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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
110/124

ブラックアウト


「……お前の暴力騒ぎも大概だと思うが」

「うるせぇ」

 自販機の横に並んで缶ジュース飲み機と化す。不覚だった。よりにもよってあこで春子さんとは。

「いいのよ光ちゃん。勢いがあるのはいいことなんだから」

 闇の奥から現れるように、優雅な足取りで進み出てくる叔母様。どこまでいっても迷惑掛けっぱなしである。

「うす。すんませんっす」

「いいからいいから。それより――」

 秘密の未来を占うように、春子さんが透き通った水晶の目をする。

「――本当なの? その、いきなりカッターナイフ突きつけたって……」

「ええ。ま、予想通りってとこですね」

 無愛想なりにクラスメイトに合わせようとしていた姿。ひどい落書きがされた時、心なしか縋るようにこちらをみていた姿。ぜんぶ偽りだったのだ。そも、あれほどの生粋のバケモノが十年かそこらで別物に成れるはずなど無い。

「何か事情があったのかしらねぇ」

 穏やかな声の春子さんは、冷め切った目をして窓の外を見ていた。この一帯の路地も恐らく、十年前は地獄のいち場面だったのだろう。あまりに現実味がなさすぎて、本当にドラマか悪い夢なんじゃないかという気がしてくるが。

「事情? なるほど、火急的速やかに学校内で一般人に刃物向けないといけない事情っすか。妙な衝動でも起こっちまったんでしょうかね」

 たしかあいつ自身が言っていた。浄罪願望がどうとか。要するに意味もなく突発的に人殺しがしたくなる症候群だろう。狩った方がいい。

「要するに意味もなく突発的に人殺しがしたくなる症候群だろう。狩った方がいい……あ、いっけね。つい心の声が」

「光ちゃん、ダメよそんなことを言っては。仮にも狩人の重鎮サマのご息女でいらっしゃられるんだもの。扱うなら丁重に――そう、かの高慢ちきで口うるさかったエリザベス女王だって、処刑の時はきっちり作法に則って処刑したんだから。」

 口元に手を当て、うふふ、うふふふふふふと気品を漏らす春子さん。ついでに羽人間かばった血止めババアも処刑台に送ってやろうかってくらいのエスプリ具合いだ。そうだ将来は、俺も春子さんのような余裕のある大人になりたい。

「で、タケル。お楽しみ会はいつ始まるんだ」

「もうじきだろう。お前はお手玉の練習でもして待っていろ……」

 愛想が尽きたとばかりに、気怠そうに立ち去っていくタケル。その左手には鞘に収められた静かな日本刀があった。

「……タケルくんの刀、確か銘は“閻魔”だったかしら。地獄の総司とはまた狩人らしいわね」

「違いますよ春子さん。エンマはエンマでも別のエンマだ」

 影のように鋭利なものを纏った背中。場合によっては、タケルは朱峰を斬り捨てることになるかも知れない。



 春子さんと共に薄暗い廊下で待ち続けていたら、ようやく蝶野が姿を現した。タバコ4本を吸い終えた頃だった。

「――ふむ」

 などと、何かを深く考え込んでいるロン毛コート。いつも何考えてんのか分からんが、今日はひとしおだ。

「どうした大将。いまさら赤羽に情移りでもしたか」

 灰皿でタバコを消しておく。武装の用意はOKだ、いつでも戦争をおっぱじめられる。

 だが蝶野の反応はつまらないものだった。

「いや……少々、面倒な事態になりそうでね」

「何?」

「朱峰に話を聞いたんだが、俺も正直困惑している。こんな事があるものかな――」

 煮え切らない反応。今更、小細工を弄して庇おうとでも言うのか。俺は蝶野の真横の壁に脚を突き立てて睨み上げる。

「食えねえこと言ってんじゃねぇぞコラ。こっちはいまにも破裂しそうなんだよ、とっとと赤羽の所へ連れて行け。あの気に食わねぇ顔に迷わず銃弾ぶち込んでやる」

「そういきり立つなよ。お前もじき俺と同じ反応をするはめになる。恐らくはそこの姉もな」

「あァ?」

 難しい色を宿した黒い眼が、春子さんを見る。応える春子さんは静かだ。

「――どんな経緯だったのか知らないけれど。姉でなく叔母だ、っていつも言っているでしょう」

「失敬。では行こうか天使狩り。これから上で、少しばかり込み入った話をすることになる」

 蝶野に連れられ、地下から上がるように2階に脚を踏み入れれば、そこにいつの間にか集合していた狩人たちがいた。明るいロビーに、全員ではないが十数人ほどいる。タケルと座敷童子も、先刻の二刀流もいた。目の前に立ち、静かに語りかけてくる。

