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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
120/124

銃歌


 目の前に有紗が立っている。この夜の最奥、最も黒色の濃い場所に。溶け崩れた蝋をあちこちに塗りつけたような泥濘、息を吸えば甘い香。脳を狂わせる酸の霧で満たされている。見慣れた木製の教室はまったくの異空間と化していた。

 毒に溺れながら俺は、引きつった呼吸を継続する。ゼィゼィと息を吸う自分が浅ましい生存本能丸出しの犬のようだった。

「……どうかした? 光一。そんな怖い顔して」

 きょとんと疑問符を浮かべる、いつもの有紗。どこも違わない。そのことがあまりに異常だった。

「…………有紗」

「ねぇ光一、怖いんだよ。家に帰ろうとしたらいきなり襲われたの。玄関の前で知らない男の人が待ってた」

 それはきっと、ロン毛にコートのいけ好かない男なんだろう。

「私を殺そうとしたの。怖いから逃げたんだ。そうしたらね、次は夜道でタケル君に会ったんだよ。タケル君って剣道なんかしてたっけ? ニホントウって初めて見たよ」

 夜空を見ながら、踊るように、世間話のように語る有紗。空を恋しがる小鳥のようだと思った。

「…………なんで、笑ってるんだ、お前。」

「え?」

 振り返った有紗は、やはり微笑んでいる。こんな異常事態なのに普通だ。それが逆に異常なのだ。

「ねぇ光一、怖いね。みんな急に私を目の敵にするんだよ。いきなり殺そうとするなんて罪だよ。何があったんだろうね? 私、なんにも悪いことなんてしてないのにね」

 誰かが言っていた。羽根つきは罪を憎むものだと。いつもの調子で、けれど有紗はほんの少しだけ淋しさを滲ませて言ってきた。

「光一は…………私の味方、かな?」

 頭が空白になる。槍が飛んでくるようだった。

「、」

 何かを言おうとして、呑み込んでしまった。答えるべき言葉が何も見付からなかったのだ。

「何か言って? ねぇ光一、2人きりだね――」

 幸福そうな顔をして、有紗は両手を差し伸べてきた。その背後に広大な草原でも広がっていそうなのに、現実には亜空間と化した学園。滴り落ちる闇色に塗りたくられ、あちこち繋ぎ変えられている。俺の霊視はいよいよ、そこに“チグハグの鎖”というイメージを視出しつつ合った。

「…………天使って、信じるか」

 苦し紛れに、俺はそんな言葉を言った。有紗の陽気が止まった気がして、顔を見れない。

「そんなものはいないよ」

 虚ろな声で、否定した。まるでいないということを知っているかのように。いないということにしたいかのように。

「羽の生えた醜いいきものなら、どこかにいるかもね。そんなこと聞いてどうするの?」

「ああ……俺、そいつらを殺すのが仕事だからさ」

「そうなんだ。やっぱりそういうアルバイトをしていたんだね。おかしいと思った」

 平然と、奇妙な会話が続行される。このブレーキの壊れたトロッコがどこに激突して止まるのかを俺は知らない。

「だって、光一って変なんだもの。学生なのにまったく学校に行こうとしない。夜はいっつも出かけてるみたいだし、たまに――なんだか、濃い血の匂いがしていたし」

 それは不覚だった。生憎と、喫煙者なので鼻は良くないのだ。クラス委員長は、机に座ってフランス人形みたく窓に背を預けた。

「光一は普通じゃない。うん、知ってたよ。4月にこのクラスに転入してきた時、真っ先に私に気づいて殺そうとしたのは光一だったよね」

 嬉しそうに楽しそうに、天井の向こうの空を見ながら少女は、少女の形をした何かは語る。踏んではいけないボーダーラインの感触に、冷たいものを感じていた。腕の血管が内から破裂するように収縮する。

