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ぬるい恋愛✉Ⅱ #everlasting love  作者: 美位矢 直紀
1/4

胎動

※ぬるい恋愛は「カクヨム」へ移転中です。美位矢直紀で検索お願い致します。

 暫くの間ご迷惑お掛けします事、お許し下さい。


※再推敲しながら全て移転します。少し読み易くなると思います。







ぬるい恋愛Ⅱ“everlasting love”







美位矢 直紀

meeya naoki








 崇高で尊い命の全てに与えられた“愛情”という、どんなに酷使しても壊れる事のない、しかもどんな命をも決して傷付ける事のない武器でエリカに心を射貫かれ、救われた事を実感していた涼介の下に横浜本社勤務の辞令が届いた・・・

 エリカと新たな人生を構築する決意を固めていた涼介に蘇る、今何処で何をしているのかも分からない一人の女性。

 何を信じ、何を守り、何の為のぬるい恋愛に涼介はどんな形でけじめをつけるのか・・・











目次




  1 胎動

  2 真実

  3 理想

  4 霹靂

  5 混沌

  6 悪戯

  7 激震

  8 愛情

  9 決断

 10 永遠










1 胎動






 祝福の宴は和やかな盛り上がりを迎えていた。


 雛壇の新郎は生涯最高のほろ酔いをしていた。

 艶やかな新婦は生涯最高の笑顔を見せていた。


 披露宴会場から見渡せる満開の桜は陽光で煌めいていた。その美しさは窓枠を額縁に見立てた絵画のように振舞い、主役の二人に華を添えていた。


「続きまして、新郎広山俊二様の上司であります企画開発部課長代理、佐久間様のご祝辞でございます」

 歓談の続く会場に一際大きな拍手が響いた。

 笑顔を引き締めた涼介は席を立ち一礼をした後、新郎新婦の両親が座る席に向かって歩き、深く一礼をして慶びの言葉を伝え雛壇へ向かった。

「由紀子さん、おめでとうございます。・・・広山、おめでとう」

 マイクを握る前に新郎新婦に正対した涼介は二人に心からの祝福を伝えた。

「代理・・・いえ、室長、色々と本当に有難うございます」

「おめでとう」

 涼介は穏やかな笑顔で右手を差し出した。

 席を立ち、両手を伸ばした広山は少し瞳を潤ませていた。






     △






 羽田空港のアトリウムは雑多が点在していた。壁に掛かる巨大なモニター画面には満開間近の東京の桜がニュース映像として揺れていた。

「戻って来たな・・・」

 涼介は心の中でそう呟きながら、談笑を伴い離合集散を繰り返している雑多を心地よくすり抜けていた。

「さてと・・・何処だろうな・・・」

 涼介は迎えに来てくれている筈の純一を探し始めた。

「・・・ふっ・・・分かり易いヤツだな」

 アトリウムを見回す必要もメールを打つ必要も無かった。純一はアトリウムのほぼ中央で一人だけ微動だにせず、ある意味逆に目立っていた。

「・・・・・」

 純一は黒のスーツにサーモンピンクのシャツを合わせ、ブリーフケース一つしか持っていない軽装の涼介をずっと視界に捉えていた。

「・・・・・」

 この日を待ち望んでいた涼介は込み上げる高揚感を理性で押さえ、純一に近づきながら北九州支店への転勤が決まった日から再び横浜で生活する事をずっと諦めていなかった自分を顧みていた。

「・・・・・」

 純一は少し気だるい感じを醸している涼介に、あの頃と変わらない気障な涼介を垣間見て笑みを浮かべていた。

「有難う」

「お疲れさん」

 二人はそれが当たり前の様に、日常の一コマの様に言葉を交わした。

「助かるよ」

「当たり前だな」

 純一は穏やかだった。

「荷物それだけか?」

「だな」

「何故一週間延ばした?」

「昨日結婚式だったんだよ。あと残務とか引き継ぎとか、けじめとかさ」

「けじめ?」

「まぁ色々あるよ」

「まさか・・・大晦日一緒に飯を喰ったエリカちゃんか?」

「そうだな」

 涼介はそう呟いた後、純一を促すように歩き始めた。

 二人の間には暫く無言が続いた。

 日曜の午後、春の乾いた日差しがアスファルトで弾んでいた。

 空港を渡る海風はまだ少し冷たかった。

「まあ・・・そういう事なんだな」

 横断歩道を渡り、駐車場のエレベーターホールに向かう途中で純一がそう言った。

「何がさ?」

「いや・・・お前らしいのかもな」

「何階?」

 涼介は問い掛けには答えずそう聞いた。


 3階フロアは関東一円のナンバープレートで溢れていた。

 二人は二度点滅したハザードランプに向かって歩いていた。

「信じてるって事なんだろ?」

 運転席に乗り込む前に純一が言った。

「・・・まあな」

 涼介は煙草をポケットから取り出しながらそう答えた。


「ほんと、無茶なヤツだな」

「・・・やっと現実を大切にしようって思ったんだけどな」

「また女性を一人傷付けた訳だぞ」

「ふーっ・・・そうだな・・・相変わらずぬるいよな」

 純一は螺旋のスロープに合わせてハンドルを切り続けていた。

 涼介は煙草を燻らせ、自嘲の中に感じる僅かな充実を吸い込んでいた。


「飯でも喰って帰るか?」

「いや、戻ろう」

「本牧のどの辺りだ?」

「前のマンションの近くだよ」

「了解」

「美味しいコーヒーが飲みてぇな」

 シートを倒し両手を頭の下に置いていた涼介は、天井に向かってそう呟いた。

 車は湾岸線を下っていた。

 涼介はサンルーフ越しに見える春の空を漫然と見つめていた。


 ベイブリッジが見えていた。

 みなとみらいも見えていた。

 涼介は3年のブランクを取り戻す様に眼前に広がる横浜を身体に溶け込ませようとしていた。

「・・・近くなったら道教えてくれ」

 山下町ランプで降りた純一は“見晴しトンネル”に入る前にそう聞いた。

「了解」

「あれから何年だ?」

「・・・11年目突入かな」

「11年か・・・」

 純一は涼介らしい無謀さに唖然とし、包容を示す苦笑いを浮かべていた。


 涼介は北九州支店に異動になった年から2年続けて本社復帰を会社に直訴していた。社内秩序を乱しかねない涼介のそんな手前勝手な行動は仕事に悪影響を及ぼし、荒んだ心は自身の生活を投げ遣りなものにさせていた。

 北九州支店勤務3年目の6月、涼介はエリカと出会っていた。以降、エリカの素直な愛情に頻繁に触れ、忘れていた愛情への取り組み方を揺り起こされていた。

 歳の暮れ、涼介はエリカに縁ってぬるい恋愛に終止符を打つ決意を固めていた。そしてその年の大晦日、エリカとの新たな人生を地元の小倉で構築する決心を秘め、圭子と純一にエリカを紹介する為に横浜へ連れて行っていた。

 2月の終り、涼介は予期せぬ出来事に因って自身の価値観を再構築せざるを得ない問題に直面していた。本社異動の内示という、ある種葬り去った筈の自身の恋愛観を社長直々の電話通達で揺り戻されていた。

 3月初旬、4月1日より本社勤務という旨の辞令が正式に出ていた。再びぬるい葛藤が胎動していた涼介は、その辞令が選択肢として存在してはいけない結論を導き出す為の免罪符になると捉えていた。

「此処なのか?」

「そうだよ」

「涼介お前・・・無茶過ぎるんじゃねぇか?」

 純一はサイドブレーキを踏み、洗練された真新しいマンションをフロントガラス越しに見上げていた。

「だろうけど、何故か一部屋空いてたんだよ。その流れに乗っただけさ」

「・・・聞いてはいたけど、この辺りも変わったよな」

 純一は車を路肩一杯まで寄せ、エンジンを切らずバックミラーを見た。

「ああ、俺もびっくりしたさ」

 普通車一台通れる程の道幅や一方通行である事は昔と変わりなかったが、路面のアスファルトは整備され、何よりも涼介の知らない3年の間に“司”が5階建てマンションの1階を占拠し、周辺にも真新しいビルが点在していた。

「空き地だったのにな」

「お陰で即決だよ」

 8階建ての真新しいマンションのエントランスを見ながら涼介は笑った。

「・・・エリカちゃんにはプロポーズしてたのか?」

 純一は一瞬真顔で聞いた。

「・・・してたも同然だな」

「ふぅ・・・婚約破棄して今何処で何をやってるのかも分からないマキちゃんに会う為に“司”の真ん前か。ははっ、全く呆れたヤツだよ」

「偶然でも必然でも一度でいいからマキに会って、どうにもならない現実に苛まれたいだけさ」

「何だその考え貫いて用意してました的な答えは」

 純一は車のエンジンを切らないままバックミラーを頻繁に見ていた。

「・・・きっと用意してたんだよ・・・いつか純一に“絶対別れちゃ駄目だ”って言われた日からずっとさ」

「苗字変わってるかもだぞ」

「いいさ」

「・・・しかしそんな事言ったっけか?」

「ああ、11年前、花咲町の汚ったねぇBARでな」

「・・・あのセンスの欠片もない時代か?」

「その代わり紳士だったよ」

「おいおい、都合の良いヤツだな」

「違うさ、俺はあの頃から頑固で我儘でぬるい野郎のままさ」

 二人はそれぞれ蘇る記憶を懐かしむ様に笑い合っていた。






     △






 岡部は泣いていた。

 涼介は企画開発部の部下達に囲まれていた。


 3月26日の金曜日、北九州支店へ出社する最後の日となった涼介は朝から部長と熊本支店から着任する新たな課長と三人で大口取引先への挨拶回りをしていた。午後遅く社に戻って以降は業務の引き継ぎを続けていた。合間を見ては同期やお世話になった他部署の社員へ感謝の挨拶を済ませていた。定時を過ぎた辺りには外出していた社員も戻り、部内は共に頑張って来たいつもの顔ぶれが惜別の言葉を涼介に贈っていた。

