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王と忠犬 改稿版  作者: 岩岸佐季
幼犬編
2/30

メグルフィー家の末っ子

 イル・メグルフィーは生まれながらの同性愛者だった。


 彼の生まれは、リネード王国の首都アールリネードという街だ。あの世で「裕福な一般庶民」を転生先に選ぶことができた彼は、この街に拠点を構える大店おおだな・メグルフィー商会の四男として生を受けた。

 前世の記憶を持っていた彼は、まず第一に目立たないことを方針とした。なぜなら同性愛者というものは地球ではマイナーであり、どの国の歴史においてもまず間違いなく迫害の対象であったからだ。

 もちろん、統計的に、どんな場所にも一定数の同性愛者はいたはずだ。しかし、あくまでそれは少数の、例外的な、変態とみなされる人種でしかなかった。場合によっては同性愛者というだけで罪人扱いだ。大なり小なり差はあれど、彼が生きた現代日本でもそう違いはない。

 この世界がどうなのかはまだ判らないものの、イルは用心深かったし、彼自身の性がばれることによるデメリットは避けたいと思っていた。たとえ永遠に隠し通すのが無理だとしても、少なくとも自立して生活できるまでの間は、普通の男の子として生きようと決めたのだ。


「まず、この世界の常識を学ぼう」


 イルはふかふかのベッドの上でふにふにの手をにぎにぎしながら決意した。0歳十日の夜中だった。

 幸い彼にはスキルがあった。


「鑑定」


 イルは手始めに《鑑定》スキルを使用してみた。スキルレベルはまだ低かったが、セットでお得に手に入れた《鑑定》は、対象にしたものが何であるのか、ぼんやりとした薄いイメージを伝えてくれた。

 例えば、イル本人の服に《鑑定》をかけると、水辺のようなところで生えている草が、たくさんの人によって収穫されている景色が浮かんだ。次にもう一度《鑑定》すると、先ほどとは別の集団が床に座って編み物をしている光景が見えた。薄ぼんやりしていて細部までは見えなかったが、どこか懐かしい感じがした。

 《鑑定》は、モノが持つ記憶を読みとるスキルなのかもしれない。イルはそう考えた。


「鑑定。鑑定。鑑定」


 イルは楽しくなって、周りのものに片っ端から《鑑定》をかけた。そして気を失った。

 スキルの使用が魔法力やスタミナなどを消費すると、まだイルは知らなかった。



   ¢



 暑い夏と、寒い冬を二度ずつ経験して、イルは二才になった。

 言葉を覚えるまでの間あらゆるものを《鑑定》しまくったおかげで、彼はある程度この世界のことを学んでいた。とはいえ、それはスキルが伝えてくるイメージを材料に、イルが彼なりの推論を与えただけの、中途半端な知識だ。

 この世界にはベビーカーもおんぶ紐もあったが、幼い彼が連れていってもらえるのは、いつも自宅の庭だった。「メグルフィーさんのお宅」は人口密度の高い王都にそれなりに広い土地を確保しており、その庭は豊かな自然とたくさんの日の光に満ちていた。イルはそんな自宅の庭も大好きだったが、そろそろ外も見たいなあと考えていた。

 メグルフィー家は店舗と自宅が独立しており、自宅には家族と少数の使用人だけが暮らしている。遊びにくる家族の知人もいるが、それも顔見知りばかりだ。

 だから、イルは話せるようになると、彼の母親や使用人に「お外いきたい」とねだるようになった。そうして運がいいと連れだしてもらい、彼女たちを質問攻めにした。

 もっぱら、彼の興味は市場に向けられていた。


「かーさ、こえ、こえなあに?」

「それはおにくよ。おーにーく」

「おにゅく」


 母親のユナ・メグルフィーは、年相応に舌足らずな声で繰り返す息子の姿を見て、ああこの子は天使だわ、と感動していた。

 それも半年が過ぎると、彼の質問は次第に変わっていった。


「これ、なんてかいたあるの?」

「これいくら?」

「かーたま、これ、たべれりゅ?」


 はじめて、イルが「買って」とねだったのは、分厚くて高価な辞書であった。当然買ってはもらえなかったが、ことあるごとに本を欲しがる彼には兄と姉のお下がりが与えられることとなった。

