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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
117/124

白羽


 フェイクだらけの迷路のような夜道をなんとか脱出した。途中で何度か道を間違えさせられたが、穴が空くほど睨みつけ霊視を繰り返して、ようやく見慣れた風景へと戻ってくる事ができた。

「クソ……」

 ポケットに両手を突っ込んだまま、ヤクザのように殺気立ちながら歩く。何なんだ一体。認識をねじ曲げて迷路化する呪いなんて、一体どうなってやがる。

「ふん、どこぞの悪霊でも暴れてやがるのかな……」

「ほう? これはまた随分な現実逃避があったものだ。目の前の現実を視ろ浅葱、何が起こっているかなんて明白だ」

 ようやくたどり着いた、見慣れた有紗の家の前に異物がいた。玄関脇で張り込みでもするように凭れている。そいつは、優雅に缶紅茶なぞ嗜んでいやがった。――即座に殺したくなる。

「いいご身分だな、蝶野。どうやってここまで辿り着きやがった」

 腰の銃に手を掛ける。坂本家は寝静まっているように静かだった。状況はどうなっているのだろう。蝶野はいたって平然としている。既に踏み込んだ後なのか、これから踏み込むところなのか。どのみちここに狩人総括がいる時点で王手だ。胸の内でキリキリと火花が散る。間合いは残り10m。

「なに、これでもそれなりに年季の入った狩人でね。多少の霊視はできるわけだ」

「……………………」

 もはや掛ける言葉などない。俺の両手は銃のグリップに触れている。事態は最悪だ。有紗の無事すら分からない。こうなれば速攻で蝶野を撃ち倒し、突破して中に入るしか無い。

 つまらない良識が俺の手を、足をその場に縫いつけようとする。知るか。すべてを引き千切って代価にしてでも俺は今度こそ有紗を守り抜く。

「おい蝶野」

「何?」

 街が燃えている。火にくるまれ、煙を上げ、あちこちに死体が転がっている。あの日の死臭をいつだって思い出すことが出来る。そんな絶望の中にあってなお、保身ではなく善意を選んだ有紗を俺は信じている。

「靴紐がほどけてるぜ」

「む――」

 全速力で駆け出した。間抜けにも屈んで頭頂を見せる蝶野に向け、俺は引き金を、

「そう急くな。お前と争う気はない」

「何――?」

 隙を見せた蝶野はしかし、しっかりとこちらを見据えているのだった。ひとつ疲労したようにため息して、本当に靴紐を結び直している。

「この家に入りたいのだろう。勝手にすればいい。誰が止めると言った」

 何だと? この期に及んで何煮え切らねぇこと言ってやがるこの伊達男。

「……お前、」

「別に邪魔などしないさ。そもそも何故、俺が同業と争わねばならん。よりにもよって総括直々に、血気盛んな若造と直接潰し合えとでも言うのか? よしてくれ。お前、何のために俺が総括になったと思っている」

 いよいよ俺の足も止ってしまう。蝶野はまるで、駄々をこねる子供か不満を垂れ流す娘のようだったのだ。ようやく靴紐を結び終え、面倒くさそうに立ち上がる。俺は冷徹な銃口を向ける。

「……総括になった理由? 知るかよ」

「社長室でふんぞり返って、偉そうに命令だけして戦いを避けるために決まっているだろう。俺は暴力沙汰はきらいなんだ」

 狩人は、ひらひらと木の葉のように両手を上げて降参していた。本当に抵抗しない気か? 俺は警戒を緩めないまま玄関の方に一歩一歩回りこみ、蝶野は道を開けるように一歩一歩横へ移動する。

「銃を降ろせ、浅葱。俺は心臓が弱いんだ」

「そうかい。発作起こして死んどけ」

 後手で玄関を開ける。鍵が掛かっていない? 不穏なサインに舌打ちする。最後の最後まで蝶野を警戒しながら俺は、ついに坂本家の玄関へと滑りこむのだった。

 真っ暗な墓場のような玄関。いまは戦場のように膠着している。――蝶野の思惑は知らないが。とにかく玄関を閉ざしてまず鍵を掛けておく。これで、背後討ちを受けることはないはずだが。

「……………………………………」

 静まり返った家の中。人気がない。朧気な月明かりだけが輝く薄闇の奥底は、深夜の病院を彷彿とさせる。動くものが何もない。なのに薄っすらと幽霊でも出てきそうな気がしてくるこの不穏さは何なのだろう。