「皆な有難う・・・さあ帰るぞ」

「代理、色々と有難うございました」

「本社での活躍祈ってます」

 部下がそれぞれ感謝の言葉を口にしていた。

「最初変なおっさんだなって思ってたんですよね」

 広山が口火を切った。

「そうだよなぁ。かぶれた気障なオヤジだったもんなぁ」

「上司らしくなかったもんね」

「若いのに課長代理ってやばい人だって思ってましたもん」

 同僚は広山に続いていた。

 涼介は穏やかに笑っていた。

「あー俺も横浜行きてぇなぁー」

「代理、上司らしくなかったもんな」

「寂しくなりますね・・・」

「皆な有難うな。お陰で良い仕事が出来たよ」

 感慨に耽り始めた部下達の佇まいを涼介は感謝の言葉で区切った。

「とんでもないっす!仕事やり易かったっす!」

 入社2年目を迎えようとしている社員が少し声を張った。

「有難うな、頑張れよ・・・さあ帰ろう」

 涼介はその声を合図に部内を見渡し、自分のデスクで俯いている恭子の傍に歩み寄り、肩にそっと手を置いた。

「岡部もう泣くな。帰るぞ」

 涼介は優しくそう語り掛けた。

「・・・・・。」

 恭子はその言葉に嗚咽でしか答えられなかった。

「岡部、有難う」

「・・・代理・・・有難う・・・ございます・・・」

 恭子は号泣に変わっていた。

 ずっと恭子の傍に寄り添っていたもう一人の女性社員も泣き始めていた。

「・・・じゃあ俺は帰るぞ。それと皆な、明日の結婚式盛り上げてやれよ」

 部内に響かせた涼介の声に部下達は反応した。

 広山は少し照れていた。

 話題は惜別の余韻から広山が明日迎える門出に切り替わろうとしていた。


 三々五々、部下は家路についていた。

 涼介のデスクは綺麗に片付けられていた。

 デスク越しに見える小倉の街並みには、いつものありふれた夜が訪れていた。

「じゃあな、広山」

「代理、本当に本当に感謝してます」

「・・・送別会断って悪かったな」

「そうですよ、特別な事は何もするなって言うから皆なを誤魔化すの大変だったんですよ。部長にはお前の仕切りが悪いって怒られるし」

 二人は窓際で、終ろうとしている一日の心地良さを共有していた。

 少し離れた場所で恭子は待っていた。

「俺の気持ちを汲んでくれるのは広山しか居ないからな。感謝してるよ」

「とんでもないです」

「この借りは返すからな」

「代理、本当に色々勉強にな・・・」

「何だ!やっぱりそうだったの!」

 三人だけになっていた部内に恭子の声が響いた。

「・・・悪かったな。勘弁してくれ」

「広山さん様子おかしいと思ってたんです」

 二人に近付いて来た恭子の顔は普段に戻っていた。

「俺の事より広山の結婚式の方が大切だからな」


 エレベーターを降りた三人はホールを歩きながら、それぞれの気持ちを理解し合えた感覚に包まれたまま、送別会がキャンセルされるまでの後日談に花を咲かせ、和やかに会社を出ようとしていた。

「代理、やっぱり二次会無理ですか?」

「止めとこう。俺が顔を出す場所じゃないよ」

「そうですか・・・」

「その代わりちょっとぐらいならいいよな?」

「何がです?」

「今から鳥町だよ」

「良いっすね」

「岡部いいだろ?」

「全然大丈夫ですっ、行きましょ!行きましょ!」

「それで地下じゃなかったんですね。今日車で来てないんだって思ってましたよ」

 広山は自身や岡部の気持ちを察し、今夜はそうする事に決めていただろう涼介の滑らかでさり気ない行動に洗練された大人の嗜みを見ていた。

「飲みに行きたいって目をしてたんだよ、な、岡部」

「ははっ!代理のそんなとこ大好きです!」


 鳥町商店街は賑わっていた。

 店先に貼ってある色褪せたポスターや蛍光灯の切れた古臭い看板を幾つか通り過ぎ、三人は路地のほぼ中央に店を構えている見慣れた暖簾を潜った。

 いつもの居酒屋はいつも通り三人を歓迎していた。

(もう此処に来る事は無いんだろうな・・・)

 涼介は出されたおしぼりで手を拭きながらそう心の中で呟いた。


 馴染みになっていたマスターが二杯目の生ビールを持って来た時、広山にはおめでとうと、涼介には復帰ですねと声を掛け、四人で一時会話を楽しんでいた。

 三人は程好く酔っていた。

 涼介は二人が交互に切り出す思い出話に耳を傾け、時折その当時の心境をにこやかに吐露していた。

「そう言えば取引先から合コンセットしてって、代理が来てから増えましたもんね」

 広山は唐突に仕事とは別の印象深い出来事を涼介に向けた。

「ははっ、そんな事無いさ」

「いや、代理持てましたもん、でも悉く誘い断るし、たまに途中から来たかと思えば直ぐ帰っちゃうし、何かもう女性陣はそれで逆に火が点いちゃうし、フォロー大変だったんですから」

「そうだったのか?まあ勘弁してくれ」

「俺、岡部からもダシに使われた事ありましたもん」

 広山は話している最中、岡部が涼介を自分のものにしようと画策していた時の事を思い出していた。

「広山さん!」

「あ、ごめんごめん、ちょっと思い出しちゃってさ」

 広山は岡部から制された声に少し慌てた。

「広山さんいつも一言余計なんだから」

 岡部は広山がこの三人でのタブーに再度触れないよう可愛い声で駄目を押した。

「・・・そんな事もあったな」

 涼介はこの場所で岡部の策略を制した事を思い出していた。またそんな行動のきっかけを作った自身の荒んだ行為を思い出し、その時の広山の下手な芝居も思い出していた。

「・・・・・」

 岡部は涼介との激しい二度のセックスを思い出していた。

「いやあ、代理ほんと格好良いですもんね」

 全てを思い出した広山は場の空気を変えようと試みた。

「ははっ、ここは無理に空気読まなくてもいいんだよ広山。お前はそんな事考えない方が良い仕事したりするんだからさ。俺はそれで何度か救われてるし、まあそれに今の一言、責任感じてる割には話の振り幅が中途半端だしな」

 涼介は終始穏やかに語っていた。

「すみません」

「俺なら岡部に“彼氏出来たか”って聞くけどな」

「えー、それも違うと思います」

 涼介との間で起こった出来事を更に繊細に思い出していた恭子は少し素っ気無い返事を返した。

「そっか?居ないのか?」

「えっ?」

「何故?」

「何故って・・・」

「わざとか?」

「わざと?・・・」

「ときめかないのか?」

「・・・・・」

「ごめんごめん悪かった・・・岡部、背負い過ぎるなよ」

「えっ?・・・あっ、はい・・・」

 恭子は涼介の矢継ぎ早の質問にたじろいでいたが、涼介の言った“背負う”までの流れが意味するものと、溢れ出ていた涼介との思い出を強引に結び付ける作業は怠らなかった。

「昔言ってたよな?“代理は仕事を抱え込み過ぎだ”って。もっと部下に任せた方がいいって」

「えっ?・・・代理・・・あの時はその・・・生意気言ってすみません・・・」

 次に放たれる涼介からの言葉に敏感になっていた恭子は少し拍子抜けした。

「ははっ、そう来るか・・・今日は何だか殊勝だな」

「・・・・・」

 恭子は涼介の圧力を、過去は忘れ去り、二人の今後について可能性はゼロではないという示唆だと思い込んでいた。

「感謝してるんだ。岡部の客観にも俺はどれだけ救われた事か」

「・・・・・」

 恭子は涼介という自信家に恋をしていた時の緊張感を思い出していた。そして涼介に踊らされている事が嫌いではない自分を再度認識していた。

「だからあの時の言葉をそっくりそのまま返すよ」

「・・・・・」

 恭子は改めて、男性に求めているものの輪郭を涼介に見ていた。

「任せる事も覚えろよ」

「代理有難うございます・・・でも、意地悪過ぎます・・・」

「・・・広山、どういう意味だ?」

 涼介は恭子の問い掛けをそう振った。

「えっ!?代理もう勘弁して下さいよ」

「ふっ、そっか悪かった・・・マスターすいません、会計お願いします」

 時間を見計らっていた涼介は広山の言葉でささやかな飲み会の終わりを告げた。

「・・・飛行機、日曜の15:00ですよね?」

 緊張と落胆の中で岡部はそれを言うタイミングを見計らっていた。

「そうだよ」

「送って行きます」

「いいよ」

「送って行きます」

「・・・そっか、有難うな」

 涼介は恭子の意思をこれ以上固くしない様、早めに曖昧な感謝を口にした。


 三人はタクシーを拾う為に駅前通りに出ていた。

 冷たい夜風が頬に触れていた。

「広山、客観、洞察、分析だぞ。岡部もな」

「・・・・・」

 二人は黙って頷いていた。

「問われるのはセンスだし、自分の為にバランス感覚を磨けよ」

「はい」

「・・・代理、また一緒に仕事したいですね」

 恭子は小さく頷き、広山は二人の気持ちを伝えた。

「そうだな・・・タイミングは待ってても来ないぞ。作れよ」






     △






 冷蔵庫には無くなっていた筈のウィルキンソンが並んでいた。

(いつ来たんだろう・・・)

 心の中で涼介はエリカに有難うと呟き、飲もうとしていた缶ビールを止め、カップボードに置いてあったマイヤーズのボトルに手を掛けた。

 ダイニングにしては明る過ぎるシーリングライトの光が、テーブルの上に置いたままになっている引出物の袋と涼介の背中をいつも通り煌煌と照らしていた。


 涼介は披露宴の後、広山夫妻を祝福する談笑の輪の中で誰彼無く二次会に誘われていた。

 涼介の性格を知っている仲間達からすれば叶わぬ事だと内心思っていた筈だった。しかし皆な微かな期待を込めて熱心に口説いていた。

 社交辞令だけでは出来ない仲間達の誘いに涼介は感謝していた。3年前なら想像すら出来なかった温もりに触れ、そんな人達との繋がりを与えてくれた目には見えない何かにも感謝しながら丁重に遠慮し続け、静かに披露宴会場を後にしていた。


