~3~
次の日の早朝。
「あーっ! 見つけたニャ!」
「ふぇ?」寝起きのマヌケな声が漏れる。
美月は朝っぱらから珍客を迎えていた。
美月にとってそれはただの偶然だった。
昨晩が不完全燃焼気味に終わったためか、いつもより早くに目を覚ましてしまった美月は、隣でまだスヤスヤと眠る誠の頬を指でぷにぷにその感触を楽しんだ後、なんとはなしにベランダに出た。
普段ならば二度寝を決め込むか、今晩のイタズラはどこで何をしようかと考えを巡らせほくそ笑んでいたりしていた美月にしてみれば、それは完全に気まぐれな行動以外の何ものでもなかった。
猫にとってそれははただの偶然だった。
壊れた墓の周辺に漂っていた微かな〝霊気〟を頼りに墓場を出たはいいものの、その目に映る景色はまったく見覚えの無いものばかり。記憶を無くしていることによる影響だとは思いつつも、まるで異世界にでも迷い込んでしまったのではないかと、猫は背筋に薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
しかし大変なのはそれからだった。
あっちこっちに同じ霊気が漂っていたため、ただでさえ記憶が無いためか土地勘の無い猫は、相手の居場所がまるで特定できずにさ迷い歩き続ける羽目になってしまったのだ。
そして気が付けば三日が過ぎ去っていたその日の早朝。歩き疲れて、ここがどこだかも分からない場所に建つアパートのベランダで休憩を摂っていた猫は、カーテンによって中が窺えない室内からスッと音も無く、しかもそこにある窓をすり抜け現れた一人の少女に目を大きく見開いていた。もちろんその少女が幽霊だと分かり恐怖したわけではない。その少女こそ、猫が散々探し回った霊気の持ち主――墓を壊された元凶だったのだから。
「あーっ! 見つけたニャ!」猫は思わずそう叫んでいた。
「え~と?」お腹をぽりぽり掻きながら、寝ぼけ眼を猫へ向ける。
薄い灰色の毛で覆われた全身に、黒の縞模様が入った毛並み。確か〝サバトラ〟とか云われる類のものだったか。ピンと伸びた形の良い耳に、その目を彩るヘーゼル……。
その珍客はどこをどう見ても〝猫〟……の幽霊だった。そう幽霊。
ただ『普通の』と頭に付くかと問われれば疑問はある。だってどこぞの海賊船船長のように威風堂々と後ろ足で直立し、更には前足で腕組をする猫の幽霊など、美月の知識には無かった。
ましてや人間の言葉を流暢に話すやつなんて。これで赤い長靴でも履いていようものなら、まんま『長靴を履いた猫』である。
美月は寝ぼけた頭も手伝って、困惑した表情を浮かべた。
その猫は数日前、大学生の一人に結果破壊された墓から現れた猫――〝ハナ〟だったが、美月には知り得ようのない話だった。
事態が飲み込めず当惑する美月の前で、そのハナはふんっとひとつ荒い鼻息を漏らすとこう言った。ずびしっと器用に前足人差し指を突きつけながら。
「ここで会ったが百年目ニャ!」
「いやいや」
美月は冷静に手を振った。
「そんな長く死んでないから」
事態が飲み込めなかろうとツッコミは逃さない。それがプロというものだった。何のプロかは知らないが。
「ただのお約束にツッコむニャっ!」
しかしそれがお気に召さなかったのか、ハナはその場で地団駄を踏んだ。
(何なのだろうかこの妙な猫は?)