「………浅葱」

「何だ」

「感謝する」

「お、おう」

 その脇に謎色紙。春子さんが不思議そうに疑問符を浮かべていた。その周囲、春子さんがいつかのテロだと気付いた奴から順に青い顔をして離れていく。春子さんエガオ。スマイル邪気。

「……こうして見ると、狩人って結構多いっすね」

 俺はひどく冷めた心境で周囲を見ていた。騒がしい。一体何が始まるのかと困惑している。

「そうね。でも安心なさい。この中でなら、光ちゃんがきっと一番強い」

「え――」

「負けないわよ。蝶野の部下になんて。あなたはあの兄貴の息子で、この私が鍛えた狩人の中の狩人なんだから」

 前だけを見据える春子さんの横顔。前代天使狩りは本当に英雄みたいだ。この俺自身は、赤羽の蹴り一撃で反対の校舎にふっ飛ばされて大敗した負け犬なのだが。タバコを指の間に挟んだまま、俺は笑った。

「…………はは」

 思い出した。ウチの親父は高校時代、平凡な学生生活の最中に運悪く羽人間に遭遇し、そして追い詰められた末に何の間違いか“素手で”羽人間を引き裂いて殺し返したバケモンだったのだ。

 俺は犬だが、親父は獅子か狼だったらしい。それも神の遣いたる天使を殺してしまうほどの。

「――――ようやくお出ましね」

「!」

 かつ――――可憐な足音が降りてくる。かつ、まるで淀みない。舞踏会か何かのように澄んだ靴音が、狩人本拠の大気を凍結させていく。あれがガラスの靴だってんなら、魔法が解けるのはいまこの瞬間だ。

「フン――朱峰椎羅。逃げなかったんだな」

 タバコを噛み、俺は忌々しい名前を口にする。まだだ。まだ、あいつを狩人たちの目の前で“赤羽”と呼ぶには早い。そう、断罪式はこれからなのだ。

「逃げる? なぜ逃げる必要があるの?」

 しかし、人世に降り立った羽人間は相変わらず涼しい顔で、当然のように疑問を返してくる。そうやってしらを切っていられるのもいまの内だ。

「さて……じゃ、始めようか朱峰。みんなに話してやってくれ」

 コク、と頷く朱峰椎羅。一段上に立って、全員に聴かせるように語りはじめた。狩人たちは、後輩の演説に真剣に耳を傾けている。俺はそれを校長の長話のように疎ましく聞いていた。

「先日から私が独自に追っていた件。駅前での白羽目撃情報、学生服を着た天使。ずっと探し続けていたのだけど数週ほど前に転入先の学園でそれらしき人物と遭遇。もしやと疑っていたのだけれど今日、ようやく確証を得た。学生Aの交通事故、そして同じく学生だった赤羽事件の事情通・階堂澄花の殺害事件。その犯人こそは白羽。確かに間違いなくあの学園に天使が紛れ込んでいる。そう、結論から言えば――」

 訳の分からない話。みな呆けたように聞いている。この俺自身もまた、あまりに理解が及ばなくて笑ってしまいそうだった。朱峰の視線が一瞬、憐れむように俺を見た気がする。

 笑えるわけもない。その美しい唇が何気なく吐き出した名前は、

「…………犯人は『坂本有紗』と名乗る天使。人間のふりをして学園に紛れ込んでいる“天使”よ」

「――――――――――――――――――は?」

 俺の認識を破壊するには十分な威力を持っていた。狩人たちにどよめきが広がる。意味不明。何の、誰の話をしているのかは知らないが、確かにシロハネが人間のふりをして学園に紛れ込んでいるなど異常事態だろう。それが幼馴染みともなれば尚更だ。

 ――――目眩がする。ずっと昔から一緒だった幼馴染み。病的なまでに過保護な有紗。

「光一……!」

 タケルすらも、驚愕している。ならば本当に恐るべき事態なのだろう。それはもう、浅葱光一を根底から揺るがすほどに。春子さんも不安そうに俺を見ている。

「光、ちゃん…………?」

 言葉など無い。壇上の朱峰を見上げたまま、声もなく、俺の思考は末端まで漂白されていた。

 息が苦しい。震えが収まらない。頭が痛い。目眩がする。悪寒がする。必死で腕を押さえて耐える。それでも、青ざめるような震えが、突発的に家族を殺してしまった時のような絶望感が体を芯から支配していた。

 ――有紗が、天使――――?