(良い仲間に巡り逢えたな・・・)

 涼介は明かりの点いていないリビングに戻り、その時の光景を思い出しながら謹み深く幸せを享受していた。

 礼服の上着はソファの背凭れに投げ置かれていた。

 春らしい夕日がベランダを淡い朱色に染めていた。

 ガラステーブルに置かれたラムバックは飲み干されていた。

 部屋の中は明日業者に梱包して貰う為の荷物が散乱していた。

 至る所にエリカの物も散らばっていた。

(・・・・・)

 涼介はソファに寝そべり、辞令が出た後の自身を顧み、エリカにとっては許し難い心の在り方をもう一度思い起こしていた。

 横浜本社勤務の内示を受けた直後からマキに想いを馳せていた涼介は、心の隅に押し込んだ筈のマキへの想いを蘇らせ、博多から小倉へ戻るいつかの新幹線の中でただ耽っていた時のマキへの想いとは違う、与えられた環境や条件を最大限活かして再会を具現する為の算段を思い巡らせていた。

(もし結婚してたら諦めもついてたんだろうか・・・)

 涼介は二度とやらないと誓ったぬるい恋愛を、誓わせてくれたエリカにやろうとしている不健全な自己愛を客観した。

(許して欲しい・・・)

 涼介はそう切望しながら立ち上がり、ダイニングに向かった。

 35歳を迎えた大人がやる事では無い、鼻持ちならないナルシズムを貫く為に涼介はエリカを裏切ろうとしていた。エリカに嘘は付けないとする結論有りきの歪んだ自己都合に正当性を押し込むという、甚だしい詭弁で自身を守ろうとしていた。そこには女性を傷付ける事に罪悪感を感じない、物哀しい憐れな男の手前勝手で傲慢な情熱があった。

(・・・・・)

 涼介は信じていた。愛情を注ぎ合った女性の大いなる理解を信じていた。嫌いになって別れた訳ではないマキと、嫌いになって別れようとしている訳ではないエリカを信じていた。

(馬鹿な男だよ・・・)

 涼介は2杯目のラムバックを飲み干した。

 再会出来る保障など何処にも無く、既に結婚して子供が居るかもしれないマキへの変わらぬ想いの中に在る、それでも5分だけでいいからもう一度会いたいという願いと、再会しても苛まれるのがオチだという切なさと、マキにとっては迷惑な事かもしれないという不安と、挨拶だけで終わったとしても、無視されても、見知らぬ通りで偶然擦れ違っただけだとしても、もう一度会うまでは女性を愚弄し冒涜し続けてしまうだろう自身の性根をエリカは理解し、受け入れ、許してくれると信じていた。






     △






 ダイニングのシーリングライトは煌煌と光を放ち続けていた。その明るさは程好くリビングを満たしていた。

 ガラステーブルの上には飲み残したラムバックが水になっていた。その横に置かれた腕時計は9時10分辺りを指していた。

 陽が落ちてからの部屋の空気は少し肌寒く、乾いていた。


「風邪引くよ」

 エリカはソファで眠っていた涼介に優しく声を掛け、肩を揺すった。

「・・・お帰り」

 涼介は身体を起こした

「いつから寝てたの?」

 エリカはソファとテーブルの間で“ちょこん”と正座していた。

「いつからだろう・・・」

「披露宴で結構飲んだんじゃない?」

「・・・そうだな」

 涼介はそう言いながらテーブルの腕時計に手を伸ばした。

「明日何時に出るんだっけ?」

 エリカは立ち上がり、ダイニングに向かった。

「昼だけど・・・今日休みだったのか?」

「何で?」

「ウィルキンソン有難う」

「ああ、これ、午後少し時間が空いた時に井筒屋行ったのよ。だから買っとこうって」

 何か飲もうと冷蔵庫を開けていたエリカは棚に並んだボトルを見てそう言った。

「で、その足でわざわざ持って来てくれたのか?」

「うん、だって式終わって帰って来て飲みたくなるんだろうなぁって思ってたし、お店に忘れちゃいけないし、やっぱり飲んでたし」

 エリカはボルビックを手にして涼介の隣に戻り、空いたグラスを見て微笑んだ。

 二人の下に掛け替えの無いひと時が訪れていた。他愛も無い話でお互いを茶化し合う、いつまで続いても構わない恋人同士にしか出来ない一時が訪れていた。

 

「飯は喰ったのか?」

 シャワーを浴び終えた涼介はダイニングでコーヒーをドリップしていた。

「うん、食べたけどお腹空いたら在る物で何か作って食べる」

 エリカはリビングに散乱している涼介の荷物をダンボールに詰めていた。

「いいよやんなくて」

「うん・・・ね、今夜泊まっていい?」

「どうした?そんな事聞くの初めてじゃないか?」

「あはっ!だってぇ・・・明日居なくなっちゃうんだよ・・・それに仕事だから見送り行けないしさ」

「・・・・・」

 涼介はエリカのその言葉で、心の中に準備していた今夜伝えるべき真摯な姿勢と素直な言葉を探し始めた。

「どーしたの!?何だか暗いよ」

 エリカは今の自分に素直だった。

「そっか?」

「私と離れ離れになるのが寂しい?」

「そうだな」

「・・・遠距離って辛いだろうな・・・」

「・・・・・」

「そんなにしょっちゅう会いに行けないしな・・・」

 エリカは涼介の荷物を片付けながら自分に語り掛け始めていた。

「ひょっとして・・・向こうに誰か好きな人居る?」

 エリカは何かをふと思い出した様にダイニングでコーヒーを飲んでいる涼介に笑顔を向けた。

「・・・居ないさ」

 涼介はそう言いながらリビングに戻って来た。

「じゃあ何で私に“一緒に行こう”って言ってくんないの?」

 エリカは荷造りの手を止めた。

「エリカ・・・そ・・」

「昨年の大晦日楽しかったね!」

「・・・・・」

 思い掛けない話で言葉を遮られた涼介はそのまま黙った。

「・・・やっぱり・・・今日は帰る!」

 エリカはそう言いながら勢い良く立ち上がった。

「・・・・・」

「だって辛いもん・・・離れらんなくなっちゃうもん・・・」

「・・・・・」

「ねっ!私に来て欲しい?」

「・・・・・」

「寂しい?」

 いつの間にか涼介の隣に座っていたエリカは素直な瞳を向けていた。

「・・・辛いよな・・・」

「またーっ、そんな心にも無い事言っちゃって!」

「ほんとさ」

「じゃ結婚してっ!」

「エリカ・・・」


 エリカが横浜本社勤務の辞令が出た事を涼介から聞かされたのは3月中旬だった。3月に入ってから涼介の様子が少し変だと薄々感じていたエリカは、その話を聞いた時、過去に2度横浜本社復帰を直訴した話を聞かされていた事を思い出し、何か重大な出来事が起こるかもしれないという得体の知れない動揺に襲われていた。

 エリカは何故そこ迄して涼介が横浜に戻りたかったのか改めて理由を考え始めていた。仕事の環境や土地柄だけでは無く、横浜で涼介の帰りを待っている女性が居ても不思議では無いと考え始めてもいた。もし本当にそうだったらどうしようという、エリカのそんな思いは涼介に合う時間や涼介の自宅へ泊まりに行く日を減らし、会話の距離感も微妙にずらし始めていた。

 3月後半に入っても二人の今後について何も語らず、何も変わらない様な態度で接する涼介に対してエリカは核心に迫れず、意思の確認や確約を取り付けられないエリカが居た。

 エリカは所詮私達は出会い系で知り合った遊び人同士であり、セフレからの緩い恋だった事を自分に言い聞かせ始めていた。しかしその思いとは裏腹に、それが愚かな行為だと分かっていても涼介に束縛を仕掛けていた。奔放な恋愛をして来たエリカにとって、それは自己嫌悪以外の何物でも無かった。

 エリカは自分の輝き方や輝かせ方を教えてくれた涼介と絶対別れたくないと思っていた。しかし涼介の心に今も生きているかもしれない女性の影に立ち向かう資格が有るのかどうか健気に迷い、思い過ごしかもしれない女性の影に立ち向かう勇気は無かった。

