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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
122/124

幼馴染み


 狩人本拠で目が覚めた時、そばには狼狽した様子の叔母がいた。らしくもない、疲弊した様子の春子さんなんて初めて見た。どうにもつきっきりで面倒見ていてくれたようで、俺自身は記憶が飛んでいたのだが、驚くことにしばらく浅葱光一は廃人状態に陥っていたらしい。

 ベッドの上の置物だったのだ。物言わぬマネキン。意思のない目をして遠くを見つめ、たまにうわ言を漏らすような酷い有様だったらしい。

 精神崩壊。その言葉が示す正確な定義は実に曖昧だが、確かに俺は崩壊してしまっていたようだ。有紗に記憶をかなり弄られたこと、捏造記憶と忘却が混ざってぐちゃぐちゃになったこと、あと強力な精神操作らしきものも受けたこと等を医務室に集った狩人たちに報告すると、狩人たちに挟まれた蝶野はこう言った。

「……無理もない。そこまで深刻に精神に干渉されたとなると、むしろ今そうやって正気でいることの方がどうかしている。お前、とうに気が狂っているのではないか?」

 別に否定はしなかった。冷めた眼で遠くを見る。確かに記憶は混濁しているし、遥か昔の出来事のようだし、今更参照しても役に立たないだろうから心のなかでは纏めて切り捨てておく。これにて、過去を失った哀れな男の完成だ。――意識しても昔を思い出しにくいのは、どうにも、俺の脳が自我を保つために無意識下で記憶を遠くにやっているらしい。

 しかし、どうでもよかった。興味がない。生きている以上は飯食って寝るだけだろう。いつぞや朱峰某にやられた傷も、学生生活に戻る頃には既にほぼ完治しつつあった。

「退院おめでとう、浅葱くん!」

「浅葱くぅうん! もう来ないかと思ったぁぁああ!」

 久方ぶりに教室に入ると、大袈裟な垂れ幕にクラッカーまで鳴らされ、悪ノリした女子(名前は覚えていない)には泣きつかれ、本当に騒がしくてイラッとした。騒がしい質問攻めに文句でも垂れようかと口を開いた瞬間、俺はクラス委員長の席を見ていた。

「……………………」

 あいつが俺のやることを否定することはあまりない。しかし、なんとなくそこにあいつがいるだけで、俺は多分、どこかヌルい対応を選んでしまっていたのだろう。

 本当に、くだらない――。

 うるさいクラスメイトたちを振り払って踵を返せば、ポツリと片山が言ってきた。

「坂本さん、海外へ行ったんだってね」

 ふと見やれば、壁が綺麗に補修されている。狩人かもしくはバックアップの仕事なのだろう。この場所で、みんなの愛するクラス委員長が死んで、窓際後方、佐藤辺りなんかは拭きとった血の上で毎日勉強しているんだと知ればこいつらはどんな顔をするのだろう。

「…………らしいな」

「らしい? まったく、本当にそれでいいのかい。本当に、僕は蚊帳の外だな――」

 珍しくニヒルな感じに文句を垂れる片山。きっと気に掛けてくれているのだろう。世の中をより良く回しているのはこいつみたいな人間なんだろうなと感心する。

 まるで俺の真逆だ。羨ましくて妬ましくて、皮肉ってみたくなった。

「なぁ片山。人を殺したことってあるか」

「え? あるけど、それが何か?」

「嫌なもんだよな」

「ああ、そうだね。嫌なもんだ」

 聖人君子のように爽やかに笑う片山。こいつにブラックジョークが通じるとは驚きだ。

 まったく人間というのは分からない。

 このクラスにいると、いろんなことを、人間についてを学ばされる。俺一人だったら見落としていたはずのこのぬるま湯の空間の崇高さに、気が付けたきっかけは何だったろう。

 思い返せば――――

 俺は、あいつに言われるまでは殆ど教室には登校していなかったのだった。

「おい、聞いているのかそこの病み上がり。ヤクザと喧嘩して頭打ったという話だが、後遺症でも残っているんじゃないだろうな」

「るせぇよロン毛。人と話すときは眼鏡を外して喋れ」

 担任とくだらないやり取りをして、クラスメイトたちに笑われる。朱峰が無表情で俺を見ていたが無視。放課後になると、クラスメイトたちに朗らかに手を振られて挨拶される。誰もいなくなった頃、夕暮れの教室には影に潜むようなタケルだけがいた。

