたみたいだ。片山が押し黙った。
「………………」
振り返ればそこに、美しい長髪の生き物がいる。神々しいまでの美貌、ただしその危うさはどうみたって魔女か悪魔だ。歩くだけで植物が枯れていきそうな漆黒を纏っている。
本当に笑える。なんでこいつが、よりにもよって教室で制服なんて着てるんだろうな――。
「話があるのだけど。いいかしら」
不思議と落ち着いている。今となっては、こいつがこの教室に居座っていようがどうでもいい。もはや俺自身が日常に執着する理由などほとんど残っていないのだ。緋を帯びたような不機嫌な目に、俺は疲労感のようなものを覚えた。
「ああ、構わんぜ。どうせくだらん話だろ」
「そうね。最悪にくだらない話だわ。おまえが考えている以上に」
「何――?」
そいつは驚きだ。これ以上俺を失望させるような現実が、ふざけた回答があると言うのだろうか。
面白い。
朱峰の目が補修された壁を視た気がした。
教室が、クラスメイトたちが道を開け、朱峰がついて来いと目で告げてくる。
「……フン」
ああ、いいだろう赤羽。今なら、お前と同じ地獄に落ちるのも悪くはない。どこでだって殺しあうだけだ。
†
「…………ひとつだけ、間違っていたかもしれない」
「何?」
楽しい潰し合いが始まるのかと思ったら、朱峰はつまらないお喋りなんかを始めやがった。ポケットの中にナイフを探して、そういえばどこかに落としたんだったことを思い出す。
「言ったでしょう。坂本有紗は人間ではないって。あと、吉川伊織を殺そうとしたのも坂本有紗だと」
「……いまさら、何だ。何を訂正するってんだよ」
吐き気のする話題だ。くだらないことを言うつもりなら口に石でも詰めてやりたい。
コケの生えたような屋上は、まるで湿地だ。この学園内でどこよりも空に近いのに、どこよりも日陰な気がするのだ。
「……私の、思い過ごしかもしれないけれど」
「はっきり言え、面倒くせぇ。何なんだ一体。帰るぞ」
たまらずタバコに火をつける。うだうだと長話されるのは御免だった。ため息吐いた朱峰が、やはりつまらないことを口にする。
「階堂澄花を殺害したのは、別人かもしれない」
「は?」
「坂本有紗には、わざわざおまえのナイフで階堂澄花を殺害する理由がない。どこか矛盾している。もしかすると、坂本有紗は誰のことも殺していなかったのかもしれない」
「…………あァ?」
俺は折れそうな椅子に腰掛けたまま、つま先を鳴らす。イライラする話題だ。本当にくだらない。
「伊織を突き飛ばしたのは事実だろ」
「それは確か。でも、やはりおかしい。もし階堂澄花を邪魔がって殺そうとするのなら、それは坂本有紗ではなく、私でしょう」
笑えてくる。何を言っていやがるのだろうこのバケモノは。襟首掴みあげてもまるで怯みやしない。
「……………………」
静かだ。いっそこのまま突き落としてしまおうか。片手で持ち上げられるくらい、羽のように軽い。
「何が言いたいんだ? てめぇ。」
嘲笑してやる。愚かで知恵足らずな人間外を。しかしバケモノは、逆に俺の腕を掴み、鬼のような嘲笑を突き返してきた。
「ニンゲンの負の感情は常軌を逸している……」
暗い暗い、古い館に住む亡霊のように。すべてを呪う毒の花のように。
「――――――ねぇ、一体どこの誰が邪魔者だった階堂澄花を殺したと思う? “誰”が? この、天使以外に敵などいないはずの盤面の上で?」
ぞくり、と震えた。それは影。俺は背後から、誰かに見られているような気がした。
赤峰は、この視線の正体に気付いているのか。
「……鼻を利かせなさい、この駄犬。おまえのような者には頭をつかうよりその方が向いている」
朱峰が離れていく。ようやく気付いた。朱峰はわざわざ、気付かなくてもいい何かを掘り起こしにきたのだ。放っておけば沈静化していたはずの秘密をわざわざ掘り返し、俺の目の前に、毒入りのチョコレートのように提示してみせたのだ。
その毒は甘く、溶かし殺すように甘美な味をしている。
「ねぇ浅葱光一、私はお前を見ていて思うの。すべて失え。もっと殺せ。私と同じ、何も持たない怪物になれ。人を殺して血を浴びて、同族を殺して血を浴びて、人からも世界からも見放され、もっと酷い目に遭ってもっともっと救いようのない怪物になれ。そうすれば――――」
朱峰が笑った。とびきりの、俺という罪に対する憎悪丸出しの微笑みだった。
「私を、殺せるかもしれない。」
俺の右手は拳を握る。気付いてしまった。気付かされてしまった。たった一人、階堂澄花を殺したかもしれない人物がいたことに。




