婚約は破棄されません
「あ、そうだ」
動く気配のない釣り竿を惰性で握り続けていた昼下がりのこと。
「あたし、結婚するから」
「へ」
釣り竿ごと川に落ちた。
*
ネリーという女がいる。
肩書をつけるなら、公爵令嬢。お転婆。問題児。平民の街に平気で降りてくる変わり者。
それから、俺の友達で、幼馴染。
「やっぱあんたってスーパー馬鹿よね。めっちゃ面白かったわよ、ひゅーって座ったまんま転げてくの」
「うるせえ」
けらけら笑うネリーの横で、俺はびしょ濡れになったシャツを木に引っ掛けていた。幸い今は夏。蝉の声がうるさい森の中、風通しも日当たりも最高だ。すぐに乾くだろう。
「パンツはいいの?」
「見たけりゃ見せてやるよ」
「エドくんのちょっといいとこ見てみたい~。はいパンツ、パンツ!」
「馬鹿はお前じゃねえか」
ノリノリで手拍子を始めたネリーを手で制す。手拍子は止まない。絶対に俺は脱がねえぞ。
「で、なんだっけ。結婚?」
「うん」
「いつ?」
「先っちゃ先だし、すぐっちゃすぐかな」
「どっちだよ」
「うーん、とりあえず卒業までは婚約の形を取るってことなんだけど、まあこれが破棄されることってほとんどないし、実質結婚みたいなもんなのよね。婚約式とか挙げるし」
婚約。
あんまり平民の間じゃ聞かない言葉だ。そもそも結婚式だって挙げないまま、なあなあで家族になっちまうやつだって結構いるくらいだから。
「式は?」
「来月」
岩場に腰かけようとした足が滑って、もっかい川に落ちそうになった。ぺしん、と裸の背中にネリーの手のひらが乗る。
「ちょっとあんた、大丈夫?」
「お、おう。平気平気。それにしても随分急だな」
「こんなもんよ、貴族の結婚なんて。エドは式に来る?」
「行かねえよ」
「知ってる。野良犬と間違われて追い出されちゃうもんね」
「野良犬の方がまだいいぜ。毛皮を着てるからな」
「ストリーキングしながら来れば入れてもらえるかもよ? キングだけに」
くっだらねえ。
俺は呆れたけど、ネリーは自分で言って自分で笑ってた。こいつの笑いのツボは浅い。
「でもそっか、結婚か……」
もう一回、釣り竿を振った。浮きの動く気配はない。ネリーと来たときはほとんど釣れない。喋り倒しているから、音で魚が逃げていく。
「俺も結婚すっか。もう十六だもんな」
「誰と? 野良犬?」
「似合いだろ」
「卒業してからにしなさいよ甲斐性なし。犬とだって釣り合わないわ、よ!」
「ひえー、厳しー」
ネリーも針を投げた。俺より遠くに浮きが落ちる。こいつの持ってる釣り具は俺よりずっと上等だけど、肝心の魚が寄ってこないもんだから、釣果は俺と同等だ。つまり、ほとんどゼロ。
「お前と結婚するお気の毒な相手は誰なんだ」
「王子」
「…………」
びっくりしたけど、今度はさすがに落ちなかった。
「何番目?」
「二」
「お前は?」
「ナンバーワーン。わんわん」
第二王子の第一夫人か。良いか悪いかで言ったら、そりゃ良いんだろう。と思う。貴族社会のことなんか詳しいわけでも何でもないけど。
「そういやお前、公爵令嬢なんだもんなあ」
「そういやって何よ。見ればわかるでしょ、このあたしの溢れ出るき・ひ・ん!」
長い髪をかき上げてネリーはふふん、と笑った。今年一番馬鹿っぽかった。
「……可哀想にな」
「あたしが?」
「相手が」
「なんでよ」
「わかるだろ?」
「うん」
わかってもらえた。これも長年の積み重ねの成果だ。背中を蹴り飛ばされた。また落ちるかと思った。
「王子かー」
「お、何? 嫉妬?」
「なんでだよ」
「なんでよ」
「……いや、どんなやつなんだろなと思って」
「あたしもよく知らないけどさ」
ネリーは釣り針を引き上げた。こいつは堪え性がないわけじゃないが、落ち着きがない。
「顔はかっこいいよ」
「良かったじゃん」
「んー」
ネリーは釣り竿を脇に置いて、岩場に寝転がる。俺もつられて空を見た。木々の隙間から見える空と光は、ちょっとやりすぎみたいに白くて、透ける葉は緑に光る。
「良かった……、かなあ?」
「好みじゃないより好みの方がそりゃいいさ」
ネリーは答えなかった。目線をやったら、空を見つめていた。何を見てるんだろう、とそう思った。
蝉の声が、やけに心地よかった。
「……エドはさ、結婚するの?」
「ん?」
どうもセンチメンタルな気分らしい。声音でわかった。
「ま、そのうちするんじゃねえの。今は全然イメージできねえけどさ。相手もいねえし」
「あたしだってそうよ」
冷たい風が吹いた。肌寒くなって、服の乾きが気になった。
「一生子供のままなんだと思ってた」
