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予想以上の性質の悪さだった。
財務卿ジャスティン・ピニエルは頭を抱える思いでいた。ユアン公爵の臣下であるグオ・コウゼと言う男が、ここまで浅はかだとは思わなかった。
確かにアドス市を決定的には追い詰めずに交渉を引き延ばし、それによって公爵側に焦燥感を与えたのは自分である。
だから焦った末に下手を打つ事は予想していたし、それで自滅してくれるのならば願ったり叶ったりだと思っていたが、まさかこちらまで巻き込む大暴言にして大失言をするとは思わなかった。
いや、これは相手がそういう男だと見抜けなかった自分の失態だろう。とにかく善後策を練らなければならない、このままでは政府の権威が損なわれる程度では済まない。
最悪、本当に北方航路の要衝であり重要な税収源であるこの島を中心にした一帯で戦争をする事になれば、国庫は破綻である。
まずは今回の事件は公爵側が勝手に言っている事であり、こちらは無関係であるという声明を出さなくては。しかしだからと言って決定的に公爵側と断交も出来ない。交渉に長けたアドス市の商人達相手に、有利に交渉を進められているのは、政府の力もあるが公爵側と連合しているからである。
再び三つ巴状態になろうものなら、自分の知らない所で話がどこに転がっていくか解らない。
縮図だと思った。政権内で大公と公爵は、表向き手を取り合っているが、水面下では激しく争っていると言う。
自分には関係ない事だと、ひたすら国庫を見つめていたのだが、公爵側の人間と共同歩調を取りつつ、内心ではお互いに出し抜こうとしている現状は、まさに政権内勢力争いの縮図だった。
しかしとにかく今は、公爵側との協力が必要なのである。政権を維持するためにも、アドス市相手の交渉を有利に進めるためにも。
その協力しなければならない相手が、実に腹黒いくせに浅はかで、性質が悪いのが困りものだった。全く、敵より厄介な味方は始末に負えない。
「閣下、アドス市の代表が面会を求めてきました」
思わずうめき声が出た。つい先ほど、最近アドス市の全権代表として雇われた安東家の者が、公爵側の発言について問い質しに来たばかりである。
言下に否定したが、否定したからと言ってどうなるものでもない。おそらく正式に抗議と弾劾をして、謝罪と賠償を求める腹積もりだろう。当然の行動だ、自分が逆の立場でもこの好機を逃しはしない。
「今日中に面会しよう。スケジュールを調整してくれ」
「はっ」
下手な逃げ隠れは逆効果だ。ここはさっさと会ってしまった方が、相手に作戦を立てる時間を与えなくていい。
全く、国庫の事だけ考えて仕事ができればどれだけ気が楽な事か。
◇
それほど時間があった訳ではないが、どうにかその日の夕食後に会談の予定をねじ込んだ。
あまりおおっぴらにしたい内容ではない。安東家の側も事を大きくする気は無い様で、必然的に密談に近い形になった。
向かい合う席に着いたアドス市の代表は、確か安東家の家老にして艦隊の総責任者であるはずだ。その様な男がこの島に来ているのも何か意図を感じるが、今はそれどころではない。
自分より10㎝は背の高いその男は、座っても存在感がある。背後に控えているのは、16から18くらいの歳だろう少年と、表情は硬いがどこか非人間的な美しさを感じさせる若い女だった。
女の方は知っている様な気もしたが、思い出せなかった。
「さて、まずは改めて確認させていただきますが、政府と総督が軍事力を以てこの島を占拠し、富を奪う気でいると言うのは事実ですか。
もし事実であるならば、いかに政府とは言え、正当な理由なく武力で他人の財産を奪うと言う盗賊の所業を、黙って見過ごす訳にはまいりません」
固く、冷たく、厳しい言葉だった。
「玄州総督であるユアン公爵の臣下の者の発言に関して、我々には一言も事前説明を受けていない。
あれは向こうが勝手に言った事であり、我らはその様なつもりは毛頭無く、むしろかの暴言に非常に不快感を示し、正式に抗議をするつもりでいる」
「間違い無いのですな?」
「全ての神々に誓って」
「神々に誓って、ですか。神に誓うより、人に対して誠意を示すべきでしょう」
やはり来たか。さて、どの様な要求を突き付けて来るか。
「誠意ですか、それは実に難しい。一体どうすれば、誠意を示したという事になるのでしょうな」
