~2~
ふむ。今度はあのおっちゃんにしよう。
夜の帳が下り、静寂に包まれた街の一画。とあるアパートの屋上に〝ソレ〟は居た。
端からは黒い靄にしか見えないその存在は、狙いを定めた獣のように辺りの暗闇と同化しつつ移動していく。
「ったく、タクシー代ケチるんじゃなかったな」
すっかり癖として身についてしまった独り言を漏らしながら、一人の中年男が歩いている。
残業で終バスをを逃した男は、そこに待機していた何台ものタクシーを見遣り、しかしそれを利用することなく徒歩を選んでいた。懐具合が寂しいのが主な理由だった。
幸い雨は珍しく止んでいる。もちろんいつ降ってもいいように傘の準備は万端だ。最近運動不足で腹の出っ張り具合が増々気になってきていた矢先でもあったし、ちょうどいい運動じゃないか。
男はそう自分に言い聞かせ黙々と歩く。妻子が待つ我が家へ……まぁ、とっくに寝ているだろうが。
頼りない街灯に照らされた、普通自動車が辛うじてすれ違える程度の細い道を進む。静寂。たまに遠くから自動車やバイクが発するエンジン音が届くくらいで、この辺りのこの時間は本当に静かだ。男はそこが気に入っているし、妻もそうだ。……買い物には不便だと愚痴ってはいたが。
「喉乾いたな……」
既にシャッターの下りた店先にある、自動販売機の前でふと立ち止まる。
数秒逡巡したのち、小銭を投入しボタンを押す。ガコンガコンと出てきたそれを手に取る。
「やっぱりコーラはコカ・コーラに限るよな」
男はコカ・コーラ派だった。
酒が飲めれば、家で妻が買い置きしているビールを飲むという選択肢もあったが、なにぶん男は〝下戸〟だった。ならばと駅からここまで歩いて乾いた喉を潤すために、男はその場でペットボトルのキャップに手をかけ、回す。
「うわっ!?」男は始め中身が吹き出したのだと思った。しかしそうではないのは目の前の光景が如実に物語っていた。
……物語ってはいたが、それは男の理解を軽く超越していた。
シンクロナイズド・スイミングよろしく右腕を頭上に真っすぐ伸ばし、ご丁寧にノーズクリップまでしたスク水少女の上半身が飲み口から飛び出してくれば、誰だって理解できないだろう。腰の辺りなど、くびれているなどというレベルではないくらいに細くなっていた。しかも、
「コーラはペプシだろ!」
かっ、と見開いた目でそう怒られたならなおさらである。
「…………」
「…………」
ペットボトルを持ったまま微動だにしない中年男と、そのペットボトルから上半身を出しているスク水少女が見つめ合う。なんとも言い難いシュールな光景がそこにあった。
「う、うわーっ! おばけー!!」
ようやく男の頭に状況が浸透したのだろう。持っていたペットボトルを頭上高く放り投げると、年代を感じさせる叫び声を上げ、一目散に逃げ出した。恰幅のいいその体型からは想像もできないほど見事な逃げっぷりに、少女は感動した。ペットボトルとともにくるくる空中で回転しながら。
男の叫び声になど誰も意にも介さないのか、誰の目も無くなった路地でコンと小気味いい音を響かせペットボトルが跳ねる。飛び出す炭酸。その反動を利用して、「しゅぱっ」少女はペットボトルから全身を飛び出させた。そのまま空中で三回転半――見事なトリプルアクセルを決めて着地! 決めポーズも忘れない。
「10.00」ドヤ顔で自己採点。(心の中では)鳴り止まない拍手。(心の中の)観客席ではスタンディングオベーション状態。シンクロからフィギュアへの見事な転身だった。回転技なだけに。
「また脅かしていたんですか? 美月姉さん。あと上手いこと言えてませんよ」
とそこへ唐突に声がかけられる。『美月』と呼ばれたその少女は、決めポーズはそのままに、声のした背後を振り返った。
そこにはいつの間に現れたのか、1人の少年が呆れ顔で立っていた。
年齢は10歳くらいだろうか。全体的にほっそりとしたシルエット。特徴的なのはその目。パチッとした大きな目は、短いがふわっとした髪型と、その全身から醸し出す雰囲気と相まってまるで少女のよう。
ちなみに美月のことを『姉さん』と呼んでいるが別に本当の姉弟ではない。
「誠くんか。これが〝幽霊〟としての〝本分〟なんだから仕方ない。あと地の文にツッコんじゃいけない」
そう『本分』――美月的には『本懐』と言い換えてもいいと思っているが。
――幽霊となったからには人間を脅かしてなんぼである!
