市長室
「伊刈さん、すごい美人がさっき尋ねてきましたよ」
伊刈が席に戻ると化学技師の岩崎がねたましそうに言った。
「どんな」美人と聞いて伊刈には逢坂と安座間の二人の姿が交互に思い浮かんだ。
「歳はけっこういってるんですが、とにかくすごいんです。名刺を置いていきましたよ」
「それを早く言ってくれよ」
名刺を見てあてが外れたことがわかった。名刺には『望洋大学海洋学部 準教授 秋篠圭子』と書かれていた。大西敦子をナチュラルステップに推薦して伊刈との仲を裂いた張本人だ。大西にとっては恩師であり、しかもモトカレのモトカノだった。名刺にはメモが添えられていた。「ご相談があります。またご連絡いたします」
なんだろうと思い携帯番号にかけた。電話はすぐにつながった。
「わざわざお電話ありがとう。まだ市庁舎にいるわよ」
「どこですか」
「市長とお友達なのよ。ちょっと来てくださらないかしら」女性市長なのだからさもありなんと思った。
「市長室にですか」
「ええ」
「伺います」そうは言ったものの実は伊刈にとって市長室に入るのは初めてだった。環境事務所に二年間いるうちは市長室に入る用事などなかったのだ。一般職員から市長は遠い存在なのだ。県庁にいるときだって知事室に入ったことはなかった。
市長室は市庁舎三階のいちばん海側にあった。秘書課の女子職員に案内されて入室すると大きな窓から漁港とポートタワーが見えた。予想したより贅沢な市長室だと思った。三条愛子市長は小柄な体をソファに沈めて秋篠と談笑していた。
伊刈の姿を見ると秋篠がにこやかに微笑んだ。
「伊刈さんの御本、私も読んだわよ。いつも何冊かここにおいておいて、お客様にも差し上げてるの」先に伊刈に声をかけたのは三条市長だった。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちよ。大変すばらしい御本だわ。さすがは県職員ね。県庁にお返しするのが惜しいわ」
「ご用件というのは」社交辞令に取り合わずに伊刈が切り返した。
「それは秋篠さんからご説明いただくわ」
「伊刈さん、シンポジウムではお世話になりました。それに私の弟子のことでもね」秋篠はちくりと大西のことをほのめかした。「お願いというのはほかでもないの。うちの学校で講義をしてもらえないかしら」
「非常勤講師ということですか」
「そういうことなの。あまり高額の謝礼はできないんだけど、三回ほどうちの学生にお話いただきたいのよ」
「伊刈さん、どうかしらねえ」市長が口を挟んだ。
「職務ということでしたらお断りする理由がありません」
「よかった。じゃお願いしてよろしいのね」
「ええ」
「そうと決まったら日程なんだけど」秋篠はせっかちだった。