そう思いながら改めて猫の全身を見遣る。あ、こいつメスなのか。
どうもこいつはわたしに用があるらしい。さっき『見つけた』とか言っていたから人違いじゃない限り間違いないだろう。
いや、それはともかく……。
「そもそもあんた誰?」
「うちは〝ハナ〟ニャ」
「ハナぁ?」
美月は懐疑的な視線を向ける。
それは美月にはまったく聞き覚えのない名前だった。いや、それ以前に猫に限らず〝動物霊〟に、しかも人間の言葉を話すやつに知り合いなどいなかったのだ。
「……誰?」
首を傾げてもう一度同じ問を口にする。
「胸に手を当てれば思い出せるはずニャ」
するとハナはそう即答した。
「はあ……?」
ポカンとした顔でハナの顔をまじまじと見る美月。その表情からは『こいつ何訳の分からないことを言ってるんだろう?』という思いがありありと見て取れた。
しかしハナはそんな美月の表情などどこ吹く風。腰に手を当てこちらを睨むように見詰めてくる。
どうやら思い出せないことには話が進まないらしい。
「まったく……」
めんどくさい奴に捕まったものだと美月はため息を吐いた。
胸に手を当てるくらいで思い出せるなら、生前あんなに苦労はしなかっただろうに。主にテストとかテストとか。
「やれやれ……」と手を胸に当て過去を振り返る。
「って、うちの胸に手を当ててどうするニャっ!」
怒りのキャットクローが一閃した! 効果抜群だ! 美月の左目が輪切りにスライスされた!
「あぁー、なんて酷いことを」ほんの冗談だったのに。
美月の掌の上でびちびち跳ねる小片。さすがはぴっちぴち女子高生の左目だ、鮮度が違う。
「意味が分からんニャ……」
ハナは頭痛を感じて頭を押さえた。
「こんなこともあろうかと……」
ポケットから何かを取り出し左目だった小片どうしをぺたぺた貼り付ける。その手にあったのは『アロンアルファA』だった。
そして『平面』から『玉』へ戻ったそれを摘んで翳し見る。うむっ、我ながら見事な出来栄えだ。
「お父さん!」と呼びかけてみる。返事はなかった。
「…………」
ハナが無言で爪を光らせるのでそそくさと元に戻す。
「とにかく自分のその、うっすい胸に手を当ててみるニャっ」
「薄いとか言うな~っ!」
コンプレックスを突かれた美月は涙目で叫んだ。
「おはよう姉さん。……ん~? ……どうしたの?」
とそこへ背後から足を擦って歩く音と、まだ寝ぼけきった声が届く。美月が振り向くとそこのは、まだ眠いのかトロンとした目元を擦っている誠の姿があった。ゆらゆらと体を左右に揺らしながら美月の下へやって来る。誠はこれで朝に弱いのだった。
「ん、おはよう誠くん」朝からかぁいいなぁ。ナデナデ。
「……ん? ……あ! 猫さんだ!」
そこでようやくその存在に気がついた誠ははしゃいだ声を上げた。
それまでの眠気などどこかに飛んでしまったのだろう。突然現れた誠に警戒心を露わにしているハナの目の前でしゃがみ込むと、その同じく灰色の毛に覆われた顎の下を人差し指で掻くように撫でた。
朝からはしゃぐ誠くんかぁいいかぁいい。ナデナデ。
「でも、あれ?」
美月にいいように撫でまわされていた誠は、そこではたとあることに気付き、小首を傾げると美月を振り返った。
「もしかしてお仲間ですか?」
どうやら今の今まで目の前の猫が自分たちと同じ幽霊であることに気が付いていなかったらしい。
でもそんな鈍い誠くんも……以下略。
「そうだニャ。うちはおまえらと同じ幽霊ニャ」
「わっ!? 猫がしゃべった!」
しかし先にその問いかけに答えたのはハナの方だった。まさか人間の言葉を話すとは思わなかったのだろう、誠は驚愕の表情を浮かべると、美月とハナの顔を交互に見遣った。
「そう、うちはそんじょそこらの猫とは違うのニャ!」
再び腰に手を当て偉そうにふんぞり返るハナ。調子に乗ってタップダンスを披露した。
誠はすごいすごいとこぼれるような笑顔を浮かべ、手放しに褒め称えた。