 エリカは受け入れなければならない現実の中に、どうしても受け入れられない現実があったとしても涼介の事を嫌いになりたくないと思っていた。


「結婚しよ!」

「エリカ・・・」

「嘘だよっ!」

「・・・・・」

「出来る訳ないじゃん!だって私小倉大好きなんだもん」

「・・・・・」

「大好きなんだよ・・・」

「・・・・・」

 涼介は感情を抑えたその言葉に含まれる全ての意味に感謝していた。

「エリ・・」

「ねっ!!」

 エリカは再び涼介の言葉を笑顔で遮った。

「・・・・・」

「別れようって言わないで・・・」

「・・・・・」

「有難うって言わないで・・・」

「・・・・・」

「今夜が最後みたいな事・・・言わないで・・・」

「・・・・・」

「・・・ずっとずっとそうだったんだもんね・・・」

「・・・・・」

「ずっとずっと心は横浜だったんだもんね・・・」

「・・・・・」

「こんなに好きにさせといて・・・駄目だよ・・・」

 エリカは上目遣いで哀しく微笑み掛けた。

「・・・・・」

「私の事好き?」

「・・・好きだよ」

「またそんな事・・・言っちゃって・・・」

「・・・・・」

「ごめんね・・・私の事ばっかりで・・・」

「・・・・・」

「あーっ、言いたい事言ったらスッキリしたっ!」

 エリカはそう言ってソファから立ち上がった。

「・・・・・」

 涼介は柔らかい眼差しでエリカの姿を追っていた。

「久々に振られちゃったな」

 エリカは薄手のトレンチコート羽織りながらそう言った。

「・・・・・」

「私達・・・全うしたんだよきっと」

「・・・・・」

「だって涼介よく言うじゃん、そういう縁なんだよって」

「・・・・・」

「私達今日までだったんだよきっと・・・」

「・・・・・」

 涼介はエリカに歩み寄っていた。

「・・・近い内遊びに行くっ!」

「・・・・・」

「そのまま居付いちゃおうかなっ!」

「構わないよ・・・」

「よしっ!じゃ頑張る」

「エリ・・・有難う」

「あー、何でこんな駄目な男に恋しちゃったんだろうなぁもう!」

 笑顔の瞳に涙が滲んでいた。

「・・・・・」

 涼介はエリカを抱きしめた。

「・・・離れたくない・・・」






     △






「店舗管理課って大変そうね」

 額に薄っすら汗を滲ませていた久美子はそう話を振られた。

「もうほんと大変、藤沢店から今帰って来たのよ。店長が食材とか備品とか勝手な発注しちゃってて、だから朝一で課長と伝票整理とか後始末」

 午後2時を過ぎた長谷川物産本社5Fの化粧室で、久美子は部署の違う仲の良い同期とばったり会っていた。

「それでなくても年度末で色々忙しいのに、あの店長余計な仕事増やしてくれちゃってさ」

 久美子は愚痴りながら化粧を直していた。

 同期の女性は笑いながら身形を整えていた。

 3月29日の月曜日、西日の差し込む化粧室で雑談は続いていた。

「ね、北九州支店から来る新しい室長ってどんな人なんだろうね」

 久美子は化粧ポーチを弄りながらそう切り出した。

「そっか、戦略企画室に来るんだったよね」

「うん」

「そっかそっか、気になるよね・・・久美子の部は一緒に仕事するもんね」

「そうなのよ、何か聞いてる?」

「うーんとね、この前うちの課でもそんな話になったんだけどさ、課長が同期なんだって。昔一緒に仕事した事があるって言ってたけど、何だか独特で取っ付き難いらしいよ」

「そうなんだ・・・てかうちの部長も知っててね、部長が元町店の店長だった頃新人研修で入って来て一緒に仕事したらしくて、その後も結構仕事で顔合わせてたらしいんだけど、良い人だから先入観無く仕事に徹しとけば大丈夫みたいな事言ってたのよね」

「へー」

「色々と難しい人なのかな」

 久美子は顔を鏡に寄せ、リップを塗っていた。

「どうなんだろうね・・・でもここから北九州行って、企画室の室長として戻って来る訳だから相当仕事出来るのは間違いないわよね」

 同僚は洗面台に背を向けて寄り掛かり、腕を組んでいた。

「そうだよね」

「バリバリの人って結構癖有るもんね」

「そっかー・・・そう言えば西谷室長辞めるのかな?」

 久美子は髪を梳かし始めていた。

「辞めるんじゃない?色々問題起こしてたらしいから。揉めてる所何度か見た事あるし」

「そうなんだ」

「解雇かもね」

「へー・・・今度の室長結構若いよね?」

 全てを整え終えた久美子はそう言って同僚の顔を見た。

「んーっと、ウチの課長が35才だからそれぐらいよね」

「えっ!そんな若いの!?」

「そーだよねぇ。それで室長だもん、凄いよねぇ」

「厳しい人なのかな」

「戦企の室長って実質現場のトップだもんね、厳しいかもよ」

「脂臭いオヤジって事はないかなぁ?」

「それは分かんないけど、あっ、そうそう、独身らしいよ。それに持てるって言ってたから、そんな事はないんじゃない?」

「へー」

 二人は化粧室を出てホールを歩いていた。

「久美子惚れちゃったりしてねっ」

 同僚はその一言だけ顔を久美子に寄せ、小声で冗談を言った。

「いやだぁ」

 久美子のリアクションは大きかったが、声は小さかった。

「ははっ!じゃね」

「頑張って」

 同僚はそう言って自分の部署のドアを開け、久美子は歩きながら軽く手を振った。






     △






 涼介は空になったダンボール箱を片付けていた。2LDKの真新しいマンションのリビングは紐解かれた荷物で足の踏み場が無い程になっていた。

(やれやれ・・・)

 ほろ酔いのせいか涼介が吐いた溜息には充実感が混じっていた。

 まだカーテンの付いていない501号室の窓から月が見えていた。ベランダ越しには“司”が暖簾を構えるマンションの最上階が見えていた。

 3月30日の火曜日、涼介は社会人になって初めて仕事に追われない年度末を過ごしていた。


 昨日の月曜日、涼介は業務外のスケジュールはなるべく早く済ませたいとする思いと、久し振りに味わう本社の空気がどんなものだったのか早く思い出したいとする気持ちの下、2週間程前に人事部から通達されていた着任後の予定を変更して貰い、社長を始め会社の中枢である上層部への挨拶回りを済ませていた。夜は昼間の顔ぶれに加え、戦略企画室と並んで会社の舵取りを担う経営企画室の室長や各部署の部課長と共に関内で会食をしていた。

 涼介は31日を休みに充てる為に業務スケジュールを組み込んでいなかった。それ故今日の昼間も以前お世話になった取引先への挨拶回りに時間を割き、或いは旧交を温める為に各店舗を廻っていた。

 入社当時涼介を指導していた元町店の店長は、涼介が北九州支店に転勤になった次の年に本社レストラン事業部の部長になっていた。昨日の会食の場に姿が無く、その人事を知らなかった涼介は顔を出した元町店から直ぐ本人に連絡を入れ挨拶を交わし、誘われるままに今夜、旧知の社員達や初めて会う社員達と共に居酒屋で話を積もらせていた。


(いいな、やっぱり・・・)

 涼介は変わらない仲間や行き付けだった居酒屋のある福富町の活気に刺激を受け、横浜に戻って来た事を実感していた。

(明日にするかな・・・ん?・・・)

 立ち上がった涼介が何気に投げた視線の先には高く積まれたTシャツや下着があった。その中程に、ある意味見慣れた派手な色のシャツがあった。

(あいつ・・・)

 涼介はエリカのカットソーを手に持っていた。

 結局涼介はその積まれた衣類の中からエリカのカラフルなパンツや化粧品を数点見つけていた。

(“このパンツ好きだったよね^^”か・・・)

 酔いも手伝い、涼介は小さく丸められた白い綿のパンツにだらしない笑顔を浮かべ、挟み込まれてあったメモを読んでいた。

(・・・・・)

 涼介は先週の土曜日、別れたくないと明るく言ったエリカとの時間を思い出していた。そして小倉を離れる前迄の日曜日を思い出していた。






     △






 日曜の昼、身支度を整えた涼介は3年間住んだ部屋を見渡していた。未だ養生されていないテーブルやチェストの周りに雑然と積まれたダンボール箱がフロアを占領していた。涼介は暫く主が居なくなる部屋の空気に触れながら、やはり人の営みが途絶える部屋はこんなに冷たく乾いたものになるのかと少し哀愁を感じていた。

 北九州空港は海の上に在った。空港建設と同時に整備された橋梁や周辺の道路は、そこだけ切り取れば東京や横浜の臨海都市に引けを取らない景色があった。

 涼介は空港に向かう途中、タクシーの窓越しに見える街並みを眺めながら“絶対に送って行きます”と言っていた岡部に電話を掛けていた。

 横浜での業務予定が急遽変更になり、午前中の便に乗って既に羽田から横浜へ向かっているという涼介の嘘を岡部は優しく叱っていた。


(思ったより少ないな・・・)

 搭乗手続きを済ませた涼介は閑散とした北九州空港のアトリウムを見渡しながら待合室に向かっていた。

(?・・・)

 涼介の視線は見慣れたシルエットに向けられていた。そしてそのシルエットは出発ゲートの前で誰かを待っているかの様な動きを見せていた。

(ふっ・・・)

 肩先で緩く内側に捲かれたブラウンの髪が揺れていた。近づくに連れ、少し不安そうな表情も見て取れた。

(・・・・・)

 エリカが見送りに来てくれているとは思ってもいなかった涼介は、誰にも悟られない様に微笑みを浮かべた。

「!!・・・」

 エリカは近付いて来る涼介を見付け、嬉しそうな笑顔を溢していた。

 

