有田くんと桐木くん(アリとキリギリスへのオマージュ)
ある夏の日のことです。
桐木くんがカフェで涼んでいると、見たことのある顔が見えました。向こうも桐木くんに気がついたのか、嬉しそうに近づいてきます。
「久しぶりだね」
「大学卒業以来かな」
有田くんは、大学時代のゼミの同窓生です。真面目で勉強熱心で、大学卒業後は、大手のメーカーへ就職を決めたのでした。
「仕事かい?」と桐木くんが訊ねると、有田くんは、「お客さんとミーティングしてきたところでね。いやあ暑い暑い」と言って上着を脱ぎました。
「暑いのに大変だ」
「まあ、仕事だからね。桐木は?」
有田くんはそう言ってから、しまったという顔をしました。しかし、桐木くんは気にしません。これまでにも、全く同じ反応をいろんな人から何百回とされてきたからです。
「たしか、フリーランスをしているんだったかな」有田くんが気まずそうに聞いてきます。
「そうだよ。デザイン作ったり、文章書いたり。ネットで仕事をやっている」
「楽しそうでいいな」
そう言う有田くんの顔には、侮蔑の顔が明らかに浮かんでいます。
昼間からカフェで、悠々自由に仕事なんかして。仕事とはもっと辛いものだ。指名と責任を背負い仕事をしている自分とは大違いだ。そんな気持ちが、どこか透けて見えます。
そして、あろうことか、頼んでもいないのに余計な心配までしてきます。
「将来どうするの?」
「どうするって、普通に働いて、そのうち結婚でもするよ」桐木くんは答えます。
「生活が不安定にならないか」
「まあ、サラリーマンに比べたら安定感はないけど、その分上も大きいからね」
「でも、下もあるわけだろう」
「そりゃあね」
「怖くないのか? リスクも高いだろうに」
「まあ、好きなことして暮らせるわけだから。おれは幸せだよ」
「老後とかどうすんの?」
有田くんはアイスコーヒーを勢いよくすすりました。額からは、汗が次から次へと噴き出てきます。よく観察すると、目の下にはクマも出来ています。
少し迷ってから、桐木くんは答えました。
「年金も払っているけど、それだけじゃ不安だから自分で投資もしている」
「それ、やばくない?」
「どうして?」
「投資とか危なさそう」
「銀行に預けている方がよほど危ないと思うけど。インフレしたら、その分お金が目減りするわけだし」
「株で損する可能性だってあるだろう」
「分散投資しておけば、大丈夫。銘柄さえ間違えなければ、長期的には上がるるだろうしね。ある程度固まった資金が出来れば、そこから得られるリターンだって馬鹿にはならない。たとえば五千万円分の株を年間三パーセントで回せば、毎年百五十万円のお金が入ってくる。これを生活費の足しにしてもいいし、再投資に回せば、お金は雪だるま式に増えていく」
「なんか怪しい」
「そう? 最近だとビットコイン投資なんかも面白い。一年で数十倍になったりもするし、少額でチャレンジするなら悪くはない」
「怪しいマルチの勧誘みたい。やっぱりさ、真面目に働くのが一番な気がする。俺は会社でがっつり働いて、将来しっかり偉くなるよ」
次のアポがあるから俺はここら辺で。有田くんはそう言って、その場をいそいそ後にしてしまいました。
桐木くんはその背中を見ながら、コーヒーカップをゆっくり傾けました。
生き方は、人それぞれだ。小さく呟くと、やりかけの作業に取り掛かるため、目の前のパソコンへ視線を戻しました。
それから十年後の、ある冬の日のことです。
桐木くんがカフェで作業をしていると、店の外を見覚えのある顔が通りました。そうです。有田くんです。
有田くんも桐木くんに気がついたようです。一瞬立ち止まり逡巡してから、店の中へ入ってきました。
「久しぶり」
「桐木は変わらないな」
有田くんは笑いました。ただ、その笑い方にどこか影があるようにも見えます。年を取ったせいなのか、疲れているせいなのか、桐木くんにそれは判別できません。
すると、有田くんの方から口を開きました。
「俺もいろいろあってさ」
曰く、昨年体調を崩し、子会社の閑職へ追いやられてしまったとのことでした。
事の始まりは、会社の業績が傾いたことです。有田くんは順調に出世街道を突っ走っていましたが、不正発覚をきっかけに業績は悪化。業績が悪化すると雰囲気も悪くなるもので、人事異動でパワハラ上司に当たってしまいます。そこで精神と身体を壊し、半年間休養。復帰した時には、もはや会社に居場所はありませんでした。
「コツコツ積み上げてきたつもりだったけど、崩れる時はあっという間だったな。何も残らなかった」
有田くんは自虐的に両手を広げて見せました。
桐木くんは返答に困ってしまいましたが、「それなりに貯金はあるんだろう? ゆっくりやればいいさ」と言いました。
しかし有田くんは小さく首を振ります。「そんなもん、ほとんどないよ」
「どうして?」
「ストレス解消のために結構散財したからな。貯金なんてほとんど手元にない。あるのは、自社株買いした株位のものさ。不正で下落しきってしまったけど」
有田くんの乾いた笑いが、クリスマスを前に華やぐ店内に響き渡りました。そのコントラストが、有田くんをますます悲惨に映します。
「その様子だと、桐木は調子良さそうだな」
その通りでした。
個人でやる以上、好不況の波はそれなりにあるし、不安とは隣り合わせです。ただ、常に努力をすることで、ある程度自分の思い通り仕事を進められるようになりました。収入だって、同世代のそれを軽く超えています。
おまけに、株式やビットコインへの長期投資が実を結び、ちょっとした財産を築き上げることが出来ました。いまやその配当金だけで、ちょっとしたサラリーマンの収入くらいは得ることが出来ています。
「俺はもう会社にしがみつくしかないけどさ、お前はこれからもがんばれよ」
有田くんは力なく言いました。そして、飲み物の注文もせず、そのままカフェを去りました。
やる気と思考力さえあれば、いまからでも遅くはないのに。
桐木くんは内心思いましたが、きっと、「社畜」として愚直に働いてきた有田くんには無理な要求なのでしょう。思考停止に陥った人間に、新しい物事を考えさせること。これほど難しいことはありません。言うだけ酷な話です。
桐木くんは有田くんの背中を見送ってから、温かいココアを飲み、再び作業に取り掛かりました。店内には、楽し気なクリスマスソングが流れています。