美月は何だかもやっとしたがひとまず我慢することにした。
「でもそんなすごい猫さんがどうしてここに?」
「うちの名前は〝ハル〟ニャ」
「ハルさんというのですか……あっ、ぼ、僕は誠です!」
自己紹介がまだだったことに思い至った誠は、慌てたように自分の名を告げぺこりと頭を下げる。
ハルはそんな誠の姿に微笑ましいものを見たように相好を崩し……と同時にその心には、憐憫の影が差していた。
(こんな年端も行かニャい子供が……)
幽霊の姿は亡くなった時の年齢が反映される。それはこの目の前の少年の『人生』が如何に短いものであったかを如実に表していた。
(そりゃ〝未練〟のひとつも残すよニャ……)
幽霊とは、死を迎え肉体から抜けだした〝魂〟が〝未練〟によって『この世』に縛られ、『あの世』へ行くことが叶わなかった者達の成れの果てである。
誠も幽霊である以上、某かの未練をこの世へ残して亡くなったということだろう。
そのことを考えると、ハナは妙に胸が絞め付けられる思いがした。
自分とはまったく異なる種族――人間の子供のことだというのになぜ……失った記憶に何か関係があるのかも知れなかったが、今のハナにはその理由が判らなかった。
「あ、あの~……」
その声にハナは、自分がぼんやり思考を彷徨わせていたことに気付き、はたと我に返る。どうやらぼんやりしている間に、誠のことをじっと見つめつ続けていたらしい。
誠は頬を左の人差し指で掻きながら、困った顔を浮かべていた。
「……どうかしたんですか?」
「別にニャんでもニャいにゃ。……うちがなぜここに来たかという話だったかニャ?」
「はい、……そうです」
別に何でもない、という感じには思えなかったが、とはいえここで根掘り葉掘り問いただすまでのことでもないかと、誠はそう返事をすると軽く頷いた。
「それはだニャ――」
「伝説の、三味線っ、職人を探しているそうだよ」
ハナの言葉尻を弾くように突然割って入ると、美月はそう説明した。『三味線』の部分に悪意が視えた。
「言ってニャいよっ!? 誰もそんなこと言ってニャいよっ!?」
ハナは全力で否定した。
否定してから震える小さな声で『ほんとにそんニャ職人がいるのかニャ?』と訊いた。
「「うん」」
同時に頷く美月と誠にハナはぷるぷる震えだした。
「で、結局わたしが何をしたって?」
ほどなくして、誠に背中を撫でられ落ち着いたハナに、美月はあからさまに億劫な声でそう訊いた。
「姉さんまた何かやらかしたんですか?」
「『また』ってそんな人聞きの悪い」
わたしがいったい何をしたと? という視線を誠に向ける美月。誠はそれを受けて、あはは、何言ってるんですか? という視線を返した。その目は少しも笑っていなかった。
美月は半泣きになった。
そんな遣り取りが一秒にも満たない間に交わされていたことなど露とも知らず、ハナは恥ずかしい所を見られたとバツの悪い顔でうぅ~……とひとつ小さく唸ると、さすがにここで改めて自分で思いだせとは言えなかったのか、ぶっきらぼうにポツリと一言こう言った。
「うちは記憶喪失にゃ」
「――っ!?」
目を丸くして驚く誠。
「記憶、喪失ぅ?」
美月は質問にそぐわないその回答に訝しげな表情を浮かべた。その顔には、それがわたしとどう関係するというのだ? と書かれてあった。
「うちは自分の名前以外ニャにも憶えていニャいニャ」
「だから、それがわたしとどう関係す――」
「その原因はお前にあるのニャ!」
今度はハナが美月の言葉尻を弾くように、ズビシッ! と器用に人差し指の肉球を突き付けそう言い放った。
「はぁ!? わたしが原因って……どういうことよ?」
「お前が原因で、うちが眠っていた墓が壊されたのニャ」
「そんな……」その言葉がよほどショックだったのか、誠はその可愛らしい顔に信じられないと言わんばかりの驚愕を浮かべる。
お墓を壊した? 美月姉さんが?