 涼介はクールな雰囲気を態と醸し、ゆっくりと歩いていた。

 エリカはいつもの気障な涼介の姿に駆け寄りたい衝動を覚えていたが、その場所で待っていた。


「えへっ」

 背中で両腕を組んでいたエリカの体は上目遣いで少し揺れていた。

「仕事は?」

 エリカの爽やかな笑顔に、涼介は自分らしく居られた二人の蜜月を思い出していた。

「具合が悪いって早退しちゃった」

「日曜忙しいのにまた文句言われるぞ」

「大丈夫、慣れてる」

 エリカは更に爽やかな笑顔を涼介に向けた。

「・・・・・」

「どうしたの?」

 穏やかに笑ったまま何も喋らない涼介にそう聞いた。

「いや、思い出してたんだよ・・・俺はエリの素直さや純粋さに沢山救われてたんだなって」

「へへー・・・」

 エリカは照れていた。

「ドラマの主役充分張れるな」

 涼介は少し茶化した。

「えーそんな事考えた事無いし張れる訳ないじゃん・・・あっ!分かった!それなら涼介っていう脇役が最高だったんだよきっと!」

「ふっ・・・強請っても今日はプレゼント無いぞ」

「残念」

 エリカも涼介と同じ様に、涼介と蜜月だった日々を思い出していた。

 アトリウムは静かだった。

 搭乗開始迄には充分時間があった。

「有難う」

 涼介は丁寧に気持ちを伝えた。

「ううん、私が会いたかったんだもん・・・それに昨日泣いちゃったし」

 エリカは照れ笑いを浮かべていた。

 涼介は愛おしさを募らせていた。

「本当に有難う。俺はあなたから色んなものを教えて貰った。感謝してる」

「そんな事言わないで・・・感謝してるのは私の方なんだから・・・だって、一杯一杯色んな事やってくれて・・・一杯一杯色んなもの貰ったもん・・・」

 エリカは今まで垣間見る事が無かった、愛情が織り成す造詣の深さを感じさせてくれた涼介に感謝していた。

「ぬるい男でごめんな」

「そんな事無い・・・楽しかった・・・」

「有難う・・・じゃあ・・・行くから」

「うん・・・」

「車の運転、あまり無茶すんなよ」

「・・・了解」

 泣かないと決めていたエリカの瞳には涙が溢れていた。

「じゃあな」

 涼介はそう言って右手を差し出した。

「・・・じゃあな、涼介」

 エリカは少し強がった顔で“ためぐち”を利き、涼介の右腕に思い切り包まった。

「今日は泣かないんじゃなかったのか?」

「あはっ・・・行かせたくないって思ってたら泣いちゃった」

 エリカは涼介のスーツで涙を拭きながら、笑った。


「ねっ!」

 エリカはゲートに向って歩き始めていた涼介を止めた。

「・・・・・」

 涼介は振り向いた。

「・・・ねっ!・・・」

「・・・・・」

 ゆっくりと涼介はエリカの下へ戻って来た。

「やっぱ内緒」

「・・・了解・・・じゃあな・・・」

「ねっ・・・最後にもう一度ゼノンの逆説教えて」

 エリカはゆっくりと後ずさりながら踵を返そうとした涼介にそう言った。

「エリ・・・」

「キスぐらい出来るんだから・・・」

「・・・・・」

「行かせたくない・・・」

 エリカの消え入る様な声が涼介の心に届いていた。

 力一杯涼介に抱き付いていた。

 ゲートに入ろうとしている人達は二人に遠慮する様に歩いていた。

 アトリウムは静かだった。

 二人の居る場所にだけ、更なる静寂が訪れていた。

「・・・な、キスは出来るだろ?」

「ばか・・・」

「・・・有難う」

「じゃあね・・・」

 エリカは潤んだ瞳のまま笑顔を見せた。

「・・・・・」

 涼介はエリカのその表情に一つ笑みを残し、静かに踵を返した。

「ねっ!」

「・・・・・」

「今度こっち帰って来た時エッチしよっ!」






     △






「ほんとあのクソ不動産屋いつも無理な事ばっかり言いやがって!」

「そんな事言わないの」

「どうせ何でもやるんだろぐらい思ってるのが嫌なんですよ。たかがA4折込み3万部ぐらいで」

「鎌田君」

 マキは言葉を置く様に名前を呼び、窘めた。

「広告の事何も分かってないくせに!」

「だから無理言うのよ」

 マキは助手席の鎌田を見ながら、打ち合わせの席で自分も感じていた苛立ちも一緒に諭すかの様にそう言い、スモールランプを点けた。

 薄暮から夕闇へ変わろうとする国道16号は上下線共渋滞していた。

 3月30日、クライアントとの広告最終チェックが終わり会社へ戻る二人の間には疲労感が漂っていた。


「まだ苛付いてる?」

 マキは頃合いを計っていた。

「いえ、もうそうでも・・・この渋滞の方が苛付きますよね」

 暫く車内に会話が無かった分、鎌田は落ち着きを取り戻していた。

「・・・あのね、私が偉そうに言う事じゃないんだけどね、小さな仕事でも同じ仕事だし、丁寧にやんなきゃ駄目なのよ。媚びるとかじゃなくてさ。世間って意外と狭いし、クライアント同士が何処でどう繋がってるか分からないし、印象悪くして変な噂流されたら大きなコンペで勝てなくなっちゃうしね」

「・・・打ち合わせの時の僕が雑で荒かったって事ですか?」

「そうね・・・現場に因って態度が違う事多いと思うよ」

 部下への忠告として、マキは丁寧にそう言い切った。

「・・・・・」

 鎌田は正面を見たまま黙っていた。

「ほら、昔誰か言ってなかったっけ?小さい仕事程慎重にやれって」

「聞いた事ありますけど、その話、あの不動産屋には当て嵌まらないですよ」

「そう?」

「きっとまた制作費値切って来ますよ。今日もマネージャーが席外してる時“お宅んとこ、時間掛ける割には仕事が粗いよね”とか“次も頼むから色々宜しくね”みたいな事俺に言いましたもん。こいつめっちゃネタ振ってやがるって。ああいう会社は叩けるだけ安く叩いて当然ぐらい思ってるし、気を使ってやるだけ無駄ですよ、なめられるだけですもん」

「そうね・・・でもだからってそれを態度に出しちゃ駄目だわ。対話や交渉は鏡に映る自分とやってるって思わなきゃ。鎌田君が向こうの理不尽に食いついたら思う壷だし、こんな時はこうするみたいな自分への約束事、幾つか作っとかなきゃ」

「・・・・・」

 鎌田は黙って聞いていた。

「やりたくなかったり気が乗らなかったりって私だってあるもの。だからそんな時にはね、いつも客観、客観って自分に言い聞かせてるの」

「・・・・・」

 鎌田は自分の考え方や思いを口にするかどうか迷っていた。

「・・・あれ?鎌田君ってこの辺に住んでなかったっけ?」

 マキは鎌田のプライベートに話題の矛先を変えた。

「そうです」

 鎌田はマキの機転にすぐ答えた。

「この辺りも何だか物凄く変わったよね」

「そうですね」

 車は阪東橋交差点で信号待ちをしていた。

 通り沿いに林立するビルの輪郭は、既に闇に混ざっていた。

「・・・状況判断得意なんだからいつもそれをやれば良いだけなんじゃない?それに鎌田君はいずれ人の上に立たなきゃいけないんだから」

 ハンドルを握るマキの横顔は穏やかに笑っていた。

 鎌田はマキの声がいつものトーンに戻っている事に気が付いていた。

 疲労感の漂っていた車内の空気は変わり始めていた。

「そうね、北横浜不動産の人って、私達の仕事、素材を切り貼りしてるぐらいにしか思ってなさそうよね・・・」

「ほんとあの担当ムカ付く」

「ムカ付くよね・・・でもさ、そういうの全部含めて営業の仕事だって割り切って頑張ろうよ」

「・・・はい」

「よしっ!」

 笑顔のマキは前を見たまま鎌田の肩を叩いた。

 車は関内駅の高架を潜り、尾上町交差点の右折レーンに入ろうとしていた。

「・・・適正な利益は守るから。私だってなめられたくないしさ。利益削るのが当たり前みたいになっちゃうと、結果的に大きな仕事とか良いクライアントが離れて行っちゃうし」

「そうですよね。分かりました」

「ね、いつも言わせて貰ってるけど、センス、バランス、タイミングよ」

「・・・それと客観、洞察、分析ですよね。なかなか難しいですけど」

 鎌田は納得と反省の意思をマキが仕事の折々で口にする言葉で伝えた。

「北横浜不動産とはセンスが合わないだけなのよ」

「ははっ、そうなんですかね」

「そうよ、丁寧だけど実はこっちが主導権握ってるから腰が低いだけで媚売ってるんじゃないわよ的なバランス出して行こ」

 マキはバラエティ番組で芸人がやっていた喋り方を真似た後、少しドヤ顔を鎌田に向けた。

「ははっ、分かるけど分かり難いですよ」

 鎌田はマキのセンスに食い付いていた。

 車は尾上町の交差点を右折していた。

 正面には横浜スタジアムが見えていた。

「いいじゃん、そんな感じだって事よ」

 マキは笑顔でそう言った後、会社の在るビルの地下駐車場に入る為に左ウインカーを点滅させ減速した。


「北横浜不動産、折込み前にかなり値切って来ますよ」

「分かってるわ。タイミングを計って、毅然と断って、次の仕事も毅然と断る」

 車を降りた二人はエレベーターに向かっていた。

「私だって不毛な値引き交渉は趣味に合わないし、私達の仕事で薄利多売って結局は会社の利益も評判も落とすもの」

「分かりました。大いに分かりました。ちょっとマネージャーの事誤解してました。すみません」

「・・・・・」

 マキは笑っていた。

「でもあの担当、ほんと俺の事なめてるんですよね」

「いいじゃない、不毛な交渉しか出来ない人になめられても痛くも痒くも無いでしょ?」

「はい・・・ははっ、そう言えばあの担当、髪も不毛ですよね」

「ははっ・・・ね、今夜飲み行こっか!」

「もう全然OKっすよ」

「あ、駄目だ。今夜デザイナーさん達結構な残業になるかも」

「そっか・・・」

「入稿明日の2時迄だよね?」

「そうです。それでギリです」

「私達も手伝わなきゃ」






     △






(鎌田龍之介か・・・大丈夫だと思うけどな・・・)

 マキはメモ代わりに走り書きをしていた名刺に印刷された名前を見た後、電話応対をしている鎌田を見ていた。


 今年の12月、32歳を迎える山崎マキはオーセンティック・アドバタイズメント・デザインという広告代理店の横浜支社に勤務していた。大学卒業後の6年間は南青山に在る本社勤務だったが3年前の6月、クリエイティブマネージャーとして横浜支社に転勤していた。

 鎌田龍之介は30歳だった。大学卒業後、個人事務所の様な広告代理店で働いていたが、数年前から志のベクトルが違う会社にけじめをつけたいと考えていた。そんな折の昨年9月、オーセンティック・アドバタイズメント・デザインの業務拡張に因る人材募集を知り、2ヶ月に及んだ採用試験を突破して横浜支社に配属されていた。


(自分を信じなきゃ・・・)

 書類整理をしながらマキは考えていた。

 マキは以前から自分の会社の評判に少しやっかみの様な感情が入っている事が気になっていた。堅実で良質な仕事を継続する事で上がる評価と増える新規の依頼は、ともすれば全てに於いて曖昧が美しい慣習であり、仕事の様式なのではとしている業界体質から考えれば異端に近かった。

 異端はスポイルされる事が多かった。ある種褒め殺しの様な状態ならまだしも、連帯されて正面から潰される事もあった。

 どの業界でもそういう部分は有るが、特に広告業界はクライアントを他社から奪う為の水面下の策略に神経を使っていた。それ故、社員の些細なミスで着々と進めていた規模の大きいプロジェクトが突然反故にされる事もあった。

 入社して半年余り、鎌田は高いモチベーションを維持し続け、自信に満ち溢れ、自分ならどんなに複雑で大きな仕事でも結果を出せると信じていた。マキはそんな鎌田が醸す対人折衝の際の態度に、いつかクライアントを傲慢に捩じ伏せ、軋轢を生み、トラブルを起こしてしまう危険があると考えていた。

