9手目
盤上は混沌。黒と白の石が入り乱れる戦いが続く。
観戦者の中には相当白よしと思っている者もいたが、それは彼らの棋力の未熟によるものである。確かに、ゲラルの大石が一つ、薫に召し取られてはいた。そのインパクトから、大多数の観戦者は白よしと疑っていない。
しかし――実は、局面はなお黒よしであり、薫はそのことに気が付いていた。
九子のハンデというものは本当に大きい。
一つの大石が取られ、白にいいように地を荒らされているようでなお、どっしりとした厚みが依然存在する。
厚みとは、力の溜まっている石のことであり、攻撃などに使うことが多い。すぐに地に転じさせようとすると、かえって攻撃力が生かしきれず、損をすると言われている。
幸い、薫は厚みを生かした攻撃をされることはなかった。しかし、そのパワーは終盤において、至るところに地をもたらしてくれる役割を果たすことがある。
その目に見えない効果もしっかり計って計算すると――
(まだ、10目近く足りない)
薫は自らの劣勢を悟る。
プロなら大差、しかしこの相手なら、終盤に差し掛かった今でもチャンスはある。
死力を振り絞りながら薫は追い上げを続ける。
一方のゲラルはどうか。
実は彼もまた、自らの優勢を悟っていた。
囲碁は対局者が一番見えると言う。
岡目八目という諺もあり相反するが、基本的には当事者である対局者達が一番入念に盤上を読んでいると言っていいだろう。ゆえに、同じ位の棋力の観戦者達が白よしと判ずる中、ゲラルは自分が未だ負けていないことに気が付いていた。
しかし、それがどうした、でもある。
ここまで追い詰められていることがすでに信じられない。自分はこれでも三段である。
確かに今回は卑怯な手段を用いたが、それでも九子局でこのようなところまで追いつめられるほど弱者だとは思っていなかった。
その予想はあえなく裏切られ、今は必至で逃げ切りを計る哀れな子兎となってしまった。
追われる者の恐怖が、ゲラルの全身を覆う。
(――っ!今はまだ勝っているんだ!これを、終局まで守りさえすれば――)
そして、また彼は守りの思考に入る。
だがそれこそが――薫の狙い!!
右を攻めると見せかけて、ゲラルの意識を右側の石に集中させる。しかし、本当の狙いは左にあった。数手前から生じていたゲラル陣の微妙なほころびが、直前の薫の手で顕在化――そして、気付かず別のところを守ったゲラルの隙を突き、さながら獅子が獲物の喉笛を噛み切るときの音が聞こえてくるかのような――分断。
黒の生き石は二つに分かれ、同時に事切れた。
ゲラルの顔面が蒼白になる。
それは負けを確信した者の顔。
終局後の“支払”に恐怖が湧きおこり、歯がカタカタと音を鳴らす。
だがこれではまだ終わらない。終わらせてやらない。
“投了不能”――再起不能になるだけではなお生ぬるい。二度と囲碁に触れることができないほどに、徹底的に叩き潰すという薫の意志が、ここにきて遂に実を結んだ。
それから先は、一方的な虐殺劇だった。
心が折れたゲラルでは話にならず、傷口は広がるばかりで目も当てられないほどである。もはやゲラルには、“支払”の時間を一刻一秒でも後にしようという気持ちしかあらず、こうなるなら“投了不能”も必要なかったかと薫に思わせるほどだった。
――とはいえ、打つところがなくなれば囲碁は終わる。
ゲラルも遂に観念し、終局を迎えた時には両者の差は実に200目以上にも及んでいた。
「ぐおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ゲラルの両手から鮮血が飛び散る。見れば、全ての指が内部から破裂したように潰れていた。グレイブと全く同じ痛みを味あわせることができなかったのが薫にとっては少し心残りだったが、あの様子ではゲラルも終わりだろうと思い、ふうっと息を吐く。
「ゲラル様!」
取り巻きが慌ててゲラルに駆け寄るが、彼は痛みに気絶してしまっていた。
「そいつを連れてとっとと帰れ、何か文句があるなら、お前たちにも“九子局”で勝負をかけるぞ!」
ゲラルよりも棋力の低い取り巻きたちは薫の言葉を聞いて震えあがり、ゲラルを担いで一目散に駆けだした。
「カオル……勝ったのかい?」
目に包帯を巻いたグレイブが、まだ泣きじゃくっているティエルアをなだめながら、そう聞いた。
「はい……勝ちました」
彼に決して使うなと言われていた“対局空間”の機能。それを用いてゲラルに報復したという事実が、今さらながら薫の心にのしかかる。だが、グレイブは何も言わずに微笑んでいた。