そんな馬鹿なっ……。
お墓と言えば死んだ方々にとっての安住の地。絶対不可侵のサンクチュアリじゃないですか。それを汚すだけでも大問題なのに、あまつさえ破壊するなんて!
信じられない! いくらなんでもそんな酷いことを美月姉さんが――、
「いつかやると思ってましたよっ!!」
「まさかの信用度ゼロっ!?」
美月はベランダの床に突っ伏して泣いた。ガン泣きだった。
「……お前、日頃ニャにやってるニャ……」
ハナは呆れた。
「だ、だいたい美月姉さんは日頃の行いが悪すぎるんですよ」
むせび泣く美月の姿に良心が痛みでもしたのだろう、その後頭部を大雑把にだが撫で、その感触に涙と鼻水でぐしゅぐじゅの顔を上げた美月の目の前に自分のハンカチをそっと差し出した。
美月はそれをぐすぐす鼻を鳴らしながら受け取ると、目元を拭い、お約束でちーんと鼻を噛むかどうするか一瞬だけ逡巡し、そのまま自分のポケットへしまった。代わりに反対側のポケットから一枚の丁寧に折りたたまれた布を取り出すと、
「ありがとう。代わりにこれ使って」
そう言って、美月が鼻を噛まなかったことに意外な顔をしていた誠へと手渡した。
「……は、はい」
それを戸惑うように受け取る誠。普段の調子であれば間違いなく鼻を噛んだ上に、その面をこれ見よがしに見せつけるように返してきたであろうシーンで何もしなかった美月の、ついぞ見たことのないその沈んだ表情に、あれ? 本気で落ち込んでる? と逆になんだか自分が悪いことをしてしまったかのような気分に陥っていた。
「…………ん?」
かく筈もない汗を拭うように、無意識に手を額へ持っていった誠だったが、そこでふと違和感を感じて動きを止めた。
「…………」
その手の中にある物を見る。そこにはつい今し方美月から渡された、ブルーのストライプ模様が入ったハンカチ。
……いや、そもそもこれは本当にハンカチなのだろうか?
誠の頭の中を疑念が渦巻いていく。
渡された時は美月の落ち込みように意識が行っていて気が付かなかったが、ハンカチというには何だか生地が薄いような、そもそもの手触りが違うような気がしてならない。
誠はそこで嫌な予感がして、目の前に持ってきたそれを両手で摘んで広げてみた。
両手の間を橋渡すように、ピロ~んと▽みたいな形に広がるソレ。
「…………」
どう見ても『縞パン』だった。
無言で投げつける。
「わぶっ」いつの間にかニタニタといやらしい笑みを浮かべていた美月の顔面に直撃した。
「なんてもの渡してんですかっ!」
「なんてものとは酷いじゃないか。わたしの〝勝負パンツ〟なのに」
「それを手渡す意味無いですよね!?」
「そうか、誠くんは実際に履いているところが見たかったんだね!」
「誰もそんなこと言ってないですよねっ!? ってそこで履き替えようとしなくていいですから!!」
スカートの中に両手を突っ込みだした美月を慌てて止める。
「もう何だっていいですから、ここ数日の間何をやってたのか話して下さい」
精神的にどっと疲れた誠は、そう言って子供らしからぬ重苦しいため息を吐いた。