「忘れてるだろうけど、いきなり首を絞められたんだよ。入学初日に、屋上で。本当にびっくりしたんだから」

 あはは、と照れ臭そうに笑っている。そんなふうだとこっちまで恥ずかしくなってしまう。絡みつく透明な粘液が、俺の脳を操作しようとしている。

「死ぬのは嫌だったから、だから忘れてもらうことにした。色々、本当に色々……」

「そう、か……」

 震える手が、動いた。俺は何をしようとしているのだろう。脳を操作されている。それとは別に、抵抗するように俺の手は動いている。掴んだままだった銃を持つ手が、勝手に持ち上がっていこうとする。がたがたと震えは止まらない。

「……ごめんね」

 その手も、ぴたりと歯車が引っ掛かってしまったように止まった。

 今、なんて言った?

「…………ごめんね……」

 それでもまだ、笑みは消えない。笑みは消さないままに、しかしその目は地面を見つめて動かなくなっていた。

「………俺、は」

 俺は天使狩りだ。いつか蝶野に向かって叫んだ言葉が、いまはまるで出て来ない。なんてザマなのだろう。悪魔のように口の端が吊り上がる。

「姉なんて――いない、らしいじゃねぇか」

「え?」

 頭を抱えて震えていた娘がよぎる。恐怖に壊れそうになっていた。俺は自分の意志も決められないままに、足を震わせながら一歩闇へと足を踏み込む。

「……妹が言ってたぜ。私にお姉ちゃんなんていない、ずっと一人っ子だったはずなのにお姉ちゃんはお姉ちゃんなんだ、って」

 有紗が「ああ――」と頷いて、明るい話題のように明るい顔をする。

「それは仕方ないよ。住む家が必要だったんだもの」

 当然でしょう? と同意を求められて、俺はその通りだと首肯した。ところで坂本の親はどうしたのだろう。ここの所ずっと姿を見なかった。

「両親には、余所へ行ってもらったよ。もう帰って来ないかな。でも仕方ないよね。おかしいんだよあの両親、どうしてか他の人みたいにあっさり忘れてくれないの。そんなに家族が大事なのかな? でも確かに、妹は可愛いよ」

 そうだな、と俺は同意した。首の後から俺の脳に入り込んでくる感触がおぞましくて甘美だった。振り払おうとする手がうごかない。

 おさななじみがなにかいってる。ずっと昔からおさななじみだった。光一はおとなしく話をきいてくれるとおもう。だから俺はおとなしくアリサの話をきいていた。そうすることがおたがいのためになるからだ(?)

「優しい子なんだよ。私のこと、なんとなく他人だって分かってるのに頑張って姉妹でいようとしてくれたんだ。私の存在よりも自分の認識を疑ってたよ。何度も何度も葛藤していたよ。怖いのにがんばって私と会話しようとするの。家族だからって一生懸命なの。その、自分の常識を自分で否定するときの、足元からバラバラに崩れ去っていくのを自ら飲み込む瞬間の顔がすごく可愛かった」

 あたまがぐるぐるする。しかいがゆれている。痺れが酷い。こどものようにおさない目をして、アリサが俺に微笑んでいた。銃を持つ手が動かなくて、力が入りすぎてガチガチ。

「――――血の気の引いた青い顔をして、『お姉ちゃん』ってニッコリ笑うんだよ」

 ああそうか。それはもう、何も見えないくらい真っ暗闇だったんだ。気が狂ってしまいそうな真っ暗闇の中で、妹は――否、坂本沙織は戦っていたのだ。

 心のどこか隅のほうが冷えていく。一方で、やはり俺の眼の前にいるのは変わらない有紗なんだ、という感情もあった。

 有紗は分からないのだ。何も。何も。分からないんだから仕方ないじゃないか。

「ねぇ、光一は犬に囲まれて暮らす毎日を想像したことがある?」

 顔が凍るほどの恐怖。どうしても耳に入れたくないどこかで聞いたような言葉を、どうしてよりにもよって有紗がいま口にするのか。

「自分以外は全くの別な生き物なの。自分だけが違う。だけど可愛い犬のふりをして生きていかなくちゃいけない。そんな違和感まみれの日常を想像したことがある? そこには安堵なんて永遠にないんだよ」