 マキは鎌田が持つ力量を活かし、些細な事で足を掬われない様にサポートするには女性である自分がどんな言動をすればいいのかを考えていた。


「マネージャー、長谷川物産の山崎さんからお電話です」

「はい・・・ごめん、ちょっと保留しといて」

 マキは対面に座る鎌田の声に考えを区切り、発せられた言葉に昨日の出来事を思い起こし始めた。


「もしもし・・・どうしたのよ久美子、昨日」

 マキは頭を切り替えた。

「・・・寝てた!?・・・寝てたってどーゆう事?・・・忘れてた!?」

 マキの頭の中は完全にプライベートに切り替わっていた。

「お店予約してあったんだから・・・馬車道よ・・・そうよ、結構どころか高級な割烹よ」

 マキは視界に入っている鎌田を気にしながら感情を抑えて喋っていた。

「おなたのお陰で松下チーフと二時間近く飲んだんだから・・・そうよ、だから謝ってばっかりよ」

「・・・誰ってウチの優秀なデザイナーよ・・・格好良いに決まってんじゃない・・・だって当たり前じゃない、親戚になる可能性あんのよ、変な人紹介出来る訳無いじゃない」

 マキは更に声も抑えた。

「何で携帯に電話しないのよ・・・え?・・・そう・・・そうなんだ・・・」

「・・・・・」

 鎌田はマキの方を時折り見ながら仕事をしていた。

「・・・もう二度と紹介しないからね・・・うん・・・分かった分かった・・・じゃあね」

 電話を切ったマキは、少しの間二人の下に訪れるだろう沈黙を嫌い、直ぐに鎌田を見た。

「マネージャー、久美子久美子って言ってましたけど仲良いんですか?それとも親戚の方とか?」

 鎌田は自分から切り出す前にきっかけをくれたマキにそう聞いた。

「妹なのよ」

「えっ!マネージャー妹さん居らっしゃったんですか?」

「居るのよ」

「へぇーそうだったんですね」

「そうなのよ」

 長谷川物産は真砂町に在った。オーセンティック・アドバタイズメント・デザインは尾上町に在り、二つの会社は尾上通りを挟んで1ブロックの所に位置していた。その利便性故両社は以前から一緒に仕事をする事で調整を続けていたが、それぞれに取り巻く関連業者の状況をクリア出来ないまま保留状態が続いていた。結果的に取引は久美子が本社勤務になった後から始まり、課での初仕事として久美子が東奔西走した事は事実だが、取引開始最大の要因は3年前横浜支社に転勤になり長谷川物産との仕事を絶対に決めたいとするマキの尽力が全てだった。

「いやあ、全然気付きませんでしたよ。結構顔出してるのにマネージャーそんな事一言も言わないから」

「別に隠してた訳じゃないのよ、そんなタイミングが無かったの」

「で、何処の部署で働いてるんですか?」

「えっとねぇ、レストラン事業部の店舗管理1課だったかな」

「へぇー」

 鎌田は久美子の存在に興味を示していた。

「ほら、販促の打ち合わせって企画開発部とするじゃない。だから向こうに行っても会わないしね」

「でも店舗管理課の人とも何度か打ち合わせやりませんでしたっけ?」

「その時は課が違ったんじゃない?・・・あっ!あるある、思い出した!鎌田君と何度か会ってるよ」

「えっ!・・・て事は、こんな髪をしてて、黒いセルの・・・こんな眼鏡掛けてた人ですか?」

 初めて会った時の久美子に好印象を持っていた鎌田は、その時の事を思い出しながらゼスチャーを交え、興味の赴くまま想像を重ねていた。

「そうそう。あれ伊達眼鏡なんだけどね」

「へぇー」

「それでね、長谷川物産の戦略企画室に新しい室長が来るんだって。着任挨拶に来るらしいよ。まだ正式じゃないらしいけど今の所4月の12日の予定だって」

 マキは久美子の話題を一先ず区切り、会社に掛かって来た電話の理由を鎌田に伝えた。

「そうなんですか・・・でもそうなら、こっちが先に挨拶行った方がいいんじゃないですか?」

「そうね。それは考えてる。着任早々は忙しいだろうし、どんなタイミングがいいかなって」

「なるほど」

「ウチの会社、長谷川物産との取引き多いし大切なクライアントじゃない。だから久美子の事前情報って結構色々助かってるの」

「そっか・・・って事は、最終プレゼンの時には必ず居るって事ですね」

「そうなのよ・・・堅物の脂っこい人じゃなきゃいいけどね」

「ははっ、それ、前の室長ディスってますよ」

「へへっ」

「・・・一つ聞いていいですか?」

今度は鎌田が話題を切り替えた。

「何?」

「マネージャーがたまに言ってくれるセンス、バランス、タイミングっていつ頃意識し始めたんですか?」

「えっ?あ、どうしたのよ突然」

「いえ、ずっと思ってたんですけどマネージャーって僕が考えてた女性の上司像と全然違うんですよね、柔らかいし懐深いし」

「ほんとどうしたのよ、そんな事」

「で、どうなんですか?」

「・・・若い時にある人から時々言われてたのよ」

「上司からですか?」

「違うの」

「・・・・・」

 鎌田はその否定の先にあるマキの話を待っていた。

「その時はあんまり理解出来なかったんだけど、今はもの凄く役立ってる。だからいつか鎌田君にも役立てて欲しいと思って」

「なるほど」

 鎌田は更に待ち、マキという上司の内面を探ろうとした。

「・・・その人、最良と最悪の結果を両方準備出来る人は必ず負けないみたいな事も言ってた。最後は人だからなって・・・その言葉、今は分かる気がするのよね」

「マネージャー、その人と今も会ったりしてるんですか?」

「ううん、今は疎遠になっちゃってる・・・会いたいんだけどね」

「その人にも興味ありますよね。ひょっとして昔の彼氏さんですか?」

「にもって・・・久美子に興味あるの?」

「だって、松下チーフに紹介する訳ですから彼氏居ないんですよね?」

「別れたばっかみたい」

「聞こえてましたよ」

「ははっ、そうなの?」

「でも僕はすっぽかされたくないな・・・で、彼氏さんだったんですか?」

「えっ!?あー、そうね・・・古い話よ・・・本当はね、私そんな強くないの、相談される側に見えるらしけど違うの」

「・・・・・」

「・・・その人にずっと支えられてたのよね・・・気付かなかったけど・・・強がっちゃってたし・・・ま、いいじゃない、色々あったのよ」

「今も好きなんですね」

「ははっ、そんな事ないわよっ・・・うわっ、もう7時半じゃない。修正手伝に行くわよっ」






     △






(始まるな・・・)

 涼介は6階の窓から根岸線を往来する電車を見下ろしていた。

 真砂町に在る8階建て自社ビルの関内駅側に面した個室が涼介の新しい仕事場だった。今年の春に35歳になったばかりの佐久間涼介は、4月1日より長谷川物産戦略企画室室長として人生を新たに構築する機会を与えられていた。


 戦略企画室は経営企画室と並び長谷川物産グループの現場に於ける2トップとして社員に認知されていた。経営企画室は主に会社の資産管理を担い、不動産や物流、経理、総務などを統括し、戦略企画室は文字通り会社の発展や運営を担う企画開発、百貨店事業やレストラン事業を統括していた。

 3年前、企画開発部課長代理として北九州支店に着任して以来、ファミリータイプのレストランである魚町店の経営を建て直し、大手町に新規オープンするレストランのコンセプトに懐疑的だった上層部を論理的に説得し、高級イタリアンとして軌道に乗せていた涼介は経営陣からその手腕を高く評価されていた。各店舗の店長や取引相手からも、その風貌とは一線を画する人柄に好感を抱かれていた。経営陣はそんな涼介の柔軟な姿勢や仕事の緻密さに、若き管理職として会社を発展させて欲しいと考えていた。

 涼介が北九州支店に転勤となった理由は3つあった。本社企画開発部で頭角を現し始めた涼介の力量を経営陣が試したかったのはもちろんだが、小倉が涼介の地元だった事や高齢だった前任の癒着や横領疑惑もその人事に影響していた。

 本社に戻った理由も3つあった。北九州支店と同様、前任の戦略企画室室長が抱えていた背任行為が年度末に発覚し、経営陣は対外的にその対処と処遇に迅速を求められていた。同時に以前から管理職の若返りを図り、会社の体質改善に貢献出来る人材を探していた。3つ目は涼介が北九州支店に転勤した年から2年続けて本社復帰要望書、自身の営業哲学を記した稟議書、社員の目から見た会社運営に関する意見書を上層部に提出していた事が人事を後押ししていた。エリカと出会い、その情熱を封印して小倉に骨を埋める覚悟を決めた翌年の春、経営陣は涼介を適任と判断していた。

 経営陣は年功序列や実力至上主義一辺倒ではなく、会社の体質改善に躊躇なく切り込める柵の無い客観性や顧客や社員への柔軟な対応、女性の感覚をバランス良く活用出来る人材を求め涼介に白羽の矢を立てていた。何れにしても経営陣の考え方や決断が果敢である事に間違いは無く、涼介に託された肩書きが異例の抜擢であり特進である事も間違いでは無かった。






     △






(始まるな・・・)

 4月1日の朝、久美子は化粧室で手を洗いながら鏡に映る自分を見ながら、2年前の同じ日、大勢の社員の前で挨拶をした時の事を思い出していた。


 27歳の半ばを過ぎ様としている山崎久美子は入社6年目だった。入社後は1ヶ月の本社研修を経て山下町に在るイタリアレストランに4年間勤務し、その後レストラン事業部に欠員が出た事を受けて店舗管理1課に配属されていた。


 久美子と涼介は3年の間、いつ何処で会ってもおかしくない状況下で仕事をしていた。しかしレストラン勤務だった久美子と本社内勤務の涼介との生活動線に接点は無く、役職では無い久美子が本社の行事に顔を出す事も無く、二人の記憶にはそれぞれの名前が無いまま現在を迎えていた。






     △






 2Fの大会議室には本社勤務の社員全員と本社管轄の各店舗や倉庫勤務の管理職が集合し、雛壇を含めると90名程の従業員が椅子に座り朝礼の始まりを待っていた。

久美子は横に10席ずつ並んだ椅子の4列目中央辺りに座っていた。

室内にはまだ雑談が続いていた。

(早く終わんないかな・・・)