 りんごジュース差し出してニッコリと笑っていた。愚かな俺を見下ろして、今日まで平穏な学生生活に溺れ続けきた俺を、美しいアカイロの悪魔が見下ろし言った。

「何度も聞くけれど。おまえ、本当におかしいとは感じなかったの?」

 いっそ困惑したような眼に見られている。何訳の分からないこと言ってるんだろうこいつ、違和感など無い。だってそんな記憶vjは:k@いうglっz※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

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 しばらく、意識がブラックアウトしていた。




 覚醒は億劫だ。疲れきっていた神経が急速に摩耗してしまったのか、いつからか水槽の中を見ていた。俺自身の空間。それは、透明の厚いガラスに仕切られていて、外の世界を遮断している。

 誰かの呼ぶ声がひどく遠い。いつから、世界はこんなにも彩度を失っていただろう。伊織が事故った日から。有紗が赤い傘を差していた日から。あの日、久し振りに有紗の妹と話した瞬間から。

 ――――――否、おそらくは10年前。この街が炎の地獄になったあの日から俺の世界は彩度を失っていた。

 だが、そんな殺風景な真空の中でも、一輪の彩度が咲いていたのだ。それは本当に無垢で、暗い顔なんてまったくしない、自分のわがままをまるで言わない幼馴染み――

「光ちゃん、しっかりしなさい。私の声が聞こえている?」

「え……」

 有紗の透き通った双眸が俺を見ていた。しかし、違った。よく見れば春子さんだった。

「あ……すいません、ぼうっとして」

「いいのよ。ショックを受けるのも分かる。それより――」

 どうにも、朱峰の話の途中で呆けてしまっていたらしい。変わらず朱峰は階段にいて、周囲には狩人たちがいる。どいつもこいつもざわめいていやがるが。

「――どういうこと? 蝶野。光ちゃんたちの学園に天使が紛れ込んでいるというの?」

「らしいな。俺も初耳だよ。もし事実だとしたら、これは怖ろしい話だ」

 なんて、白々しいコトを言う狩人総括。『お前たちも俺のように困惑することになる』と言っていた。

「……………突拍子がないにも程がある」

 真っ先に、

 先陣を切って切り込んだのはタケルだった。エースと朱峰との視線の対峙に、狩人たちが静まり返る。

「あまりに脈略がない。どういうことか説明してくれ。何故、彼女が――」

 そこでタケルが俺を見た。らしくもない、あからさまな気遣いなんて。

「――何故、坂本有紗が羽付きだと思う? 学園に紛れ込んでいるも何も事実学生だ」

 狩人たちも口々に自分の見解を述べる。そうだ。朱峰の話はあまりに突飛で整合性がない。騒がしい大地を睥睨するように、朱峰の人間味のない無表情が言葉を続ける。

「……突拍子がない? そう聞こえるだけでしょう。事態はかなり前から進行していた。そこの犬といい、あなたたちがまるで気付こうともしなかっただけ」

「だが、」

「なら分かりやすく説明しましょう。まず、私は転入してあの教室に踏み入った瞬間に違和感を覚えた。羽付きの気配がしたのよ。――その時は、気配を感じただけだったから確証は出来なかったのだけど」

 そういえば、伊織が言っていた気がする。朱峰が転校してきた初日のこと。朱峰と有紗が、挨拶直後から不穏に見つめ合っていたらしい。

「気配の原因はいわずもがな、教室の窓際後ろの方に当然のように座っていた坂本有紗。当然のように制服を着て座っていた。しかも翌日以降に判明したことだけれど、こともあろうに、そいつは羽狩りの隣の席に堂々と居座っていた。」

 それ以降も、何度も目撃していたじゃないか。朱峰と有紗が目を見合わせて一触即発の緊張感に包まれていた光景。睨み合っていたのか? 赤羽と白羽が、互いの存在を察知して? ……俺は犬のように唸った。