それが美月の心情であり、行動理念でもあった。
現に『幽霊協会』発行の指南書には、『幽霊の心得』として以下のような記載がある。
ひとつ! 人を見たらまず脅かせ。
誰が言い出したものかは知らないが、このような規範を示されているのにも関わらず、これでひっそり何もしないで過ごすなんて美月には到底無理な相談だった。
ちなみに続きはこうである。
ひとつ! でも夜の営みは邪魔するな。
ひとつ! 命は取るな、ほどほどに。
ひとつ! 線香の香りは一日一時間。
「まったく……。今どき美月姉さんくらいですよ? そんな積極的に脅かして回っているのは」
〝縄張り〟って知ってます? な・わ・ば・り。
「そんなことより、目の前のこの光景を見てご感想のひとつもないのかな?」
そう言うとスク水に包まれたお尻を軽く突き出し右手親指を唇に当て、美月は扇情的なポーズでアピールした。
効果は抜群で「ば、馬鹿なこと言ってないでさっさと着替えて下さい!」誠はぷいと顔を慌てて背けた。
その耳が赤く染まって見えるのは、なにも街灯の明かりのせいばかりではないだろう。
「むふっ」その反応に気分を良くした美月は、ひとまずご要望通り着替えることにした。
「ダークマターパワー! メーイクアップ!」
某人気アニメよろしくそう叫ぶと、なんということだろう! どこからともなく現れた黒い靄がその体を包んだかと思えば、あっという間に着替え――をするためのポンチョになったではないか。
そのままいそいそと着替えを始める美月。
「のぞくなよ?」誠をチラチラと「のぞくなよ?」というフリも忘れない。
「いいからさっさと着替える!」
「むう~。しょうがないなぁ」誠のつれない態度に頬を膨らましつつ、おもむろにパチンッと指を鳴らす。
するとどうだろう。ポンチョの中でスク水が一瞬でセーラー服に変わってしまったではないか。デジタル処理が施されたコマ送り映像で見ても下の素肌が見えないほどの早業だった。
ポンチョはただのネタだったようだ。
そのポンチョも黒い靄へ戻るなり掻き消える。その下から現れたその姿は、パっと見普通の女子高生。
「さ、着替えたならさっさと帰りますよ」そう言ってふわりと浮かび上がる誠。「僕もう眠いんですから」
「お子様だね~」美月も同じくふわりと体を浮かせると、本当に眠たそうに目を擦っている誠の横に並ぶ。「いつも言ってるじゃない、先に〝寝床〟で寝ていて構わないって」
「雅さんから言われてるんです! しっかり美月姉さんを監視しろって」
「雅さんか……」渋い顔をする美月。
二人の言う『雅さん』とは、隣接している『福岡市』の幽霊連中を束ねる古株中の古株。その気っ風の良さと、面倒見の良さから他地域の幽霊連中からも大変慕われており、『雅さん』や『親っさん』の呼び名で呼ばれている重鎮である。
基本的に〝幽霊〟とは、この世に〝未練〟を残し成仏できなかった魂のことである。
未練を残さずに逝った魂は、この世に留まることなく成仏し、その後天国行きか、地獄行きかの判定を受けることとなる。
ちなみにその判定方法に、この世で娯楽として親しまれている〝ボーリング〟や、〝ビリヤード〟に、〝格闘ゲーム〟などといったものが利用されているという噂があったりするが、それはまた別の話である。
幽霊となってしまった魂が辿る道は、大きく分けて以下の二通りとなる。
一. 成仏を目指し未練を晴らそうとする。
二. 成仏を諦め(もしくは端から望んでいない)、死を生きる。
前者と後者の割合は、その時代背景によって様々な変動を示すが、いつの時代でも一番に問題を孕んでいるのが『前者』に該当するものたちである。
人間にしろ、動物にしろ、生きとし生けるものは皆一様に『欲』をその心に持っている。人間は特にそれが顕著な生き物であり、『食欲』、『物欲』、『性欲』など様々な欲求――いわゆるところの『七つの大罪』に挙げられるようなもの――に塗れているのは今更説明するまでもないだろう。それら欲求が起因となり、〝生まれ変わってもう一度やり直したい〟といった前向きなものや、〝この魂すらも消し去ってしましたい〟といった後ろ向きなものなどの感情が起こり、未練の原因となっているものにけりを付けて〝成仏〟するべく行動を起こす。