 社長を始め、取締役の話や新たな顔ぶれが一人一人抱負を語る流れが1時間近く掛かるだろう事に、久美子は俯き加減にそう思っていた。

 涼介は新たに本社に配属された2名と部署が変わる5名の社員、今年度入社した新人10名と共に壇上の椅子に座っていた。

 雑談は続いていた。

 大会議室は社長の到着を待っていた。


 朝礼は社長の挨拶を皮切りに粛々と進んでいた。司会を務める総務課長の人間味溢れる進行が会場の空気に和みを与えていた。社員は程々に飽きもせず、新たな顔ぶれの挨拶を聞いていた。

(戦企の室長ってどの人だろう・・・)

 久美子は徐に顔を上げ、少しだけ鋭い視線を壇上に投げた。

 式次第は新人や異動する社員の挨拶を経て終盤を迎え、後は3名の管理職の紹介と挨拶が残るだけとなっていた。

(見えないなぁ・・・)

 雛壇に座る2名の管理職の姿は久美子の位置からでは演台に邪魔をされ見えなかった。

(・・・・・)

 久美子は隣に座る同僚に重なる程身体をずらし、見えない2人を見ようとしてた。


 挨拶の終わった管理職の一人が演台から離れた。残された挨拶は戦略企画室の新しい室長だけだった。

(・・・・・)

 久美子は誰も居ない演台に視線を固めていた。

「それでは最後に戦略企画室室長を紹介しますが、その前に社長、何か一言御座いますか?」

 司会役の総務課長の声は良く通り、その進行にも時折り計らいやアドリブを加えていた。

 社長は満を持した様な笑顔で立ち上がった。

(・・・・・)

 久美子は予期せぬ社長の再登場に固めていた視線を解き、無い物を強請る子供の様にまた身体をずらし始めた。

「今日は長い時間皆御苦労さん。最後の紹介になるが旧知の諸君も居るんじゃないかな?北九州支店で3年勤めて今年度本社に戻って来た優秀な人材だ。まだ独身らしいぞ・・・なあ佐久間君、彼女は居るのかね・・・まあ、戦略企画室の室長として今日から皆と一緒に働く事になるが、その前に戦略企画室の諸君には二ヶ月近く室長不在で迷惑を掛けて申し訳なかった。今日から新しい室長の下で頑張って欲しい。それでは佐久間室長、挨拶を宜しく」

 社長はにこやかに冗談を一度涼介に向け、涼介は笑顔で恐縮し、室内に緩和を齎した後、涼介を演台へ誘った。


「佐久間涼介です。宜しくお願いします。」

 涼介の第一声は簡単で柔らかく丁寧だった。

「・・・・・」

 久美子は凝視し続けていた。

「飯田部長、お久し振りです」

 涼介は最前列に座っていた同期の飯田と目が合った事を期に、そうアドリブを加え会議室の空気を更に和やかなものにした。

「・・・・・」

 久美子は雷に打たれていた。一人の男性が放つ、全てを焦がす様な得体の知れない強い力に身体を縛られ、胸を締め付けられ、呼吸を止められていた。

「・・・・・」

 久美子は挨拶を続ける涼介を強烈に見続け、その瞳で涼介の姿を脳裏に焼き付け続けていた。

 久美子は一瞬にして恋に落ちていた。

 想像を遥かに越えた一目惚れだった。

「・・・それでは皆さん、お手柔らかにお願いします」

 涼介は挨拶をそう括った。

 室内には拍手の音が響いていた。

 久美子は微動だに出来なかった。

「・・・・・」

 久美子は一目惚れとはこういう胸の痛みを指すのかと思いながら、涼介の姿を全身に取り込み続けていた。

 久美子の恋心は過去に感じた事の無い、無意識に湧き上がる制御の効かない情熱に突き動かされるかの様に胎動し始めていた。その感覚は11年前、元町店でマキの姿を初めて見た時に涼介を射抜いた衝撃と同じ情熱だった。






     △






「うわっ!」

 マキは開けた玄関が外から思い切り引っ張られた事に驚いた。

「ねぇ!聞いてよっ!」

 勢いでよろめいたマキに久美子はそう叫んだ。

「ねねっ、聞いて聞いてっ!」

「どうしたのよいきなり・・・何か良い事でもあったの?」

 久美子は玄関にマキを置いたままリビングに向い、マキはゆっくりと戻って来た。

「あったの!・・・てか、そんなエプロンしちゃって姉さんこそどうしたのよ」

「あ、これ?和明さんが買って来てくれたのよ、似合うからって」

「似合うからって、エプロンなんか付ける人じゃないくせに」

「そうなんだけどさぁ」

「ラブラブなのねっ」

 上着を投げ、ソファに深く身体を沈めた久美子は楽しそうだった。

「何言ってんの、そんなんじゃないわよ・・・てかね、もう直ぐ来るのよ」

「えっ!?そうなの?聞いて無いよ」

「言ってないもん」

 マキは久美子が投げた上着をハンガーに掛けていた。

「えー折角話聞いて貰おうと思ってたのに」

「いいじゃない和明さん居ても。三人で食べようよ」

「・・・良い匂いしてるね。何作ってたの?」

 久美子はマキの話を横に置いたままキッチンへ歩き、そう聞いた。

「メインはね、トマトとバジルのフェットチーネ」

「ははっ、それってこの前ウチのレストランでレシピ教えてあげたやつじゃない?」

 食材を手に取りながら久美子は笑っていた。

「いいじゃない、だって美味しかったんだもん・・・ね、先に一杯飲もっか」

 歩み寄って来たマキは寸胴に掛けた火を止め、冷蔵庫に手を伸ばした。


 二人はリビングのソファに座っていた。

 マキは取り敢えず作り掛けの惣菜をテーブルに並べていた。

「姉さん黒ビール好きね」

 久美子は出された瓶のスタウトをマキのグラスに注いでいた。

「だって美味しいじゃない・・・一杯目はこれが一番なのよ・・・じゃ乾杯」

 マキはそう言って、久美子が自分のグラスに注ぎ終わるのを待たずに半分ぐらいを一気に飲んだ。


「やっぱり遠慮しとく」

 二人の間に暫く続いた世間話の後、久美子はそう言った。

 今日の午後、久美子はマキに今夜一緒に食事をしようとメールをしていた。マキはその誘いには即答せず、暫くして自宅で御飯を作るからと折り返していた。

「駄目よ、三人分作ってるんだから」

「んー止めとく。ラブラブの邪魔したくないもん」

「どうしたの?いつもそんな遠慮なんかしなくせに」

「へへっ、悪いじゃんやっぱり・・・恋って素敵だもんねっ」

「本当にどうしちゃったのよ・・・それより話って何なの?良い男に告白でもされたの?」

「へへっ」

「・・・されたの?」

 マキは少し身を乗り出した。

「今夜話すの、もう止めようと思ったんだけど・・・結婚相手見つけたの!」

「えっ!?じゃやっぱり告白されたんじゃない!」

「違う!物凄い一目惚れしちゃったの!」

 過去に見た事がない様な笑顔を見せた久美子にマキは驚いていた。

「・・・で、どんな人よ」

「姉さんビールがない」

「・・・・・」

 簡単に男性を好きにならない、どちらかと言えば気の多い久美子のはしゃいでいる姿に強く興味を持ったマキは、冷静に話を聞き出す為に立ち上がった。

「・・・で、どんな人?」

 冷蔵庫から持って来た黒ビールをテーブルの上に置き、マキは聞いた。

「新しい上司」

「新しい上司って、あなたの部にそんな格好良い上司が来たの?」

 マキは久美子のグラスに黒ビールを注ぎながらそう言った。

「違う!この前電話で話した人」

「電話で話した人って・・・戦略企画室の室長?」

 マキは更に驚いた。

「そうなの!・・・今朝ね、朝礼で見た時にね、ガーンッ!!って来たの!」

 久美子は喜んでいた。

「へぇー」

「もうね、全部がタイプ!」

「ふぅーん」

「室長だろうが何だろうが関係ない感じ」

「・・・・・」

「初めてだったの、あんな感覚・・・これが一目惚れかって!」

「・・・・・」

「だから何だか嬉しくて、姉さんに絶対言おうって、絶対聞いて貰おうって!」

「・・・・・」

「めっちゃモチベーション高いんだから!早く一緒に仕事したいしさ!」

「・・・室長でしょ?一緒に仕事する事って無いんじゃないの?」

 ずっと黙って聞いていたマキは、努めて冷静にそう話を切り出した。

「有るよ!無きゃ作るっ!」

 久美子は二杯目の黒ビールを飲み干すと同時にそう言った。

「あなたがそんなになるなんて相当なのね」

「何だか分かんないけど予感がするの。ほら、姉さん昔言ってたじゃない、大学生の時に物凄い出逢いがあったって。あの話理解出来るもん、今」

「そう・・・」

「ねねっ、姉さん達はいつ結婚するの!?」

「えっ?まだそんなんじゃないわよ」

 急に切り替えられた久美子の質問にマキは少し焦った。

「プロポーズされてないの?」

「いいじゃない私の事は」

「そうなの?でも姉さんもう32歳でしょ?」

「まだ31よ」

「どっちにしてもいい歳なんだから考えた方が良いわよ」

 久美子は惣菜を口に運んびながら冗談ぽく“やれやれ”という顔をしていた。


 山崎マキは今年の12月27日を迎えれば32歳だった。

 大学卒業後マキは南青山の本社でデザイナーとして6年間勤務し、4年目を迎えた横浜支社では営業を統括する管理職として勤務していた。

 本社勤務中、マキは恵比寿に在る会社の寮に住んでいた。転勤が決まり居を移したが、根岸の実家ではなく山下町のみなとみらい線元町中華街駅を眼下に出来る場所に1LDKのマンションを借りていた。