 すぐに彼は本に夢中になった。しばらくの間メグルフィー家では、幼児の「ごほん読んでー」に負けた家人たちが、庭でひなたぼっこをしながら本を読み聞かせている光景が見られるようになった。

 三才、四才と年を重ね、五才になる頃には、彼はすっかり本の虫になってしまった。が、市場へ出かける頻度はあまり減らなかった。ちょくちょく家を抜け出しては、


「おじちゃん、これどこのお茶?」

「それは北ウシカの茶葉だ。安もんだな。イルおめえ母ちゃんどうした」

「母さまならセネちゃんといっしょにお庭でお芋焼いてる。ねえおじさん、北ウシカだとパックしゃなくてグリップで計るんでしょう? これ一つだと何グリップくらい?」

「あん? 茶はパックじゃ計らねえよ。大陸のどこの国でもだいたいオスモールだろ。それは一〇オスモールだな」

「それは書いてあるから分かるけど……。じゃあこれは?」


 などと、メグルフィー商会とは全然関係のない店の店主に顔を覚えられて、果物の欠片を口に入れてもらったりしていた。

 実際のところイルは大変な思いをしていた。彼を苦しませたのは、この大陸の地理や、各国の政治などではない。生前何一つ知識のなかった魔法に関することでもない。

 平たく言うと、問題は、彼自身の手に指が十二本あるということだった。彼だけではない。彼の両親も、兄弟も、使用人も、さっきの薬問屋のおやじも、人間の両手の指は十二本と決まっていた。

 そして必然的に、世界は十二進数で動いていた。


「たしかに十二という数字は割り算には効率がいいけど……」


 まだ救いなのは、多くの場合位取り記法が使われているということ。たまにそうでないことすらある。

 さきほどのウシカの茶葉も、札には一〇オスモールと書かれていた。つまり十進法では十二オスモールあったということだ。めまいがしそうになる。

 加えて、最悪なことに、この世界では単位が統一されていなかった。いや、イルが生前過ごした地球も、ヤードポンド法が現役だったことを思えば単位が統一されていたとは言いがたいが、それとは比較にならないほどのカオスっぷりだった。国が違えば単位が違うのは当然。国の中でも計るものが違えば単位が変わってくるのだ。ひどい国では王さまが変わるたびに、暦といっしょに長さの基本が変わったりした。こちらに関してはもうイルは半分覚えることをあきらめている。


「父さまたちはよくこれで輸出や輸入ができます。本当に」


 単位以外にも、暦(一年はだいたい四百日くらいだが、国によって閏年や元日が違う)、度数法(直角は九十度ではなく十五度か二十四度であることが多い。時計の単位を延用することもある)、一日の長さ(全世界的に十二時間で、幸いなことに一時間は六十分。ただしこの世界の三分は体感的に地球の八分くらい)など、本に数値が登場するたび、毎回彼は計算尺とにらめっこする羽目になった。

 もちろんそれらの表記は当然のように十二進数。彼が前世の常識を一刻も早く捨てたいと願ったのは言うまでもない。

 このままでは計算のできない子になってしまうとイルは危惧していた。彼自身の能力は、客観的に評価すると、ごく平均的なレベルでしかなかった。どうしても十進法の意識が邪魔をするためだ。


「異世界を甘く見てた」


 目立たないように、なんて考えている場合じゃない。イルは毎日、子供用の練習問題をひいひい言いながら計算した。三〇個ある果物を四人に九個ずつ等分したり、時速二マーンのケイトちゃんを半日歩かせて一〇マーン先の八百屋へ行かせたりした。

 結局、十二進法を習得し、単位を覚えきるまでには、何年もかけることになる。

 やがて算盤に慣れると、彼は商会の手伝いを申し出た。これもまた計算を覚えるためである。算盤なしでは仕事が覚束なかったが、年相応のものとして、周りはちゃんと彼の努力を評価していた。

 家族やご近所さん、常連客らにとって、メグルフィー家のイル君といえば、そんなちょっと計算が苦手な、ちょっと本が好きなふつうの、がんばり屋さんの男の子だった。

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