 家族などいない。心が通じ合うことなどありえない。繋がりというのは相互理解のことだ。大きな隠し事を持つ者は、心の奥底で相互理解できず孤立することとなる。

 有紗が近づいてくる。真空のような世界で、いつも安堵を与えてくれたはずの少女が、その安堵の分だけ俺の根底から覆していく。バラバラと足元が崩れ落ちていくようだった。すべてを失って自由落下してしまう瞬間に、有紗の手が俺の手首を捕まえていた。

「でも、光一は違うから。」

 蝋人形に触れられているような違和感。理解が追いつかない。何が、どう違うというのだろう?

「…………な、に?」

「光一だけは味方。光一だけは身内。光一だけは、光一だけは他の人とは違うんだよ」

 眩しそうに目を細めて、有紗が何か言っている。何か有紗にとってとても重要なことのようだった。

「ずっと光一だけを見ていたよ。だらしがなくて、適当で不真面目で、だけど私の言葉はちゃんと聞いてくれて、光一は私がいなくちゃダメなんだっていつも思ってた」

 しおらしく、しかし熱っぽい夢見るような目線がどこかを見ていた。よりにもよって今日のこの日に、なんでそんな話をするのだろう。ぐらぐら揺れる暗黒色の亜空間で、沼の底のような場所で有紗は少女漫画のクライマックスのように晴れやかな顔をしていた。

「光一といると楽しい。すごく落ち着く。ねぇ光一、好きだよ。」

 よく聞こえなかった。

「好き。ずっと一緒にいたい。光一さえいれば何もいらない」

 そう言って俺の手を取り、祈るように瞑目するのだ。満ち足りた表情。教会の祭壇の前にいるようだ。本当に、渇いている。

「“恋人”になろうよ、光一。恋愛ドラマみたいな素敵な関係になろう?」

 それは、何なのだろう。よく理解できない。頭がいたいのだ。ずきずき熱を発して悲鳴を上げてる。そんな風に俺の心をかき乱したって、そもそも持ってない感覚など湧いてこないのだが。

 ただ、ひとつだけ問わねばならない。どうやったって見過ごすことは出来ない。この奇妙な迷いの夜も、今までの日々のすべても。ただのひとつの問いに集約される。

「なぁ、有、紗……」

「なに? 光一。」

 言えない。しかし言わなければならない。目の前で頬を染めている少女に、その悪夢を呼び寄せたような愛らしい仕草に、俺は言葉の剣を突きつけ無くてはならない。

「お前は…………“人間”、なの……か?」

 希望的観測だった。目を見開いて硬直する有紗の顔に、すべてを撤回したくなって来る。

「ぁ……」

 有紗が、声も出せずに震えた。ガラガラと音を立てて崩れていく。言うべきではなかった。壊れていく。有紗はきっと人間だ。そんな俺の希望的観測が、薄い氷を踏み抜いてしまったのだ。

 顔を覆う有紗。笑顔の有紗が崩れ落ちていく。俺の日常が、いつもそこにあった安心が。いっそ有耶無耶にしておくべきだった。何も問わずじっとしているべきだった。顔を覆ったままの有紗の体の震えが、まったく止まらないのだ。

 有紗の指に、自身の肩の骨を折ろうとするように強く力が込められていた。

「私はね、光一…………」

 うまく呼吸が出来ない。目の前の有紗が別物に変質していくような気がする。嘘だ。冗談だろう。俺の脳から、目に見えない鎖が抜け落ちていく。偽装が壊れ、俺の目がついに、有紗を中心として渦を巻く台風のような世界の真実の姿を捉える。すべてが吸い込まれている。福音の鐘が聞こえる。酸欠で視界が赤く染まる。俺の脳から落ちた鎖の幻影の破片が、床にぶつかって可憐な音を立て、粉々に砕け散る。