同情するように、その肩にハナの肉球が置かれる。
まっすぐに咎めるように美月を見るその目は、『さっさと話すニャ』と物語っていた。
「ここ数日ねぇ……」美月は両足の間にお尻を落として座り――いわゆる『女の子座り』――直し、どこか遠くを見るような目をする。「墓に関わるようなものあったかなぁ……」
「…………」
「…………」
その言葉に誠と、ハナは揃って何だか嫌な予感がした。
そしてそれが正しかったことを証明するかのように、美月は思い出した順にここ数日間に行った『幽霊の本分』についてを語りだす。
「人間の結婚式で、記念写真撮影時に新婦の顔に被るように顔だけ映り込ませた」
「コラ写真みたいにニャってて台無しニャ!?」
「お腹ピーピーでトイレに駆け込んだ女子高生の耳元で『く~る~、きっと来る』って囁き続けた時の、羞恥と恐怖の狭間で歪んだ顔が堪らなかった」
「お前最低だニャ!」
「アニメのヒロインのフィギュアに話しかけてハァハァしてるキモイ男がいたから、そのフィギュアに憑依して『この豚ヤローが跪いてブヒブヒ鳴いてみせろ』って命令したら、小躍りして言う通りに鳴きだして面白くなかったから、今度は『他の女を殺したらあなただけを愛してあげる』と言ってやったら血走った目で他のフィギュアを破壊し始めたから警察に通報しといた」
「とんだ外道ニャ!」
「シンデレラが好きな女の子が寝てる枕もとで『ほんとは怖いグリム童話』から『灰かぶり姫』を朗読してあげたらうなされてた」
「人としてどうかと思うニャ!」
「夜の営み中だと思ってベッドの隅からガン見してたらAVの撮影中だった。これでわたしも業界デビュー。ポッ……」
「…………」
「相当にえげつニャい奴だニャ……」
ハナはドン引きした。
「そんなことしてたんですか……」
誠もドン引きしていた。
「あ、それと――」
「まだあるのかニャ!?」
「この間墓地で大学生を脅かしたっけ。シンプルなのもたまにはいいもん……」
そんなことお構いなしに、その時の光景を思い出しほくそ笑む美月。
しかしその言葉尻が急に萎んだかと思えば、何やら冷や汗をダラダラ流しだした。
ジト~とした目で美月を見ながら「今、『墓地』って言いましたよね?」
「確かに言ったニャ」ハナの目も誠同様に細くなっていく。
「言ってない言ってない」美月は慌てて手をぶんぶか振って猛アピール。ワタシシラナイ。キノセイキノセイ、ハッハッハー……。
「…………」ジトー。
「…………」ジトー。
「スヒュー、スヒュー……」
明後日の方向を向いて、吹けもしない口笛を吹きだす美月。定番の誤魔化し方をしだした時点で白状したも同然だった。
「美月姉さん……」誠は呆れたように手で顔を覆った。
「やっぱりお前じゃニャいか!」と美月の顔に肉球を突き付ける。「それが原因で逃げ惑った人間どもの一人がぶつかってうちの墓を壊したニャ!」とハナは言い放った。
その姿はまるで被告を前にした検察官のようで、
「異議あり!」
……とカッコよく言おうとした美月だったが、誠がジト目でこちらを見ていたので自重した。
誠くんに嫌われたら死んでいけない!