「老婆心ながら、お望みとあらばその術を教えて差し上げる事が出来ます。まあ儂は老婆では無く、老爺ですが」
小さな笑いが起こる。
「年長者の助言は聞くものですからな、ぜひお聞かせ願いたい」
「しからば申し上げましょう。閣下におかれては、総督側とは早々に手を切り、我らと手を結ぶのがよろしい。もちろん、この場においてはの話ですが」
「我らと言うのは、アドス市の事ですかな? それとも……」
「もちろん、アドス市です。他意はありません。今の我らはアドス市に雇われた全権代表ですから」
「左様か。しかし多少浅慮が過ぎるとは言え、その程度で協力者を裏切るような真似は、一国の取るべき態度では無い」
「ならば、こちらとしてもそれ相応の手段に訴えざるを得ません」
「どういう事かな?」
「アドス市は総督と手を組んで、産出する金の大部分を総督のみに提供する事で、その庇護下に入る道を選びます」
「なにっ」
「庇護下に入るとは言いましたが、政府と総督を比べれば、どちらが御し易いかは明らかです。
それ故まずは総督と手を結んで政府の影響を排除し、その後に総督への臣従を有名無実の物とするように動きます。
それが、最も……いえ、二番目にアドス市にとって望ましい道ですので」
「二番目、ですか。では最も望ましい道は? いや、聞くまでもありませんでしたな。我々と組んで総督側を切る事、ですか」
「左様。そちらとしても、総督側に……いえ、ユアン公爵の手に大量の金が渡る事は望ましくないのでは?
それでしたらアドス市の富と独立を認めていただければ、それ相応の見返りはいたします」
確かに、ユアン公爵の手に大量の金が渡る事態だけは絶対に避けろと、ペルティナクス大公直々の通達を受けている。
ただでさえ広大で豊かな玄州の総督に就き、その地を自らの地盤とすべく動き始めたユアン公爵に、この上大量の資金源まで与えては、政権内の勢力図は一気に公爵に傾く。
そうなるくらいならば共倒れになった方がましだと、大公ははっきりと意思を固めている。
財務卿としても、ここでアドス市の金を得られなければ、深刻な財政危機・通貨危機を引き起こしかねない。
アドスの金に頼らない方法もいくつか考案し、進めてはいるが、どうしてもしばらくのつなぎとなる資金は必要だ。そしてつなぎの資金の当ては今のところ、アドスの金しかない。
ピニエル財務卿は頭の中で算盤を弾いた。今回の件でユアン公爵が決定的に離反する可能性は低いだろう。公爵もこれから玄州を制圧しようと言う時に、朝敵となる訳にはいかない。
ならばせいぜい不興を買うくらいだろう。味方ではないが敵でもない、絶縁状態になるとしたら、今後しばらく公爵の存在は、無いものと考えて財政を運用しなくてはならない。
その対価として、アドス島から手に入る金の量が増える。増え幅はあまり期待できないが、現状維持としても数年は持つ。
その間に次の手を打てば、まだ何とかなる。いや、何とかするのが自分の仕事である。
「……解りました。そのお話、乗りましょう。具体的には、どうするので?」
「閣下が話の解るお方でよかった。ではご説明いたしましょう」
提督が、紙を一枚取り出して財務卿の前に置いた。なにやら図解が描かれている。
「まず交渉の席において、政府代表・総督代表・アドス市代表がそれぞれ一票ずつを持つ、多数決投票制で決を採る事を通します。
これは政府と総督がいまだ協力関係にあると見せかけていれば、問題無く通るでしょう」
「だが実は我々は、すでに総督側を裏切っている訳だ。心が痛むな」
わざと白々しい、何の感情もこもっていない言い方で言う。
「そして最初の議題でアドス市の供出金の量を決めるのです。即ちアドス市側の要求する現状維持か、そちらの要求する増額か。
増額に関しては、通さない事は決まっているので適当に、総督側に都合の良い条件を渋々飲んだと言う形で、上手く目くらまししていただきたい」
「お安い御用だ。特にあの男が相手では、原価割れの安さだろうな」
「ここで市の供出金が現状維持と決まった後、次いで供出金を政府と総督で、どう配分するかを投票します」
「そこに貴殿らが投票権を持っている事がミソだな?」
「はい、我らはここで政府の取り分を増やし、総督の懐に入る金を減らす事に同意します。これで市と政府がお互いに目的を果たす事が出来ます。