「…………違ぇ」

「何?」

 蝶野の疑問符。気に食わねぇ。何もかも気に食わねぇ。この場に存在する、ありとあらゆる全部が我慢ならない。俺は段上の朱峰に銃口を突きつけ、叫んだ。

「適当こいてんじゃねぇぞテメェ! 有紗は10年前の被害者だ! これ以上好き勝手抜かしやがるってんなら覚悟はできてんだろうなァ!」

 ガシャリという重々しい金属音に、狩人たちが硬直する。朱峰は動かない。ただ憐れむように瞑目するだけだった。

「ざけんじゃねぇ……何が白羽だふざけやがって。有紗が人間じゃない? 学園に紛れ込んだ人外? ……テメェ、よっぽど死にたいらしいな」

「光ちゃん、待ちなさい――!」

 銃を持つ手が震える。怖いんじゃない。あまりの憎悪に春子さんの制止すら振り切ってしまいそうになるのだ。朱峰という負の地雷と、有紗という正の地雷が同時に炸裂して俺の理性は決壊寸前だった。気が狂ってこの場の全員を撃ち殺してしまいそうになるのを、ただ隣の春子さんの存在だけが留めていたのだ。

 横から現れたタケルが、俺の銃に手を掛けて下ろさせようとする。

「……待て光一。俺にも言いたいことがある」

「下がってろ狩人! 邪魔すんならテメェも敵だ!」

 疲れたようにため息ついて、タケルが朱峰を睨み上げる。その両眼は、死体のように真っ黒だった。         

「――――――冗談が過ぎるな、朱峰(・・)。その顔では、まだ言いたいことがありそうじゃないか」

 ぞっとするほどに冷たい。タケルが朱峰に向ける視線は、間違いなく『後輩』ではなく『赤羽』に対する敵意だった。

「………………吉川伊織。事故に遭ったでしょう?」

「ああ、話が読めた。それで根拠は何だ」

「この目で見た。本当、いつか何かしでかすと睨んでいたけれど、あんなにもあっさり動くんだもの。狩人も羽狩りもまるで気が付かないようだし、見間違いかとさんざん自分の目を疑ったわ」

 タケルと朱峰が、当然のように話を進める。俺には理解できない。頭が悪いから、察しが悪いから2人が何を確信しているのか掴めない。

「……何だよ。何の話をしてる」

「雨の日に、あなたのお友達の吉川伊織が事故に遭ったでしょう。――アレ、坂本有紗が突き飛ばしたせいよ」

 理解が及ばない。本当に何を言っているのか分からない。伊織は確かに事故に遭った。車に轢かれて、いまもどこかの病院で昏睡している。あの日、事故現場に居合わせた有紗はなんと言った――?

 ―――ねぇ光一。

 ――――――ごめんね……伊織ちゃんのこと……。

「………………違う、だろ」

「違う? 何が違うと言うの?」

 違うのだ。何もかもおかしい。病的なまでに過保護な有紗。何度も何度も弁当をくれる有紗。まるで暗い顔を見せない有紗。ごく自然にクラスに溶け込んでいて、勉強しない浅葱光一をいつもいつも心配そうに見ていた有紗。

 思い返せば…………俺はずっと有紗と一緒だった。十年前、俺を庇って重傷を負った有紗。退院して、安堵する俺に恥ずかしそうに微笑む有紗。ああ、恋に落ちていたのかもしれない。認めよう。浅葱光一は坂本有紗をとても大事に思っていた。死んでも守らなければならないと考えていた。だから毎日、付き添う犬みたいに家まで送り届けて安心していたのだ。

 その有紗が、羽人間で、裏切り者だと? 冗談じゃない。すべておかしい。だが、頭の悪い俺では太刀打ち出来ない。――俺の隣には、凛と赤羽を見上げる相棒がいた。

「タケル――ッ!」

「ああ、分かっている。その推測には決定的な穴がある」

 すぅと開かれる真実の目。タケルの言葉が間違っているはずなどない。絶対に正答だ。

「坂本さんは俺たちの“幼馴染み”だ。小学校以前から共にいる。裏切り者の天使だと断じるには無理があるだろう」

 会心の反撃だった、はずなのに。朱峰が幽霊のように目を細めた。嫌悪のようで、無気力のようで感情が読めない。

「――――羽付きは、1体につき原則ひとつ、特殊な能力を保有する」

「……何?」

 その薄い唇が、呪文のようなコトを言った。ここに来て初めてタケルが、揺るがないはずの真実の目が揺らいで見えた。……不安感が加速する。

「彼ら自身は“魔法”と呼称するそれ――人間で言うところの“呪い”のようなもの。現実に擬似的に干渉し、幻想の結末から結果を炙り出す擬似現象。一体につき一種、羽付きはそういった異常現象を保有して行使している」