「……………案外平気そうなのだな、お前は」

 相変わらず腕を組んで、クールに無愛想に立ち尽くしている。あの日は殴りあったような気もするが、過ぎ去った今となっては何故あんなにも熱くなっていたのか分からない。きっとどうでもいい理由なのだろう。男なんてそんなもんだ。

「そう見えるか? そうだろうよ、なんせ何も覚えてねぇからな」

 俺は自分の頭を指さし、クルクルと回してみせた。実にすっきりしている。何も無い。浅葱光一はすっからになったのだ。タケルが目を細め、憐れむような表情になる。

「―――本気で言っているのか」

「本気もクソも、事実だっつの。じゃーな」

 カバンをひっさげ、教室を出て行く。暖かなオレンジで満たされた教室。世界一俺に似合わない場所だ。

「俺は…………お前を行かせれば、必ず死ぬと思っていた」

 背後の呟き。つまりはそれが本音だったらしいので、聞こえなかったふりをしておくことにする。しかしなるほど、確実に死なせてしまうのなら、腕脚の一本引き千切ってでも止めるべきだというのは現実的な判断なのかもしれない。そして、タケルの読みはそんなに間違ってはいなかっただろう。だって浅葱光一はほぼ死んだのだから。

 一人廊下を歩きながら、口元に張り付いた皮肉な笑みを自覚する。鼻歌でも歌い出しそうだ。何も面白くなんて無いのだ。なのに笑っている。実を言うと俺は壊れている。あの日から全てがどうでも良かったし、それはとても自然なことだと感じていた。

 殊勝に家に帰る気分でもなかったから、俺は一人、屋上で昼寝することにした。放課後の音色なんてそう面白いものでもない。ただただ砂っぽいコンクリで寝転がり、流れていく夕日と雲だけを観測していた。

 時間が永遠になったような緩やかさ。雲というのは奇妙だ。何千メートル上空にいるはずなのに手を伸ばせば届きそうな近距離にも見え、巨大なくせに緩やかで、しかし確実に川のように流れていて、これほど気持ち悪いものもない。

 ボンヤリと何も考えないでいた。ずっとずっと、何も考えないようにしていた。例えば十年前。俺を庇って倒れた有紗の記憶。まやかしだった、あの記憶。

 考えてしまったら俺は、きっとまた船のように転覆してしまう。頭の中に疑わしい記憶が山のように残されているが、ひとつひとつ考えこんでいけば今度こそ精神が壊れるのかもしれない。

 どうでもよかった。タバコが不味かった。完全に脱力し、視界は丸ごと空で、無意味なまでにこの世界を全身の肌で感じていた。そばを飛んでいるモンシロチョウが、タバコの先に留まりやしないだろうなとつまらないことを危惧していたら、不意に屋上の鉄扉が開いたようだった。

 誰か近づいてくる。女子の脚が見えた。まっすぐに俺の方へとやってくる。顔を確認するのも億劫で、ただただぼうっと他人ごとのように見ていた。ついには目の前に立たれ、果たしてどんな愛らしい声を投げかけられるのかと身構えていたら、ヤクザのような言葉を投げつけられた。

