6手目
この世界に来てから、数週間が過ぎた。
勿論薫は元の世界のことを忘れたわけではない。親もいるし友人もいるわけだが、元々生まれ故郷からは離れた大学に下宿して通っていたこともあり、今のところ重大なホームシックにはかかっていなかった。いつまでもそれが続くとは限らないので、帰り方についても調べてみたいと思ってはいるのだが、囲碁が不思議な力を持つこの世界をもう少し知ってからでも遅くない、という思いが薫の心の底に芽生えていた。
幸いにも、グレイブは師匠という身分がある裕福な人間だ。ただの居候生活ならそれも居心地が悪くなるところだったが、彼には彼で薫という存在はとてつもなく大きい。与えるものも多くあるはず――というわけで、そこまで心苦しくは思っていなかった。
しかし、
「うーん、またボロ負けだ。ここまでくると逆に清々しいねえ」
そう言って苦笑するグレイブに、薫はどう返していいのか分からないまま曖昧な笑みを返す。
勿論、グレイブの方に嫌味はない。彼は彼で、別の世界から来た薫にそう簡単に勝てるわけはないと思いつつ、薫の教えに耳を傾ける真摯な姿勢をずっと保っている。この世界で特権階級に当たる師匠という位置にあって、これほどまでにプライドにこだわらない姿に薫は尊敬していた。
だが――問題もある。
グレイブが、強くならないのだ。
薫の見立てでは、日本のアマチュア高段者にぎりぎり入るか、というグレイブだが、逆に言えばそれだけ伸び代がある、ということでもある。今までは誰も強者のいないこの世界で成長を止められていたグレイブだが、薫の指導があれば飛躍的に棋力を伸ばしてもおかしくない。そう思っていた薫だったが、その予想は見事に覆された。
薫の教え方が悪いわけではない。アマチュアとはいえ、院生の上位まで行った薫には、他人を指導するという経験もそこそこあった。そこで出会った人たちと比べても、グレイブの成長は遅い。
というか、出会った時から僅かにしか成長していない。グレイブの真面目な勉強態度からしてみれば、これは信じがたいことである。中年という年齢を鑑みても、この世界には囲碁の成長を阻害する何かがあるのではないかと疑わざるを得ない出来だった。
他の人でも棋力が頭打ちになるのか知りたいな、と思いつつ。今はまだグレイブの指導のみに力を尽くす。とはいえ、熱を入れ過ぎて長時間になり過ぎてはいけない。
“対局空間”は外部と隔絶された空間――というよりも、精神のみを別の空間に持っていくような性質になっていて、肉体の疲労や空腹も感じにくくなるのだ。なので対局に熱中していても、昼ごろにはいったんやめて、きちんと昼食をとることにしていた。
そして、グレイブの指導がだいたい一日の午前に行われるなら、午後はグレイブが薫に“棋術”や“対局空間”について指導する番だった。
「カオル、“賭博対局”は絶対に選んではいけないよ」
今は、“対局空間”の様々な設定について、グレイブに教えてもらっているところである。
「負けた方が、自分の大切なものを何か奪われるのが“賭博対局”だ。何を奪うのかは“妖禅の魔”によって決められる。相手の同意がなくても、ハンデを与えれば強制的に“賭博対局”に引きずりこむことができるという厄介な代物だ。かつてはこれを使って決闘を行っていたような野蛮な時代もあったけど、失うものしかないような“賭博対局”を行うことは馬鹿げている。勿論これまで教えてきたように、棋譜を自動で保存してくれる機能や、持ち時間の設定など“対局空間”は便利な機能を持つ。しかし一方では、“賭博対局”や、その他にも3子のハンデを与えることで強制的に自分との対局をさせる“強制対局”、1子分ハンデを与えることで相手が途中で負けを認めることを許さない“投了不能”など、弱者をいたぶることのできる機能も存在する――カオル、これを君が使うということが何を意味するか、分かっているね?」
確認するようにグレイブが問う。薫は表情を強張らせつつ頷いた。
“対局空間”は囲碁を楽しむことのできる場だと思う、しかし、使い方によっては恐ろしい結果を導くこともあるのだと実感する。
その表情を見て、グレイブは穏やかな笑みを浮かべた。
「君は高貴な男だ。真の棋士だ。だけどそれゆえに、過ちを犯してしまえば罪はどこまでも深くなり得る。対局空間が魔物の住処だとも言われるゆえんは、ここにある」
グレイブの言葉が、薫の心にすうっと広がっていった。
* *
この世界に来て不思議なことにも慣れたとはいえ、まだ不意打ちには弱い。今日もいきなり、薫の目の前に碁盤が現れた。
「うわっ!」
びっくりして、思わず叫んでしまう。
そんな薫を見て、面白そうに側にいたティエルアが笑った。
「あら、カオル。“公開対局”を見るのがまさか初めてというわけじゃないでしょう?」
「う、うん。久し振りだったからつい、ね」
慌てて取り繕う薫。勿論初めてである。
“公開対局”も“対局空間”で設定できる機能の一つであり、“対局内容を‘対局空間’にて記録し、すべての棋士に公開する”というものである。タイムラグはほとんどないそうだ。ちなみに、相手の同意がなくても2子のハンデを与えれば実行できる。
もっとも、頻繁にこのような機能を使われては棋士達もたまったものではない。そのため、“公開対局”を使うのは余程特別な場合のみ、という暗黙の了解が出来ていた。いくら自己顕示欲が強い棋士でも、この了解を破ってしまうと人生に関わるということで、だいたい守られているとのことである。
さて、そんな極稀にしか見られない“公開対局”。今回はいったいどういう事情なのか。当然、対局者の氏名も公開されているので見てみると、“イミハビット 6段”という名前がまず目に入る。確かこの国最強だとグレイブが語っていた人間だと、薫は思い出した。
もう一人の名前には見覚えがない。はて誰かと思っていると、横からティエルアが口を挟んだ。
「国賓試合みたいね。この“ジオネルガ 6段”という名前は私も詳しくは知らないわ」
「国賓試合?」
「我が国最強のイミハビット先生に、他国――恐らくリエルマね。リエルマの最強かそれに準ずるジオネルガ6段が挑んで来たんでしょう。イミハビット先生は王宮から出られないはずだから、ジオネルガがわざわざ訪ねてきたのね。要は、外交の一環だわ。あなた、旅の棋士なのにそんなことも知らないの?」
「た、旅はそういう外交とかと関係のない田舎を中心に続けてきたんだよ」
「へえ、じゃあ、最近リエルマと不穏な関係になっていることも知らないのかしら。そういう、戦争になる前の様子見みたいな意味もこの対局にはあるのよ」
「ふうん……」
そういうものなのか、と思いながら盤面に目をやる。さすがに持ち時間もたっぷりあるらしく、ほとんど変化はなかった。
結局、その対局は2日間にわたり行われ、薫はその一部始終を半ば強制的に見ることになるのだが、そのように人々を巻き込み、長い時間をかけて行われた両国精鋭の戦いも、
(――弱いな)
薫には、この世界の人々は囲碁が少しだけ弱い、という事実を裏付ける材料にしかならなかった。