だからといって皆が皆好き勝手に行動を起こせば、世界がどうなるかなど火を見るよりも明らか。
しかもそれが原因でまかり間違って人間が死んで〝未練〟を残そうものなら、それはまた新たな幽霊を生み出す結果となる。只でさえ『自殺』や、『殺人』など様々な要因で〝幽霊過多〟となっている昨今。そんな『負のベビーブーム』など誰も望んでいないのだ。
それに縦しんばその死者の魂が〝未練〟を残さず成仏したとしても、それはそれで魂の判定を行う『あの世』の住人にとっては大迷惑な話だった。それでなくとも死者の数は年々増えて住人たちの手が回らずにいるのだ、そこへ追加で死者を無駄に送り込まれるとなればそれはもう後はお察しである。それこそ住人が過労死し兼ねない。
更に問題はそれだけに留まらず、その皺寄せは天国、および地獄にも波及する。
なぜなら――例えば天国であれば、この世を悩ませている『少子化問題』が起因して、『輪廻転生』のサイクルに滞りが生じているため、そうでなくとも現時点で既に転生を控える『待機児童』ならぬ『待機魂』が行列を成しているのだ。そこへ更に、となれば益々場が混乱するだけである。
地獄においてもその辺りの事情は変わらず、その罪の重さによって服役すべき場所が決まっている、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などに居る執行人――〝鬼〟の人数不足が深刻な問題となっている上、服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世に生まれ変わるのだが、先に述べた通り器となるべき『胎児』がこの世に不足しているためここでも待機魂が溢れかえっている始末なのだ。
そういうこともあり、各エリアごとにそれら幽霊を束ね、監督する上位幽霊が存在する。その一人が『雅さん』なのである。
「だから少しは大人しくしとかないと、また大目玉食らっちゃいますよ?」
『また』の部分で美月の肩がビクリと震える。
かつてやらかした大騒動のおり、美月は雅さんと対峙し、こてんぱんに伸された挙句、三日三晩お説教を食らうという今思い出しただけでも失禁モノの恐怖を味わった経験があった。
もう二度とゴメンである。
誠と二人、ふよふよと空を移動しながら〝幽霊としての生き甲斐〟と〝身の安全〟を心の天秤に掛ける。
(こりゃ少しは大人しくしとかないとダメかね……おおっ、アレは!?)
「あ、そういえ美月姉さん……って、どこに行こうっていうですか」
がっしとばかりにその肩を掴む。
その掴まれた本人である美月は、会心のイタズラを思いついた子どものような笑みをその顔に浮かべたまま、ぐるりと頭を後ろに回した。首から上を180度に。エクソシストのワンシーンみたいだった。
「さっき大人しくしましょうって言ったじゃないですか!」
頬を膨らましプンスカ怒る誠。……が、その容姿と相まって逆に愛らしかった。こんなに可愛いのに女の子の筈がない。そりゃぁもうね!
「誠くんは可愛いなぁ。うん、かぁいいかぁいい」
「な、何なんですか……急に…………」
にんまりと笑みを浮かべながら頭を撫でてくる美月の行動に、恥かしいやらなんやら、戸惑いを隠せない。僕男の子なんだけど……と抗議の声を上げるも、その表情はどこかしら嬉しそうでもあった。
(あぁ~、フィニッシュしちゃったか……)
誠の頭を撫で回しながら、ちらりと背後のマンションを見遣る。その最上階の一室。カーテンが3分の1ほど開いた部屋があり、そこでは今まさに『賢者タイム』に入ったばかりの男子高校生の姿があった。
やれやれ、いろいろと面白いこと思いついてたのになぁ……。
例えば――、
がらっとあの窓を開け放ち「こいつぁ特ダネだ!」と叫んで激写しまくるとか。
例えば――、
あの少年の横に添い寝して「とっても激しかったわ(ハート)。ポッ」とか言ってみたり。
残念だぁ~……と誠に分からないようにこっそりため息を吐く。
(まぁ誠くんに見せるわけにはいかない光景だったしなぁ)
美月は自分に言い聞かせると、誠に頬ずりひとつ(真っ赤な顔でおもいっきり嫌がられたが)、今度こそ寝床への帰路についたのだった。