5手目
薫がこの世界に来てからしばらく経ったある日。
それまでは毎日グレイブやティエルアの家事を手伝いながら、こっそりとグレイブにこの世界の常識を色々教えてもらっていた。だが、この日はグレイブが朝からそわそわしていて、とてもそのような余裕はない。それもそのはず、今日はゲラルが月に一度、“下賜問題”を届けてくれる日なのである。
“妖禅の魔”によって出題され、“近衛棋士”達が一カ月かけても解くことができなかった詰碁、“妖禅の問”は、“下賜問題”として広く公表される。しかし、広い王国のことであるから、それには段階というものがあった。王宮からまずは各貴族達へ公開され、そこから貴族の判断で領地へと公開されるのである。ゆえに、王宮で近衛棋士達が最初に独占して挑戦権を得るのと同様、貴族達にもその次の挑戦権が与えられていると言えるだろう。もっとも、強力な棋士を抱えられる貴族などそう多くはないのだが。
このあたり、王の後ろ盾のある貴族と、実力のある“師匠”達との力加減を調整する役割を担っているとも言えよう。
そして、この地方の貴族であるゲラルだが、彼の公表スピードは割と速めと言ってよかった。あまりにも速く公表すると、手元で独占したい他の貴族の領地まで伝わってしまうため限度があるが、半年も公開を渋ったり、地元の“師匠”や“棋士”に公開の見返りを求めたりする貴族達がいることを思えば上々である。さらにゲラルは“師匠”であるグレイブに対しては、敬意を表して自らの屋敷に呼びつけるのではなくわざわざグレイブの家に“下賜問題”を届けてくれるのである。このあたりは、ゲラル自身も囲碁を打つが故のことであろうとグレイブは考えていた。
そして、今日もまたゲラルの乗った馬の蹄の音が聞こえて来る。
いつも通り、従者を少しだけ付けて、ゲラルがグレイブの家にやってきた。
「これはこれはゲラル様。今日もわざわざありがとうございます。」
「なになに。これしきのこと。“師匠”であるグレイブ殿を呼びつけたとあってはかえって家名に傷が付きます。それに、ティエルア殿のお父上を怒らせたくはない」
そう言って、茶目っ毛たっぷりに片目を瞑る。本気か冗談かはわからないが、最近この若き男爵はグレイブの娘をよく可愛がっていた。
ちなみに、“師匠”の家の者なら、一般には男爵家や子爵家とは釣り合いが取れているとされる。とはいえ、そういうことはまだまだ先の話だとはグレイブは思っていた。父親としては、やはりできるだけ長く娘と一緒に過ごしたい。
「ははは、うちの娘が最近はよくお世話になっているようで。何か不始末を仕出かさないかと、内心ひやひやしております」
「それは棋力に響きますぞ。ご安心ください。ティエルア殿はいつも礼儀正しく、逆に我が従者達に見習わせたいくらいですな」
社交辞令を交わし、ゲラルはグレイブの部屋に招かれる。待ちきれないという顔をするグレイブに、ゲラルは手元から紙を出した。
「今回解かれなかった問題は、一問だけとのことです。イミハビット師が随分頑張られたとか」
「さすがですな、それでその最後の一問というのが……」
「――はい、グレイブ殿、この問題ですが……」
そこで、ゲラルが大儀そうに紙を開く。
そこには自分の石を生かせるかという、詰碁の問題が記されていた。
「どうも吾輩にはコウになるように思えてならないんですが、それが正解ではないらしい」
ゲラルはそう言って首をひねりながら、グレイブに自分の読みを披露する。3段と5段が、頭を付け合わせて議論を始めた。
この世界にも、“段位”というものがあり、例によって、“対局空間”に行けばちゃんと表示されている。グレイブは5段、ゲラルは3段、ティエルアは2段である。なお、これを聞いた薫は、だいたい日本のアマチュア段位と等価なのだと考えていた。この“段位”が初段以上の者が、“棋士”を名乗ることが多く、近衛棋士や師匠になれるのは3段程度の棋力が最低必要である。
ちなみに、薫の段位は空欄になっていた。勿論、薫が段位に満たないわけではないので、グレイブも不思議に思っている。ティエルアと対局したときに何も言われなかったのは、彼女が段位をいちいち見るような人物でないからであった。
「ふうむ、問題も決して広いわけではない。しっかり考えれば解けそうなところ、何としても解いてみたいですな――」
「ええ、ですがそれにはまず、このコウの説を検証しなければ……」
二人ともうんうんうなりながら、最善手を考える。若い頃は何度か“下賜問題”を解いた経験もあるグレイブにとっては、特に力の入る瞬間だった。
と、そこで部屋の扉か開く。薫がお茶を入れて持って来ていた。
「グレイブ殿、彼は?」
「旅の棋士でカオルと言いまして、今うちで修業しているところです」
「そうですか、君もこの問題について意見何か意見があるかね?吾輩はコウかと思ったのだが、どうもそうではないらしい――」
ゲラルは何気なく、旅の棋士だという薫に、問題を見せ――
「それ、元ツギで生きてますよ」
――一目見て、思わずぽろりと薫は正解を言ってしまった。
言われても二人には、それが正解か判定できない。だが、薫が解説をするにしたがって、徐々にその手の意味が理解出来てくる。
「白がサガっても、さらにスペースを広げておけば五目中手にはなりません。錯角しやすいんですけどね。他の変化は――」
“下賜問題”
その単語を薫が思い出したのは、ゲラルとグレイブの顔が真っ青に変わるのを見てからだった。
その後は気まずい雰囲気のまま、淡々と“モク”を得る作業に移った。“下賜問題”を解けば大量の“モク”が手に入る。本来ならば皆狂喜乱舞して喜ぶほどのものであるが、今回ばかりはそうはいかない。ゲラルは薫をいぶかしげに見つめ、グレイブはグレイブで薫のことを突っ込んで聞かれないかと冷や冷やし、薫は軽率に答えを言ってしまったことに対して自己嫌悪に陥っていた。
それでも作業は進む。“対局空間”で手続きを踏むと、やがて光り輝く“モク”が大量に発生した。その神々しさには、さすがに三人とも息を飲んだ。だが、次の瞬間には皆我に返って、決まりの通りの分配を行っていた。
解いた薫に多くが与えられるが、持ち込んできたゲラルや立ち会った“師匠”であるグレイブにも取り分がある。その配分が適切なのかは薫にはわからなかったが、グレイブがいるのでおそらく大丈夫であろうと考えていた。
「それじゃあ、あとの細かいことは私がやっておきます。“下賜問題”が解けるのを見るのは爵位を継いで始めてですが、まあ後始末はなんとかつけておきますよ」
日も暮れかける頃、ゲラルはそう言って、颯爽と馬に乗りこんだ。
「ありがとうございます。あとはよろしくお願いします」
グレイブは恐縮しながら、後を彼に託す。
「ええ、お任せください!それでは」
そう言って、爽やかな笑顔でゲラルはグレイブの家から去って行った。
馬を走らせること、しばらくして。
「……グレイブの奴め、まさかあんな小僧を囲っていたとは。少々侮り過ぎていたか」
さきほどまでの笑顔はどこへやら、そこには憤怒の形相に顔をゆがめたゲラルがいた。
「このままではうまくいかんやもしれぬ。――作戦は変更だ」
奥歯をぎりりと噛み締めながら、そう言う彼の言葉を聞いているのは隣を走る従者達だけだった。