 湿気ってる場合じゃない。俺はすぅとひとつ息を吸い込み、家全体に響かせるように声を上げた。

「いるか、有紗――!」

 自分の声がかなり大きく感じた。それほどまでに静かだったのだ。他人の家で何をやっているのだろう俺は。だが、何故、この家はこんなにも無音で真っ暗なのだろう。

「…………」

 おかしい。何の反応もないなど有り得ない。やはり蝶野の野郎が何かしたのか? もうこうなったら形振り構っていられない。意を決して家の中に上がる。もしも俺の勘違いだったなら勝手に家に踏み込んだことを土下座すればいいだけだ。腰の後ろの銃に手を掛け、足音を殺して真っ直ぐ奥・キッチンの方へと一歩ずつ進んでいく。

 途中、ドアが開けっ放しだった応接間に目を向ける。誰もいない。暗くてよく見えないが人の気配はまったくない。廃墟探索のようにキッチンへたどり着いたが、やはり誰もいない。ただ暗い空間があるだけだ。

「くそ……どうなってやがる」

 その時、ぎし、と音が鳴って俺は背後を振り返る。だが誰もいない。違う、いまのは1階から聞こえた音じゃない。

「…………上……?」

 天井を睨み据える。がさ、と動物が身動きするような音が確かに聞こえた。がさがさと蠢いている。

「……有紗、か?」

 嫌な想像ばかりが浮かぶ。動いていたのは何だ。動かなくなったのは誰だ。いるのなら何故答えない。どうして玄関で人が叫んでいるのに何の反応も示さない。

「…………」

 この目で確認するしかない。足音を殺して玄関の方へ移動し、上方を確認。階段の上には誰もいない。落とし穴のような真っ暗闇があるだけだ。恐らく2階はどうにかなっている。どう転んでも俺は何かを見ることとなるだろう。迷うことなど有り得ない。磁石で引き寄せられるように俺は強い一歩を踏み出し、

「…………あ……?」

 急速な目眩に見舞われ視界が回った。転びそうになる。暗闇の中で足場を見失う。なんとか手すりに触れたままの右手で体を支え、周囲を警戒し、ただの目眩かと納得しかけて気が付いた。

 頭のなかの空白。呆然と、ただ漠然と自分の手のひらを見下ろす。有り得ねぇ。

「俺…………何しに来たんだ?」

 ふと気がつけば有紗の家にいた。まるで夢から覚めたかのような覚醒感。階段を見上げてぼぅっとしていたらしい。ここまでの経緯は思い出せるし、大体どういう流れでここまで移動して来たのかは分かるが、肝心の目的が思い出せない。

 有り得ない。脳の一部が欠け落ちたような空白。自分の頭の不出来さに癇癪を起こしそうになる。駄目だ、忘れている。俺はとても大事な何かを忘れさせられているのに、なのに思い出そうと必死で足掻く。こめかみを押さえ、よろめきながら、あまりの枯渇に絶叫しそうになる。

「がァ――!」

 地獄のような責め苦が、美しい光景を見た時の言葉にならない感情に変わる。

「!」

 ――――階段を、白い羽が舞っていた。

「くっっっそがぁぁああああああああァッッ!!!」

 三度、俺は引き金を引いた。床を穿った衝撃が、大気を割り裂く咆哮が、勇ましい銃歌が俺の脳を揺さぶる。その場に崩れ落ちながら頭を抱え、忘却の闇の奥を睨み据え、霊視を全開にして記憶を引きずり上げる。俺の霊視は屈しない。巨大な眼球が俺を見ていた。引きちぎるように俺の意識は、奪われかけていた記憶を取り戻すのだった。回顧の衝撃に脳が吹っ飛ばされそうになる。

「有紗っ!!」

 現実を確かめるように叫んだ。滑り落ちそうになりながら階段を駆け上がる。どこだ、有紗。頼む返事をしてくれ。死ぬな。いなくなるな。俺だ、有紗。頼むから生きていてくれ。なのに残酷なくらいに、どこからも返事がない。二階のドア、そのどれもが俺を拒絶するように固く閉ざされている。確か有紗の部屋だったはずのドアに飛び込み、そこに誰もいないことに絶望した。

「………………」

 無人の部屋。窓から見える夜の花宮市と、それと同じくらいに真っ黒な部屋。白いベッドにも、テーブルにも勉強机にも、どこにも有紗の姿はない。あの子供のような無垢な瞳はここにはいない。その事実に俺は薄ら寒いものを感じていた。

 俺は、有紗に、夜には絶対に外を出歩くなと強く言っていた。なのにいない。有紗はどこかへ出てしまっている。なんでだ? 分からない、考えたくもない。戦場と化した花宮市をあの頼りない有紗が1人で彷徨っているのか? ただただどうしようもなく、この家は無人だ。