「じゃあ松下チーフとの約束は丁重に断るわよ」

 マキは三杯目を自分のグラスに注ぎながらそう言った。

「えっ?何で?食事行くわよ」

「行くわよって久美子、雷が落ちたみたいな一目惚れなんじゃないの?」

「そうだけど、いいじゃない!」

「いいじゃな・・」

「松下さんって格好良いんでしょ!仕事もデキるんでしょ!」

 久美子はマキの言葉を遮り、そう被せた。

「そうだけど・・・まあいっか。あなたが勝手に惚れてるだけだもんね」

 マキは姉として見て来た久美子が、変わらず久美子たるべき考え方や振る舞いをしている事にある意味ほっとし、納得していた。

「へへっ」

「で、その室長、どんな感じの人?」

「もうね、見た目冷たい感じなの。でも喋ると柔らかいの」

「結婚してるんじゃないの?」

「ううん、紹介する時に社長が独身って言ってた。皆の前で」

「え?それって壇上でって事?」

「そう・・・あの信頼されてる感じもいいのよね・・・この前ね、室長の噂してた時、難しそうとか癖ありそうとか色々聞いたけど、ウチの部長はね、昔一緒に仕事してたらしくて、良い人だから素直に付いて行けば大丈夫だって言ってたのよね」

「へぇー」

「今日見てさ、分かるもん、部長の話」

「・・・名前は何て言うの?」

“♪ピンポーン”

 インターホンが鳴った。

「あ、来た」

 久美子はその音に反応した。

「そうね・・・」

 マキは話を区切り立ち上がった。


「はーい・・・ちょっと待ってね」

 マキは一応インターホンで和明かどうかを確認して玄関に向った。

 二人はタイミングを逃していた。久美子が答え様とした名前と、その名前をマキが聞いた時、二人の間に始まる会話がお互いに取ってどんなに重要で、どんなに今後を左右する事になるかもしれない話をするタイミングを逃していた。


「やあ久美ちゃん、元気?」

 今夜和明はマキと食事に出掛ける筈だったが、午後受信したマキからのメールと電話で予定変更を強引に了解させられていた。

「はい。お久し振りです・・・エプロン可愛いですね」

 久美子はマキが付けてるエプロンを可愛く指差し、茶目っ気を和明に向けた。

「そう?良かった」

「じゃあ姉さん私帰る」

「え?食べて帰んないの?」

「うん・・・結構飲んじゃったし、割とお腹一杯だし、邪魔だし」

 久美子は和明を再度見て悪戯っぽく笑った。

「そんな事ないけど、大切な話とかって、もう終わったの?」

「大切な話?・・・えっと、はい、そうですね」

「・・・そう」

 和明の久美子への笑顔はそのままだった。

「大丈夫なのかい?」

 今度はマキに、少し訝しがる笑顔で聞いた。

「大丈夫よ和明さん、心配いらな・・・」

「それじゃ帰ります。お邪魔しました」

 久美子はマキが喋り終わらない前に、二人に挨拶をした。

「・・・帰り気を付けてね」

「はーい」

「じゃあね」

「・・・・・」

 玄関へ歩き出した久美子にマキはついて行きながら、小声で“ありがとう”と伝えていた。


 祐天寺に住む37歳の藤井和明は輸入自動車のディーラーに勤務し、中目黒に在るショールームを主な仕事場としていた。

 ショールームは都内に4店舗在った。その全ては父親が一代で興していた。一人息子である藤井和明はいずれ会社を引き継ぐ事になっていた。


 マキと半年前に交際を始めていた和明は当然結婚を考えていた。

 和明の会社は販促グッズや広告全般の提案を古くからマキの会社に依頼し、今では強い信頼関係の下で両社は取引していた。本社勤務時代、広告のデザインを担当する事が多かったマキは和明と頻繁に顔を合わせていた。しかし当時はプライベートで親しくなる事は無く、マキの転勤を期に会う事も無くなっていた。

 昨年10月の頭、横浜市内に在るクライアントのレセプションパーティに招かれたマキは、そのパーティで偶然和明と再会し、二人はお互いの心に残っていた当時の印象を美化しながらグラスを傾け合っていた。そしてその印象を運命付ける為に2年半の空白と偶然の再会を上手に利用し、二人は急速に関係を発展させていた。


「ごめん、俺、そんなに好きじゃないんだよ」

 和明は黒ビールを注ごうとしたマキを柔らかく制した。

「そうだったっけ?」

「・・・これで乾杯しようよ」

 和明は自分が持って来た赤ワインをテーブルの上に置いた。

「うん、いいよ」

 笑顔で受け入れたマキは赤ワインがそんなに得意ではなかった。


 久美子が帰った後のリビングは大人の落ち着いた空気が流れていた。

 満足そうな和明をマキは少し微妙な感覚で受け止めていた。

「あれ?これ、マキが持ってたんだね」

 和明はサイドボードの上にあったCDを見つけてそう言った。

「そうなの・・・あの曲、良かったから勝手に持って来ちゃってたの、ごめんね」

「いや全然いいよ・・・そっか、だから何処探しても無かった訳だ」

 マキの自宅は女性の部屋にしては余りにもシンプルだった。シックでモノトーンの色使いがそう感じさせている部分もあるが、生活感の無い空間とはある種違う、本当に必要な物以外は何も無く、4年間も住めばそれなりの雑貨や増えて行くだろう思い出の品物が、何の一つも無い空間に置いてあった一枚のCDは目立っていた。

「好きなんだね、あの歌」

「うん」

 マキは自分の部屋が涼介の趣味に寄っている事にいつの頃からか気付いていた。そして涼介が隣に座っている様な感覚に部屋を寄せている事を、その頃からかほっといていた。

「聞く?」

「いや、いいよ今は」

 マキは今夜久美子が見せていた言動や和明との何でもない会話で涼介を思い出していた。和明と付き合い始めの頃、横浜に向う第三京浜で流れていた曲にマキは涼介を思い出し、こっそりとそのCDを車から持ち出した事を思い出していた。


 マキが作った手料理がテーブルの上を賑わせていた。

 和明は美味しそうに赤ワインを嗜んでいた。

 二人の間には高級レストランでの晩餐の様な空気が流れていた。

「マキ、料理上手いね」

「ありがとう・・・・ね、私やっぱりビールにしていい?」」

 マキは付き合い始めて半年になる二人の関係に足りない何かを感じ、足りているものも何かが違うと感じていた。


「温泉行こうか?」

 片付けを終え、何をするでもなくリビングでXPERIAを弄っていたマキに和明は言った。

「・・・いいね・・・でも休み取れるの?」

「ゴールデンウィークに何日か取れそうなんだ」

「そう」

「箱根かな、やっぱり」

「そうね・・・」

「どうした?何か考え事してる?」

「ううん」

 マキは和明の前で涼介に哀愁を募らせている自分を馬鹿だと思っていた。

「料理上手いよな」

「え?それさっきも言ってたよ」

「そうだったっけ・・・飲む?」

 和明はそう言って赤ワインの入ったグラスを持ち上げた。

「ううん」

「どうした?元気無いよ」

「ちょっと酔っちゃったみたい」

「大丈夫か?」

「・・・うん」

 マキは立ち上がり、ベランダの方へ歩いた。


 少し冷たい海風が優しくマキの身体に触れていた。9Fに在るベランダから見えるマリンタワーのネオンは威圧する様な輝きを眼前で放っていた。遠くにはみなとみらいの夜景や大桟橋に停泊している客船のライトが煌いていた。

「大丈夫かい?」

「ありがと」

 水を持って来てくれた和明が部屋へ戻る背中にマキは微笑を残していた。

(予感か・・・)

 夜景へ体を向き直した後、ベランダのエッジに両肘を付いて頭に残っている久美子の言葉を考え始めていた。

 今夜久美子が言った予感という感覚は、言葉を交わした事も無い涼介に恋をした事に躊躇った当時のマキが、自分に対して最大限譲歩して導き出した一目惚れの言い訳ではなく、これから始まる自分の恋愛が最高の形で実を結ぶと結論付けた前向きな情熱だった。

(涼介、今何処で何やってんだろう・・・)

 マキは久美子の姿を見て昔の自分を思い出し、自分を信じる事に戸惑いや躊躇いなど眼中に無い久美子の恋の始まりを応援したいと思っていた。

(ぬるいのかな、私って・・・)

 ベランダから僅かに見える旧ザ・ホテル横浜の建物をマキは見ながら、今夜の久美子と涼介に初めて逢った時の自分を重ねていた。


 久美子が長谷川物産に入社した時、マキは涼介と再会出来るかもしれないと期待していた。横浜に戻って取引が始まった時も期待していた。しかし本社に勤めている筈なのに姿を探せず名前も聞かない状況に困惑や焦りを感じ、さり気なく探りを入れて探した事もあった。しかしその都度、涼介は既に会社を辞めて何処か知らない街で幸せな家庭を築いているのだろうと思わざるを得ない現実と向き合う事になっていた。

 マキと涼介が別れて以来、お互いのその後など当然知る由も無かった。涼介の北九州への転勤や、涼介がエリカに愛していると誓った同じ日、マキは和明とのデートで予約してあった中華街の店をキャンセルし、微かな期待を込めて“司”に行った事など知る由も無かった。涼介が本社に戻りマキとの再会を願っている事や、マキも事有る毎に涼介に思いを馳せている事など知る由も無かった。

 和明との恋愛を最後にしようと考え始めていた矢先、マキの心は新たな胎動を始めていた。その胎動は涼介を忘れる事が周囲の人や自分の幸せなのだと考える事を改めて否定する動きを見せていた。そして自分が信じる全てを信じ続ける事の滑稽さや惨めさを今後ずっと引き連れて、常識とされるものを見つめ直す方向へ進むべきかどうか迷っていた。


「マキ、電話が鳴ってるよ」

「あ、はい」


 マキが去ったベランダには変わらず冷たい海風が届いていた。






     △






 ダウンライトがキッチンを煌煌と照らしていた。

 テーブルの上ではノートパソコンが鮮やかな光を放っていた。

 ドリップしているコーヒーからは心地良い香りが漂い始めていた。

「・・・もしもし・・・元気か?・・・」

 涼介はリビングに戻りながらXPERIAをスピーカーにして話し掛けていた。







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