 有紗の濡れた唇が、酸素を求めるように声を発した。

「翼を引き千切ったの」

 不意に雨がやんで静かになるように、有紗の震えは止まっていた。

「………………え?」

 何事もなかったかのように姿勢を正す有紗。数瞬前の雨模様が嘘のように、晴れ晴れとした顔をしている。

「人間じゃないよ。だけどもう、翼もないから天使でもない」

 からっぽの笑顔でそんなことを言った。が、その言葉は決定打だ。俺は打ち震え、狂笑し、そして崩壊した。

「――――ヒ、」

 突発的に絶叫しそうになった。認めた。有紗が認メタ。天地がひっくり返ってしまった気がした。頭の中が真っ黒なのだ。ブラックホールのようにすべての感情が飲まれていく。感情がないなら、冷静になるしかない。

 くすくすと、本当に愛らしく有紗が笑っている。いつも通り、感情表現さえ控えめだ。

「自力で引き千切ったんだよ。血が止まらなくて死にそうになった。誰もいない廃墟で、空を見ながら、一週間は頭がおかしくなるくらい痛み続けた。寝ても覚めても、心が消し飛んでしまうくらいに煩悶し続けたんだよ。そんな苦痛、想像したことある?」

 楽しい冗談のように、何か言ってる。羽を千切った? そんなの何の意味もない。人間になれるわけがない。なら目の前にいるのは何なのだろう。10年前の記憶は何だったのだろう。腹の底の炎を押し殺す。まだ律儀に対話を続行し続ける。

「“人間になりたかった”のか?」

「ううん。“天使でいるのが嫌だった”んだよ。」

 最後の希望さえ、砕け散る。にこやかに満面の笑みを浮かべる有紗が、恋話でもするような穏やかさで槌の言葉を叩きつける。俺ではなく、恐らくはこの世界そのものに。

「過剰に罪を憎み、薄っぺらな偽善で悪よりむごい罰を与える。天使は醜いよ。エゴと暴力の塊。あの正義ごっこが大嫌いだった」

 有紗が何かを否定している。ただそれだけで別人のようだ。仕草や表情はいつもと何一つ違わないのに、その言葉には確かに空虚な憎悪が篭められていた。

「だから、同じ生き物でいることに耐えられなくなったの。おかしいよね、羽なんか千切ったって何にも変わらないのに。光一はそんな気持ち、理解できる?」

 それは、腕を引き千切って人間を辞めたいと言うのに似ている。どこにも利益のない、意味のないヒステリーと自傷だ。

「……分からねぇよ。全然」

「そう。悲しいね。光一となら何だって理解し合えるような気がしてたけど、そうじゃないんだね……」

 失恋したような顔をしている。何を言っているんだろう。すべてを理解し合えるなど有り得ないことなのに。

 ましてやそれが、人外ともなれば尚更だ。

「お前は……人間じゃない、のか」

「そうだね。認めるよ、私は生まれつき人間じゃない。でも、それがどうかしたの? 小さな問題でしょう?」

 ピンと腕を伸ばして、自身の体を確かめるように月に透かしている。紫の月光で見えるのは斑色の血液だけだろう。

「ちょっと、体の構成が違うだけだよ。成り立ちが違うの。たまたま、ちょっとだけ運が悪くて細部の作りが違ったりする。それだけだよ」

 自分を励ますように、明るい顔をして。人間とバケモノに大差など無いとソレは言った。

「何言って……」

「例えばそう――光一は、指が6本ある人をただそれだけで化物だと言い掛かりをつけて、暴力を振るったりする? 淘汰すべき悪しき生物だと思う?」

「……………………」

「違うよね。だって、それはたまたまちょっと何かの事情で形が違っただけなんだから。そんなの何の罪もないことだよ。むしろ、責めるほうがおかしい。」

 だから、何も問題ないとでも言うのだろうか。頭が痛くなってくる。悪夢でも見ているようだ。何もかもおかしいはずなのに、どこを間違いだと指摘すればいいのかわからない。無邪気な顔をした少女の姿に、俺の足は一歩後退する。よろめいただけだ。