「おいそこの倒れ電柱。有紗ちゃんからメール返ってこねーんだけど」

 ズシリと来た。なんて横暴なんだろう。相変わらず殴りつけるような物言いに、思わず腹を抱えて笑ってしまう。

「そりゃ、遠くに――海外に行っちまったからな。電波届いてねぇんだろ」

「うっさい馬鹿。死ね。いまどきは海外プランっつーもんがあんだよ」

 調子に乗って笑い転げていたら、おもいきり腹に座られて血を吐くかと思った。苦鳴吐く。この馬鹿は加減というものを知らない。俺じゃなかったら本当にヤバかっただろう。

「で――怪我はもういいのか、伊織」

「別に。学校来てるんだからもう大丈夫ってことでしょ。光ちゃんこそ、ヤクザと喧嘩してレンガおもいきりで殴られたらしいじゃん。何なの、馬鹿? 普通死んでるっしょ」

 ふん、と俺の腹に腰を下ろして鼻を鳴らす伊織。いつになく不機嫌だ。戻ってきてからも、そもそも事故に遭う前からずっとこんな様子だったが。

 そんな言論暴力が、不意に真剣な目をして聞いてくる。

「………………なんか………あった?」

 肝が冷える。その気遣うような眼には逆らえない。嘘が許される質問ではないのだ。

「まぁ、無くはねぇかな」

「そ。本当、悪いことしたんなら謝っといたほうがいいよ。じゃないと、私みたいに謝りそこねたまま連絡取れなくなるんだから」

 ようやく俺の上からどけてくれる。あまり他の人間にはわからないかも知れないが、事故以来・伊織は少しだけ大人しいような気がする。体調が万全ではないのかもしれない。

「なんだよ。有紗になんか謝ろうとしてたのか。なんかあったのかよ」

「まぁ、なくはねぇかな」

 ピリ辛の返答に思わず黙りこんでしまう。こいつは本当にどうしてこうも毒なのだろう。

 聞いても無駄だと見切りをつけ、再び空を観測する作業に戻る。空は広い。雲は大きい。やることのない放課後はあんまりにも退屈だった。ずっと黙り込んでいたら、伊織が隣に腰を下ろし、語りはじめた。

「……腹が立った。不思議なことにね、あの日、光ちゃんちから出て来た二人を見て、ものすごく腹が立ったんだよ。そして、理由も分からず無性に悲しかった」

 あの日、伊織が急に怒りだした日。事故のせいで何も聞けないままになっていたのだ。

 有紗が俺を迎えに来て、二人で家を出た所で伊織と遭遇して、それから伊織は恐ろしく不機嫌になったのだ。

「…………なんでお前が怒るんだよ。訳分かんねーよ」

「そうだね。自分でも不思議だった。あの朝は本当におかしかったんだよ。私、寝ぼけてたんだと思うけど、気が付けばパン屋さんで3人分のお昼のパンを買ってたんだ。……まるで、そうすることがいつもの習慣だったみたいに」

「………………」

 混濁した記憶の底の方に、そんな記憶の破片も残っていた。俺、タケル、伊織の3人だけで過ごす昼休み。伊織が3人分のパンを買ってくることがあったのだ。

「居場所を奪われてしまった気がした。――本当に、不思議なんだけど、誰かに横取りされた気がしたんだよ。とても長い、ずっと昔から大切にしてきたものを、誰かに壊されそうになった気がした」

 伊織が、空虚な眼をしていた。思い返せば、こいつも花宮市の住人で、十年前の被害者なんだっけか。

 ――――――――――――その時、俺の脳裏にひとつの衝撃が走った。

「何言ってんのか分かんないよね。忘れて」

「な……なぁ、伊織」

「何? つまんない話はパスだよ」

「いやその、何だ……」

 まさか。いやそんなバカな。

 坂本有紗と名乗っていた天使は、元からあった日常に乱入していた異物だ。居場所なんて無かったのに、無理やり自分自身をねじ込んで居座っていやがったのだ。

 それは、まるで、椅子取りゲームの椅子を奪い去るように。例えば何も無い空間に何かを生み出すよりは、元あるものを奪ったり乗っ取ったりした方が手っ取り早いのと同じように。

 もしも、有紗が、誰かから“椅子”を奪っていたのだとすれば。

 その“椅子”の元の持ち主は、どこに行ってしまったのだろう。

 あるいは――探しものなんてのは、実は近くに落ちているものなんじゃないのか?

「………………俺たちって、一体、いつからの知り合いだ?」

 重大な問いかけだった。俺の記憶が確かなら、伊織とは確か今のクラスになってからの、つまり“今年の4月からの”付き合いだったはずなのだ。

 だが、伊織はそんな俺の言葉を不審がる。何、ワケの分からないことを言ってるんだと笑い捨てる。そして、ずっと真っ暗だった俺の心に一陣の風が吹き抜けた。


「なにそれ? 幼稚園からずーっと一緒の“幼馴染み”でしょ、光ちゃん(・・・・)。」

「――――――――…………」


 タバコが落ちる。

 この十年間、俺を突き動かし続けてきた強い思いがあった。そう、あの絶望は、今日までこの胸で燃え続けてきた地獄の残り火だけは嘘ではなかったのだ。

「はは、そうか……そういうことかよクソッタレ……」

「?」

 気怠い笑いが漏れた。なんて可笑しいんだろう。乾いたコンクリの上で顔を覆って脱力する。

 十年前、幼馴染みが、俺を庇って死にかけた。あの窮地で俺を救い、血だらけになりながらも「逃げて」と言った少女がいたんだ。


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