 いや。

「……………………先輩」

 声が、した。ドアの隙間からこちらを覗き込んでいた。垂れ下がった前髪、だらしのないパーカーとスウェット。まるでホラー。だが、俺はその姿に心底の安堵を浮かべた。

「妹! おい、無事か!?」

 部屋から飛び出し、妹の姿を確認する。陰気なフードを脱がせて確認するがどこも怪我などしていない。硝子のような濡れた目で見られるが知ったことか。有紗はいないが、妹が生きている。この引き篭もりは危難をやり過ごしたのだ。今日ばかりは褒めてやりたい。よく生きていてくれた。頭に手を置いてがしがしと掻き回し、俺は泣きそうになっている自分を自覚した。

「先輩」

 が、絶望は終わらない。妹の口が動く。生還を喜ぶべき場面だっていうのに、どうしてこいつはそんな切羽詰まった顔をしているんだろう。

「頭、おかしいって……思われるかも知れないけ、ど」

 妹は顔を真っ赤にして、涙を零しそうになっていた。それほどまでに憔悴している。この利口な娘が、ここまで追い詰められていた。

「あの……ずっと、相談したくっ、て……」

 悪寒がする。百足の群れが背筋を這い上がってくる。足元にも、腕にも首にも。妹はガタガタと壊れた機械のように震え、ボロボロと涙を零して俺に縋る。

「だ……大丈夫だ、落ち着けよ……」

 落ち着け? 落ち着けってなんなのだろう。ここまで苦しんでいる娘に落ち着けってなんだ。そんな言葉、気休めにすらなるものか。

 俺の服を掴み、駄々をこねるように何度も腕を振るう。壊れそうな自分に言い聞かせるように、この狂った現実を責め立てるように。いつかの階堂澄花みたいだった。

「あの人、誰……!? 有紗って、妹って何……!?」

 すべてが崩れ落ちていく。この賢い妹が不登校になり、引き篭もりなんかになってしまった理由。昔は中のよかった有紗と妹、坂本姉妹。1人で思い悩み続けた妹は、恐らくは1人で病院を受診し、重病の可能性を疑われ、あのらーめん屋台で見た銀紙と同じ量の薬を服用していたのだ。

 では、これまでの日常に決別を。

 二度と戻ることのない美しい人間関係に別れを。

 騒がしくも穏やかだった学園生活の終焉を。

 いつもの教室で、花束のように楽しそうに笑っていた有紗の記憶すら燃えていく。


「――――――――――――私に“お姉ちゃん”なんていないよ」


 真っ暗な目をして、妹が――否、俺の後輩の“坂本”がそう言った。

「ねぇ、先輩。はっきり言ってよ。私、頭おかしいのかな? おかしなことを言ってるのかな? 記憶が変なんだよ。どっかで捻れちゃってるの。おかしいんだ、お姉ちゃんはお姉ちゃんなのに、私は一人っ子なんだよ。お姉ちゃんなんていなくて、ずっと一人っ子だったはずなんだよぅ……」

 つらそうに目を細めて、たくさんの涙を溢れさせて、あまりに利口すぎた娘はその場に崩れ落ちそうになる。自身を疑い、頭を抱えて理解不能な現実に屈服しかけている。いつかの階堂澄花と、その末路の血まみれの写真が過る。

「……おかしくなんてねぇよ」

「え……」

 何でもいい。今この瞬間、こいつの心を繋ぎ止める言葉が必要だ。たとえ、俺自身が結論を出せていなかったとしてもいますぐに必要なのだ。

 ――――壊れかかった娘の顔に、心が軋むのを感じた。異常現象の被害者。忘れていた。普通に生きている人間が異常なものと関わるってのはこういうことなのだ。

「お前は正しい。何も間違ってねぇ」

 妹の頭を捕まえ、決して離さないようにそう言い聞かせた。言ってはならないことを言った。今この瞬間に目の前で壊れてしまいそうな少女の心を守るために。有紗に対する裏切りを、階堂澄花に対する切り捨てを、俺は、口にしてしまったのだ。

「け、ど……っ!」

「いいや、正しいんだよ。お前が正しかったんだ。今は何も言うな……」

 腕に力を込める。妹は――いや、坂本は俺の腕の中でさめざめと泣いた。顔は見ない。俺もまた、バラバラに砕けてしまいそうな心境でそれを聞いていた。

 ――――すべてが、終わってしまった気がした。

 もう足元には何も無い。俺を睨んでいたタケルが過ぎる。ふと顔を上げれば、ドアが開けっ放しだった妹の部屋が目に入った。カーテンを閉ざし切った、真っ暗な部屋。お世辞にも片付いているとは言いがたい。インスタント食品のゴミやペットボトル。積み重なった本に、何故か教科書と参考書。こいつはなんてバカなんだろう。部屋は心象風景だ。こんなになるまで苦しんでいたっていうのに、なんで勉強なんかしてるんだ。