そういうわけにはいかねえよな。
軽口で返そうかと思ったけど、何となくやめておいた。
その先、ネリーは何も言わなかった。
夏の日は長い。揺れる水面を見つめていた。ネリーは空を見ていた。珍しく今日はずっと静かだったのに、やっぱり魚は釣れなかった。
腕が悪い、と区切りをつけて釣り竿を引き上げたら、ネリーもポケットから懐中時計を取り出した。俺が一生かかっても買えないようなやつ。
「……もうこんな時間」
「帰るか?」
「……うん」
俺は立ち上がったけど、ネリーは寝たままだった。夢でも見てるみたいな、そんな顔をしてた。
唇が、小さく動く。
「帰ろっか」
手を差し伸べれば、ネリーは両手でそれをつかんで、引き倒すみたいに全体重をかけてくる。昔はこれでよく転がされたけど、今はもう倒れない。勢いよくネリーを持ち上げる。
それからとっくに乾いていたシャツを着て、自分の分の釣り竿を手に取って、それからネリーのも、
「あ、それあげる」
手渡そうとしたら、遮られた。
「あたし、今日でここに来るの最後だから」
なんて言えばいいのか、わからなかった。
「ま、あんたがいくらへたっぴでも、そのボロ竿よりはまだそっちの方がいいでしょ。ありがたく使いなさいよ」
「……さんきゅ」
竿を二本抱えて、並んで歩きだした。森の中を、街へ向かって。歩調はゆっくりで、その理由も、俺にははっきりわかった。
――ね、この花、なんて名前だっけ。
――今の鹿じゃない? 見た? なんで見てないのよ。
――ほら、この石、緑色。
――だからね、あたしは……、ちょっと。何がおかしいわけ?
――ねえ。
――ねえ、エド。
――エド。
「好きよ」
「――え」
振り向いた先で、ネリーが立ち止まってた。
森の光を背に浴びて、長い髪が風に揺れて、まっすぐ俺を見つめてる。
「……ずっと一緒にいられると思ってた。大人になんてならないって。そう思ってたのに」
そんなわけねえじゃん、って。
言えなかった。俺も本当は、ネリーと同じだったから。
「ねえ」
だけどそれは束の間の魔法みたいなもんだった。
森がかけた魔法。子供にしか効かない魔法。
「どっか遠くに、連れ出してよ」
魔法が解ければ、そこにいるのはお姫様だ。
だから俺は、ネリーが差し伸べた手を――、
「やめとけよ」
決して、取れはしない。
「ふたりで生きていくなんてさ」
もう子供じゃなかった。
だけど、大人でもなかった。
世間知らずのネリーを連れて生きていけるほど、俺はすごいやつじゃない。
俺と一緒に慣れない暮らしを続けられるほど、ネリーは強いやつじゃない。
誰に言われなくても、そのくらいのことはわかってた。
「……無理だよ、そんなの」
お姫様は王子様と結ばれるなんて、誰でも知ってる。
「……そうよね」
ネリーは笑った。俺も笑った。
「あんたの顔見るのもこれが最後だと思うとさ、ついわがまま言っちゃった。許してね」
「いつでも許してたろ」
「……それもそーね」
ネリーが伸ばした手を引っ込める。それから俺に背を向けて、
「ばいばい」
ってそれだけ言って、もう目の前に見える街へ歩いてく。
俺はそれを見つめている。
ただ俺は、それを。
それを。
「ネリー!」
その背に。
「俺もお前のことが――」
*
「あんちゃんはどこまで行くんよ?」
馬車で乗り合わせた隣の人に話しかけられた。
俺は運よく窓際の席で、逆側からは涼しい風と、草原の緑が広がっていくのが見える。
「特に決めてないんです。旅に出てみようと思って。強いて言うなら西の方かな」
「ほー。そのくらいの年じゃ珍しい。学生さんじゃねえのかい?」
「休学しました。一年くらいで戻るってことで」
どうも興味を持たれたらしく、「俺の若い頃は~」とか、「西の名所といえば~」とか色々と話が膨らんでいく。そのうち馬車全体の空気も変わってきたのか、それぞれがこれからの旅の話や、今までの旅の話を始めたりする。
慣れない馬車旅だ。明るい雰囲気ならありがたい。
「そういや名所といえばよう」
「はい?」
「ここの自然だって珍しいもんなんだよ。このへんの土地は贅沢に広さを使ってるからよ。他のとこだとそうはいかねえ。あんちゃんにゃもう見飽きたもんかもしれんけどよ、一年も帰らねえんだ。しっかり目に焼きつけといても損はねえぞ」
「見飽きたもん、か……」
窓から見る遠くの空は青い。雲は白く流れる。どこまでも野は広がる。
「そんなことないですよ」
吹き込んだ風が頬を撫でた。
馬車の車輪が回るたび、少しずつ、遠ざかっていく。
あの森も、あの川も。
そして――、
「ずっと、見つめていたかったんだ」
遠くで教会の鐘が鳴る。