「……一部が違っちまったことと、根底から違うこととは別、だろ」

「サルとヒトとの遺伝子は数%しか違わない。天使だって、同じ事だよ」

 俺は後退する。有紗は近づいてくる。逃げる俺に非難がましい顔をする有紗。まるで巨大な眼球のよう。分かっていない。例え遺伝子の数%だろうと、たったそれだけの違いで俺たちはサルを愛せないのだ。それが人間という生き物なのだ。そして、すべての生物にとって例外なくその数%は完全な隔絶なのだ。

 悲しそうな顔をする、クラス委員という訳を演じてきた何か。有紗の言葉は墓穴を掘っている。天使と人間の関係性は人間とサルの関係性と同じだと言ってしまっている。

 分からない、分からない。有紗は本当は何を考えているんだ? もし、ヒトとサルくらい違うと心の底で理解しているとすれば、一体、有紗は人間と天使、一体どっちをサルだと思っているのだろう。

「どうして逃げるの? 光一。私だよ、幼馴染みの有紗だよ?」

 あの日の赤い傘の女がそう言って、まるで子供を抱きとめるように両腕を差し出してくる。「おいで」「おいで」と呼んでいる。そう例えば、遠足で見かけた間抜け顔のサルにそうするように。

 いつもいつも、有紗は“エサ”をくれた。毎日食べるものを与えてくれたのだ。

 やはり、足は後退してしまう。銃を握る右手が持ち上がろうとする。自分でも何をしようとしているのか分からなかった。ただ、俺は俺の存在を丸ごと飲み込んでしまおうとする有紗に、その怪物のような思考に恐怖していた。鯨の口に吸い込まれていくようだった。

 ガチガチと右手が震え、少しずつ銃口が持ち上がっていく。有紗は待っていてくれた。自身に銃口を向けられ、殺意を前にしてしかしクスリと微笑む。やはり、こんな時でも俺のことを赦して、

「撃てるわけないよ」

 ――――は?

「ふふっ。もう、だめだよ光一? そんな風に強がっちゃ。撃てるわけないよ。だって幼馴染みなんだよ? もう殆ど家族みたいなものじゃない。仮に、もしそんな相手を撃ってしまったら―――」

 どこかでカラスが哭いている。墓地のような大気が俺を死体に変えていく。いよいよ、有紗がその透き通りすぎて底の見えない虚無の眼球を覗かせた。どこかでカラスが哭いてい、る。

「光一はこれから一生、罪を背負うよ。耐え難い罪の意識に苛まれることになる」

 顎に指を当て、怪盗のように皮肉な悪戯めいた微笑みを見せた。初めて見た、そんな顔。俺の銃口は、人格形成を根底から揺るがされたことによってガチガチと白痴のように痙攣していた。記憶があてにならない。どこまでが俺か分からない。後頭部から透明の疼痛が、甘い痺れが脳に干渉してきてたくさんの素敵な思い出を注入してくる。どうにも、俺は有紗と二人で東京旅行に行ったらしい。未来の話。ただの数カ月後の予定なのに、夜景の見えるレストランで食事をした記憶が、その瞬間の高揚が、温かい感情だけが勝手に呼び寄せられて、幸福そうに泣いていた有紗の捏造記憶に変わる。いじらしく頬を染めて俺を見ている。なんて幸せなんだろう。胸の底で粘着質な炎が燃える。湧き上がろうとする憎悪が、記憶干渉で溶かされていく。心が焼ける。あの十年前の日に、数多の死体たちに見守られながら俺は有紗にプレゼントを渡したらしい。やめろ、勝手に改竄するな。あの地獄をアリサと手を繋いで駆け抜けた、幸せでした。タケルも伊織も春子さんも千切れて死んだ。俺には有紗しかいない。俺は頭を抱え叫びを上げてその場に崩れ落ちる。影のような有紗が見てる。