しょうがないので開きかけた口をパクパク金魚の真似をしてみる。なんともマヌケだった。
「んで? その墓を修理しろとでも?」
「それはいいからうちの〝家族〟を探すの手伝うニャ」
「だが断る!」
「…………」
「…………」
「そもそもあれは〝幽霊の本分〟に従った結果であって、ただの不可抗力だ!」
というか何だ『家族探し』って? わたしは探偵じゃないぞ。頼みごとなら本業に頼めよ。
美月は女の子座りをしていた足を胡坐に組み替えると、更には腕を組み開き直りの姿勢を見せた。
「もう、美月姉さん!」
「ふむ」
その美月の言いように誠は怒ったように頬を膨らまし――美月は内心で〝頬を膨らます誠くんラブリー〟と萌えまくるだけだったが――ハナは器用にも左手で右肘を支え、右の肉球を頬に当てて小さく首を傾げると、『困ったわね~』とでも言いた気に軽く眉根を寄せた。
「ま、そう言うと思ってたニャ」
しかしそれもつかの間。
ハナは突然ポンとひとつ柏手を打つと、突然美月たちが見ている前で前方宙返りを打ちこう言った。
「今おまえに呪いを掛けたニャ」
それはまるで『今メール送ったから』と云わんばかりの軽い調子で、
「は?」
美月はその言葉の意味を飲み込むのにしばらく時間がかかってしまった。
「ギャーーーーーっ!?」
暗雲が暗く影を落とす街に悲鳴が木霊する。
まるでマンドレイクの根を引っこ抜いた時のような悲鳴の主は、美月だった。
「うそだ……う~そ~だぁ~…………」
ハナがすまし顔で呪いを掛けたと宣言したその後、結局美月はそれにまったく取り合うことなく、反対に凄く不安気な表情で美月とハナを交互に見遣っていた誠を無理やり伴い、しばらくマンガやゲームにうつつを抜かしていた。
しかしハナはその態度に怒り出すでもなく、むしろ余裕の表情で毛繕いを始めるのを見るに至り、美月は心の中で『まさか』という思いが急速に膨れ上がっていくのを感じた。
「念のため。そうそう念のため念のため。何事も確認は大事だよね」
そう自らに言い聞かせるようにぶつぶつ呟きつつ、誠ともに部屋を後にした美月であったが内心は不安でしょうがなかった。
本当だったらどうしよう。いや、でもまさか……という二つの思いの板挟みに遭い、感じる筈もない心臓の鼓動が早鐘を打っているようにすら感じられた。
とそこへ、ちょうどお誂え向きに通りかかったおっさんの耳元で、試しに大声で叫んでみる。
無反応。しかも慌ててその肩を掴もうとすれば、あっさりとすり抜ける始末だった。
驚愕の表情で自分の手を、まったく気づかず歩き去るおっさんの後ろ姿をしばし呆然と交互に眺めていた美月は、今度は足下に転がっていた空き缶を掴もうと手を伸ばした。
知らず震えだす腕にぐっと力を込める。ゆっくりと慎重に、普段ならば何てことのないその行動に、気が付けば眉間に深いシワが寄るくらいに集中していた。
指先が空き缶に触れる。しかしその指先はまったく空き缶の感触を感じることなく、呆気なくすり抜けてしまっていた。
「た、たまたま……そう、たまたまに違いない!」
目を血走らせ、近隣の集合住宅地で片っ端から人間を襲ってまわる美月。
大好物の〝夜の営み〟に出食わしてもまったく興奮することなく、むしろ『幽霊の心得』に反するようにその部屋で大暴れしていた。
それからも思いつく限りのありとあらゆることを試し、
――結果そのすべてが無駄に終わっていた。
「オワタ……」
ショックのあまり、砂浜に打ち上げられたナマコのような姿で横たわる美月。流した涙は小さな溜池を形成し、そこではカエルがバタフライの練習に励んでいた。
「あの、何とかならないんでしょうか?」
美月から漂ってくる悲壮感が半端じゃない。ここまで本格的に落ち込んだ姿はついぞ見たことがない――ベランダでのことは半分演技だった――さすがに見兼ねたのか誠がハナにお願いしてみる。
「うちが成仏しニャい限り解けニャい仕組みニャ」
しかしハナは毛繕いをしながら、にべもなくそう答えるだけだった。
「さっ、分かったらとっとと探しに行くニャ」
その後、頭に猫を乗っけるというおかしな格好をした少女の幽霊が、あっちへふらふら、こっちへふらふらしている姿が目撃されるようにる。
梅雨明けにはまだまだ遠い灰色の空からは、まるでその姿を周囲から覆い隠そうとでもするかのように、時折強く雨が降り注いでいた……。