 腕の中の少女はあまりに細く、痩せていた。泣き声だって弱々しかった。この娘がずっと引き篭っていたのは、自分の脳の記憶障害の可能性を思い悩んでいたからだ。記憶障害だとも思うだろう、こいつは一般市民で、記憶が狂っていて、だが記憶改竄なんてもの理解できるはずがない。そして、致命的な病ほど人間を追い詰め苦しめるものはないのだ。

 姉などいない。

 坂本は一人っ子だった。

 なら有紗は、俺の幼馴染だった坂本有紗はどこへ行ってしまったんだろう。



「…………よう」

 坂本家の玄関を出て、外で変わらず退屈そうにしていた男に声を掛けた。振り返る蝶野は無表情だった。まるで夜道を監視するような男の立ち位置に、俺は気付いてしまった。

「……お前、この家を見張ってたのか」

「そんな言い方はよしてくれ。俺はただ、いち狩人として、いたいけな異常現象被害者を脅威から守っているだけだよ」

 有紗がこの家に戻ってくる可能性があったのだ。どこにいるのか知らないが、蝶野は坂本沙織と有紗を接触させないためにここにいたんだろう。俺は、後輩を守っていた狩人に銃を向けたわけだ。

「自分がどれほど間抜けか理解できたか、浅葱」

「……さてね。まだ結論が出たわけじゃねぇ」

 気が重くなって玄関前に腰を下ろす。蝶野も勝手に隣に腰を下ろしやがった。紅茶缶を手に、男は聞いてもいないことを勝手に語る。

「ここに立っているだけでいいなんて楽な仕事だ。部下たちは迷いの街を彷徨っている」

 タバコに火をつける。ライターをポケットに突っ込み、隣で壊れた花宮市を傍観している横顔に言った。

「……楽しそうだな」

「そう見えるか? まったくそんなことはないんだが、しかし――そうだな。こんな時、なるべく硬くなってしまわないよう楽に考えるようにはしている」

 煙を吐き出すが、いつになく不味い。こんなにも腐った気分の日もそうそう無いだろう。

「観客はジャガイモだと思えってやつか。そんなんで気が楽になるかよ」

「なるさ。理屈というのはお守りでね。よりすぐった強固なものを用意すれば、少しだけ効果がある。もっとも、強度次第の消耗品なんだがね――」

 言いながらガサガサと懐を漁り、蝶野は何かの紙切れを差し出してきた。何かのコピーらしい。

「4月1日に用意されていた、お前のクラスの学級名簿だ。見てみるか?」

「………………」

 おそらくは進級したての頃の名簿なのだろう。出席番号1番、青葉かなみ。2番、浅葱光一。3番、上田吉郎。しばしあってタケルの名前があり、その少し前に片山の名前があり、最後の方に伊織の名前があった。そして――

「見ての通り、坂本有紗の名前はそこには無い。」

 何度見返しても変わらない。まるで受験に一人だけ落ちてしまったように、有紗の名前はなかったのだ。

「逆算すると、半年ちょっと前まではお前のクラスに坂本有紗という存在はいなかったことになるわけだが」

「……てめぇら狩人が、この名簿を捏造した可能性もあるだろうが」

「おっと、その発想はなかったな。斬新で素晴らしいアイデアだ」

 白々しい拍手。こっちは静かにタバコが吸いたいってのに、本当に聞いてもいないことを、蝶野はグダグダと勝手に語る。

「出席名簿はその後すぐさま改竄されたようだが、戸籍の方はそうもいかなかったらしい。公的書類だし、表沙汰になる恐れがあったんだろう。見るか?」

「……いらねぇ」

 立ち上がり、タバコを踏み消して歩き出す。休憩している場合ではない。まだこの夜は終わってはいないのだ。俺はまた、あの狂わされた街を歩かねばならない。

「何だ、どこへ行く気だ。もういいだろう浅葱、お前の出る幕は終わっている」

「うるせぇ、すっこんでろ」

 腰の後ろの銃の重さ。空から振り続ける雪のような白羽。狩人総括は鎮痛そうだった。

「……強がりはよせ。お前にはもう、意思を決定するだけの地盤すら残されてはいない。そろそろ認めろ、お前は裏切られたんだ」

 耳障りな声を、首を絞めてでも黙らせてやりたくなる。

「今、お前の胸の内に何が残っている。何もない筈だ。すべて奪われた。何を為せばいいのかも分からない。そんな有様で何ができる」

「ハ……」

 痛快だ。実にその通りだ狩人総括、本当に最高に真実で正義だ。俺は銃を抜き放ち、射殺すつもりで突きつけた。

「うるせえよ」


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