「従いなさい。ねぇ光一、昨日までの日常を続けようよ。全部忘れて、二人で楽しく過ごそう?」

 記憶が吸い上げられていく。悪寒がした。ふざけるな、冗談じゃない。有紗の掲げた掌に、まるで脳ごと吸い込まれるように記憶が溶けていく。パソコンのOSをインストールし直すように、浅葱光一の人格設計にまで干渉してくる。

 混沌の渦の中心で有紗が笑っている。俺は亡者のようにガタガタと震える銃口を向け、ただ一点、最後の最後の良心を期待する。

「なぁ、有、紗…………」

「なぁに? 光一。」

 もう間もなく俺は飲まれるだろう。有紗に良心があるならそれもいい。例え有紗が人間外だったとしても、ただの一点、この一線を守ってくれるのなら有紗は俺の知ってる有紗だと思うのだ。

 もういいんだ、やめよう有紗。こんなのは間違っている。俺はただ、ほんの一瞬でもいいから今まで聞くことの出来なかった有紗の本当の言葉が聞きたいんだ。

 視界を天使の白羽が舞っている。有紗の背中に、ありもしない白の両翼を幻視する。何もかもがぶっ壊れた世界で、足元から崩れていくような精神崩壊の中で、俺は有紗に銃を向け、ただひたすらに悲しい想いを突きつけた。

「伊織を突き飛ばした、って、マジ、か?」

 神にも縋る思いで、光を纏う天使に縋ったのだ。今だけは月光が神聖だ。対する回答は慈母のような微笑みと、

「――――うん、ごめんね。この子はどうして私から光一を引き離そうとするんだろう、って考えてたら……」

 肯定。有紗はまたしても肯定してしまった。嘘でも否定するべきだった。

「ていうか、どうしてそんなこと知ってるの? 不思議。一体、誰に聞いたんだろ」

 それはな、有紗。バケモノに聞いたんだ。お前と同じように、この人間の世界に何かの間違いで迷い込んでしまった異物に聞いたんだ。

 生きていてはいけない、紛れ込んでいてはならない怪物に聞いたんだ。

「光一に隠しごとなんてしたくないから、正直に謝るね。ごめん」

 諦観した。いよいよ、全身から大量出血するように力が抜けていく。これがあの日常の果てだと言うのなら、この空虚極まりない感情があの日々の結論だって言うのなら、あんまりにも報われない。

「そうかよ……」

 有紗はひとつ大きな勘違いをしている。例え有紗が俺のすべてを許容し羽殺しの罪まで包容するとしても、俺が有紗のすべてを許容し人間殺しの罪まで包容するとは限らないのだ。

 俺は浅葱光一だ。伊織は数少ないトモダチだった。有紗が例え何者であろうと、伊織を殺そうとした時点で俺の結論は決定してしまっていた。

「この、ばかやろう……!」

 俺の手は、迷わなかった。それこそが絶望だ。最後の一瞬で逡巡するには、俺という人間はあまりにも殺しすぎていた。ブレーキなどとうに吹き飛んでしまっている。躊躇いなく、容赦なく理不尽なまでにあっさりと、部屋の明かりを消すような気軽さで俺は引き金を既に引いてしまっていた。

「……え…………………?」

 笑顔のままで、有紗が目を見開く。布を引き裂くような音を伴って有紗の腹部に赤色が跳ねる。瞬発的な平方cm毎数トンもの威力は有紗を後退させ、精神干渉の調和を乱し、有紗の顔に恐怖と笑顔を貼り付かせていた。

