生存
ところでタケルと顔を合わせない。先に行ったはずだが。
「ち、あの野郎……どこほっつき歩いてやがる」
あいつが間抜けにも道に迷っている場面は想像がつかない。ことバケモノ狩りに関しては冷酷だ。まるで子供に優しく異教徒に無慈悲なエクソシストのように、ひとたび敵とみなし殺害対象と認識すれば喰らいついてはなさない。殺すまでは止まらんのだ。ギラついた眼光。殺し合いの最中では、俺にはアイツが鴉の悪魔に見える。
そんなヤロウと出くわさないのは、果たして幸か不幸か――つまらない事を考えながら、ひたすらに周囲を警戒して歩く。夜道は紫の月光で明るく照らされ、まるで絵本の中に迷い込んでしまったかのように誰とも出会わない。そこかしこと突き出した矢印看板も、通行止め標識も英文標識もシュールだ。
一歩進むごとに、あの真昼の日常から遠ざかっていく感触がした。大気は異質だし、心は暗く濁っていくし、だんだんと影は長くなる。そんな淀み切った夜の底の方で、唐突に背後から呼び止められるのだった。
「光ちゃん」
「…………」
足を止める。振り返らなくても分かる叔母の声。海底で見つけた小さな安堵。どうにもここが、ラスボス前の最後のセーブポイントらしい。
銃が重い。どんな顔して振り返ればいいのか分からない。恐る恐る春子さんを視界に収めてみれば、あんまりにもいつも通りで目を疑ってしまう。春子さんは腰に手を当てて、日曜正午のように笑っていたのだ。
「いらないお節介だろうけど、光ちゃんはここで引き返しなさい。間違いなく後悔することになる」
もっとも、悠然と歩みながら春子さんが発した言葉は、普段とはまったくの逆だったが。自分の耳を疑ってしまう。幻聴か? この世の中に、手放しで盲信できるものなんてあんまりない。
「……えと」
「気に障ったならごめんなさい。でもこれは命令とかではないから、自分で決めていいわよ。けど、やはり、親としては『行くな』と言いたいところね」
そんな、複雑なことを言った。左右から殴りつけて曲げた鉄パイプのように、春子さんの言葉は結論が統一されていない。それだけ悩ましい心境ってことなのだろう。――顔には出ていないが、恐らく春子さんでも結論は出せないのだ。俺の回答は決まっている。
「…………すんません」
「そう――」
春子さんの横を抜け、ゾンビのように足を進める。怒られるかも知れない。怒鳴られるかも知れない。でも、それでもここで立ち止まることだけはできない。
「はぁ……まったく。兄貴に似たのね……」
そうだろうか。俺自身は親父のことなどほとんど覚えちゃいないが。
「俺の親は春子さんですよ」
「そうね。本当に、親ってつらい立場だわ。私はいま、殴ってでも光ちゃんを止めてあげるべきなのに、叫んででもやめさせてあげるべきなのに、なのにあなたの心の有り様のために私は見過ごし、悪い親にならなければならない」
ちらりと見やれば、春子さんは熱でもあるように額に手を当てていた。本当に申し訳ない限りだ。それでも止まることだけは出来ない。
しばし悩ましそうにしていた叔母様は、ややあってようやく諦念したようだった。
「……いいわ、いい。好きにやんなさい。後のことは、私がきちんと面倒見てあげる」
「春子さんは……どう思いますか」
「え?」
――後にも先にも、今この瞬間だけ。
世界が冷たい風で満たされていた。本当にこの一瞬だけ、俺は不安とか恐怖みたいな感情を抱く。恐らくは、一生ものの不覚だろう。
「春子さんは、有紗が天使だと――人間じゃない、と、思いますか」
「………………」
振り返れども、春子さんは何も言わなかった。言いようのない表情で俺を心配そうに見ているだけ。
「私からは何も言わないわ。何も」
それが、回答。明るく笑って踵を返す春子さん。俺は谷底に突き落とされたような気がした。
「できる限りサポートするから、やりたいようにやりなさい」
春子さんの背中が、とても遠い。一歩一歩遠ざかっていく。決して見放されたわけではないのに。全力で助けてくれると言っているのに、なのにどうして俺は愕然としている? ――自分の愚かさに反吐が出る。俺は恐らく春子さんに無理な期待を投げてしまったのだ。俺は先の一瞬、すべての回答を、行動理由も結論も未来もすべて、春子さんに押し付け判断を委ねようとしたのだ。
「……ハ、」
食い縛り、拳を握る。なんて不覚。なんて無様。俺の手が握るべきは母の手などではない。重く冷たい怪物銃のグリップだ。
「いってきます」
顔を上げ、真っ直ぐに断言した。春子さんが振り返って面食らった顔をしている。何を思うのだろう。どんな風に見えるのだろう。最終的には、春子さんはまたいつものように笑ってくれた。
「ええ、いってらっしゃい。必ず生きて帰りなさい」
口の端がつり上がる。難しい注文だと思った。実に実に難題で、何にもまして億劫だ。
春子さんと別れ、いっそう暗くなってもう何も見えないような夜道を進む。ひとりきり足を引きずって、重い体に苛まれ異常現象に精神を蝕まれながら真っ暗闇をひた歩く。闇と同化しかけながら、しかしタバコの赤い灯だけがチョウチンアンコウのように揺れていた。
息が苦しい。あまりにつらくて乾ききっている。死に際の走馬灯を見るように、遠くて小さな月夜を傍観していた。全身がオイル切れのように痛くて、どこにも希望なんて見えなくて、それでも血走った目で前へ前へと進み続ける。
絶望で胸の内側から真っ黒に染まっていく。酸で溶かされ肉になり、夜闇と同化しながらしかし足だけを動かし続ける。こんな時はいつもいつも、勝手に皮肉な笑みが浮かんできてしまう。
生きることは苦しい。そんな当たり前のことを思い出したのだ。