 それは例えば、バラバラ殺しの切り子の刃物生成であったり。例えば、槍に触れるすべてを弾き飛ばす拒絶であったり。訳の分からないものだが、確かに奴らが呪いに似た不可思議な力を行使することを、天使狩りである俺はこの身で体感して知っている。

 ……びきびきびきと、ひび割れていく。取り戻せないほどに摩耗していく。これまで信じていたもの、心の拠り所としていたものが、

「坂本有紗の保有能力は恐らく――――――“記憶改竄”。」

 思い出が、音を立てて大破した。バラバラのガラス片になって、意味を失いただ傷つけるだけの刃物になって俺を内からずたずたに引き裂いた。

 今日まで信じてきた全てが。

 俺を命がけで救ってくれた有紗という虚像が。

「それが私の霊視の結果。何度も重ねた。何度も何度も入念に観察した。その結果分かったのは、坂本有紗は周囲の記憶を改竄し、常日頃から人心を操作し、そうやって人間社会に割り込んでいるということ」

 冗談じゃない。なんだそれは? いきなりそんなこと言われたって信じられるものか。おかしいに決まっている。そんなものは朱峰の想像じゃないか。らしくもない、愕然と目を見開いているタケルもおかしい。

「学園の書類にも、細工された形跡が多々あった。中には坂本有紗の名前だけが欠けた名簿もあった。見なさい、羽狩り。ここにあるものが真実よ」

 そう言って、赤羽が投げつけてきたファイル。派手に散らばってしまった。うちのクラスの連絡網。一学期の模試の成績一覧。どうだっていい。ただ、舞う紙たちがまるで天使の羽みたいだと思った。

 見下ろす朱峰の後方から、儚い光が差し込んでいる。何の根拠もない。赤羽は、嘘を吐いて俺たちを騙そうとしている。そうに違いない。よりにもよって、有紗を陥れようなんて――

「…………は。は、は、は……」

 上等だ。おそらくは浅葱光一にとって、この世で最もダメージを与え得る言葉だった。プリントを踏みつけ、俺はふらふらと前に進み出る。止めようとする周囲を振り払い、ヤク中の老人のような足取りで、朱峰が立つ階段を一段ずつ登る。見下ろしてくるガラスの目は本当に冷たい。

 その襟首を掴み、耳元に呪詛を塗りつける。俺の脳裏には、朱峰が言うところの偽りの記憶、十年前に俺を庇って重症を負った有紗が映しだされていた。

 いつだって地獄の炎が俺を突き動かし続けた。この憎悪が偽物だと言われたとて、知ったことではない。誰が認めるものか。二度と、あんな悲劇を繰り返させるものか。

 祟り殺すつもりで睨みつける。

「――――今度こそ有紗を殺そうってのか、赤羽ぇ……!」

「……目を覚ましなさい。他でもない、一番近くにいたおまえがもっとも記憶を弄られているはずよ。動向を監視するためにそばにいた可能性も高い」

 朱峰を突き飛ばす。実際には、まるで動きやしなかったが。俺は階段を下り、この狩人本拠を去ることに決めた。

「いいかてめぇら! こいつの言うことなんざ真に受けんじゃねぇぞ、分かったな!」

「光ちゃん――!」

 春子さんさえ置き去りにして、俺はただ歩いた。一刻も早く有紗のもとに行く。そして赤羽の陰謀から守らなくてはならない。赤羽の甘言に騙された狩人たちが、何の力も持たない有紗に刃を向ける前に。

「俺は騙されねぇ……ッ!」

 自販機を蹴りつける。クソが。クソがクソがクソが――!

「ひとつだけ確認しておく」

 タケルが、まだ何か赤羽と話している。くだらねぇ。気に食わねぇ。タケルまであんな奴の話を真に受けるのか。

「事実か……」

「ええ」

 苦渋の表情を浮かべるタケル。その手が刀を強く握り締めている。何を思うのか。どういう結論を出すのか。

 ……蝶野の冷めた目だけが俺を静かに見送っていた。

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