「何、して……光一…………ッ!!?」

 縋るように手を伸ばしてくる有紗に、俺は更に引き金を引いた。その愛を請おうとする動作がゾンビのようでおぞましかったからだ。引き金を引くたび、抉れるような苦痛が、地獄のような煩悶が俺の心臓を引き裂こうとする。俺は絶叫を、恐らくは悲鳴を慟哭を上げた。子供のように泣き声を上げながら、モノに当たり散らすようにただ引き金を引きまくった。赤色の血華が咲き乱れる。殺戮だ。拷問だ。銃弾の雨を浴びて有紗の腕が折れ、肘が千切れ、脚がくの字に曲がって奇怪な人形のようになってもまだ止まれない。残酷な正義の鉄槌を壁に張り付いた有紗に叩きつけ続ける。ああなんて醜悪な正義なのだろう。俺は壊れた芝刈り機のように有紗を巻き込んでズタズタに引き裂き、そして自らを切り刻み続けるように痛み続けたのだ。

 爆音の連打はロック音楽のようで、浮遊感に惹かれて理性が痺れていく。麻薬だ。暴力は、すべてを忘れさせる。DV夫のように俺は有紗を壊し続けた。

 どこまで行こう。どこまでも行こう。この銃歌が鳴り止むその瞬間までは、夢見心地で何もかも忘れていられる。現実は見たくない。自らが引き起こす悲劇の結末は見たくない。きっと後悔する、なのに止まれない。だから何度も引き金を引く。心が真二つに割られ、その洪水のように溢れ出た激情の奔流を、留めるすべを俺は知らなかった。

「こう、い……ち…………」

 気が付けば銃弾は尽きていた。ガチガチと空になった銃の引き金を引き続けていたのだ。残ったものは、見慣れた教室の片隅で目も当てられないほど無残なカタチにされた有紗だけだった。

 なんだろうアレ。これじゃカカシだ。俺がやった。俺が壊した。もう全部終わった。銃が落ち、あまりに重く虚しい音を立てる。這いつくばり、地面に顔を押し付けて俺は、無残な姿に成った有紗に頭を抱える。違う。違うんだ。こんなことがしたかったんじゃない。

 原型も留めないほどぐちゃぐちゃになった有紗が、唯一純真なままの眼で俺を見ていた。

「…………あい、し、て……る」

 流れ落ちる涙と、閉ざされる瞼。早く楽にしてやりたくて俺はその閉ざされた眼も脳も吹き飛ばし、壁にまたひとつ血のペイントを上塗りした。

 膝をつき、何かを考えようとする。だが懺悔する相手も神もいない。獣のように啼いた。俺はただ、有紗を守りたかっただけなのだ。頭を抱えて煩悶した。ヒーローのように強くなって、二度と誰にも有紗たちを傷つけさせまいと心の何処かで夢見ていた。いま目の前にあるものが現実だ。俺は誰を撃った? 何故撃った? 確たる理由付けも安心も結論もない。

 腹の底から湧き上がる、犬のような声が止まらない。

 誰か、俺に結論をくれ。物語のように意味ある終焉の裏付けを与えてくれ。これもまた仕方のない終わりだったのだと納得できるだけの崇高さを与えてくれ。

 この死はとても意味あるものだと、とても深い理由が篭められた殺戮だったと救いを与えてくれ。俺の目には、血だまりに沈む幼馴染みだけがある。

 殺した。俺には、伊織を殺そうとした有紗を受け入れることが出来なかったのだ。

 この殺戮に意味は無い。ただ、殺してしまっただけだ。そして俺は明日からを生きていく。すべてを投げ出してしまいたいのに、なぜか俺自身はまたこの夜に生き残ってしまっている。

「………………光一……っ!」

 タケルが呼んでいる。ずっと有紗の席にもたれてぼうっとしていた。何も考えられないのだ。頭がぼうっとしていて、有紗に人格を弄られかけた辺りから脳がパンクしてしまったのか、思考が千々に千切れてまとまらない。でんきいすなのだ。再起不能という言葉が4つよぎった。自分が今幼稚園にいる。大きな魚が泳いでいる。上下逆。雨。水面の向こうからタケルが呼んでいる。頬を濡らす雨。腹を見せて死んだ猫。それは春子さんで、(有紗の純真な眼球)伊織だった。


 ああ、俺も愛してるよ有紗。

 なのに俺はお前が許せない。


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