ここで大事なのは投票する順番です。これが先に政府と総督の得る金の比率を決める投票を行えば、我らは公爵に有利な投票をします」
「市の供出金が多くても少なくても、その大部分を手に入れるのが公爵ならば、政府を相手にするより御し易く、将来的に供出金の減額も押し通せるという訳か」
「はい、市にとって政府と総督どちらが恐ろしいと言えば、間違いなく政府であり、公爵はマシな相手ですから。政府を排除する事を第一とします」
「だが、それは政府が敵であると言う条件下での話。政府が味方であるなら話は別、という訳だな?」
「まさしく」
「……私は正直実権を握っているのが誰でもいいし、皇帝が誰であるかも知った事ではない」
「聞かなかった事にしましょう」
「私はただ財務官僚一筋として歩んできた。それ以外の事はできん。複雑な政争も権力争いも、はっきり言って馬鹿馬鹿しい。私の関心は、ただ国庫をいかに満たすかと言うだけだ」
「財務卿の手腕は、私どもも聞き及んでおります」
「国庫を満たすために、今はこの島の金が必要不可欠だ。そしてそれを最も得られる手段が、貴殿らの提案に乗る事ならば、喜んで貴殿らの企みに乗ってやろう」
「では」
「契約成立だ。これより政府はアドス市代表の提案を実現するために協力する」
両者が立ち上がり、固く握手を交わした。
「しかし考えた物だな。そちらが不利な状況をひっくり返すために、循環投票パラドクスを使おうとは」
「おや、ご存知でしたか」
「地位が高くなるにつれ、知りたくも無い手練手管に詳しくなっていかん」
循環投票パラドクスとは、三者による投票を行うと、投票を行う議題の順番によって結果が変わる事を言う。
提督が提案した手口は、まさにこれを使って総督派を嵌めるというものである。
政府派・総督派・アドス市の三者の内、誰に最大の利益を与えるか投票すれば当然、それぞれが自分に投票して決着が付かない。
しかしここで、2位以下はどういう順番になるのが望ましいかという視点を加えれば、話は変わってくる。
政府派は、公爵派が力を持つ事を望まない。よって2位がアドス市、3位が公爵派となる。
公爵派は、政府派と協力関係を結び、アドス市から絞り上げようと考えている。よって2位が政府派、3位がアドス市となる。
アドス市は、政府派と公爵派のどちらが与し易い相手かと言えば公爵派なので、2位が公爵派、3位が政府派となる事が望ましい。
この状況下で二択の投票を行うと、結果は投票する内容の順番に左右される。
提督が提案し、財務卿が乗った案は、最初にアドス市を勝たせるか、それとも負かすかという投票をする。
当然アドス市は、自分が勝つ方に投票する。そして公爵派はアドス市が負ける方に投票する。
このとき政府派は、街を負けさせてしまうと次の政府派か公爵派かの投票で負けてしまう。なぜならアドス市は、政府派が負け、公爵派が勝つ方が望ましいからだ。
故に、アドス市を勝たせてやる。アドス市はここで勝ってしまえばもう、政府派が勝とうが公爵派が勝とうが自分の権利は安泰である。
それ故に、本来なら最も勝たせたくない敵である政府派に、見返りとして勝利を提供する事が出来るのである。
これが逆に、先に政府派が多く取るか、公爵派が多く取るかを投票すると、アドス市が公爵派を応援して勝たせる事になる。
その後、アドス市から多く取るか少なく取るかを投票すると、政府派が公爵派に大きな利益を掴ませるくらいなら、アドス市を応援して公爵派を道連れにした方がマシとなる。
結果として、公爵派の足は引っ張ったが政府派が最も損をすると言う、政府派にとっては面白くない事態になる。この場合、アドス市から見れば敵が仲間割れして自滅してくれた事になる。
しかし露骨に政府派と公爵派の仲を裂き、漁夫の利を占めるというのは当然、警戒されているだろうし、妨害を受けるだろう。加えて、双方が今後も敵として残る。
だから政府派を味方に引き込む策を提督は選んだ。グオ・コウゼの問題発言で思わぬ苦境に陥り、公爵派に悪感情を抱いた今の政府派ならば、十分話に乗る可能性が有ったのが一つ。
そして公爵よりも政府の方が強敵であるのは何も今だけの話ではない。ならば嵌めて恨まれるならば、恐ろしくない敵の方が良い。しかも強敵だった政府に恩を売り、一応の味方にする事までできるのが二つ目の理由である。
もちろんこの策がはまれば、安東家が北朝政府と繋がりを作る端緒になると言う、自身の利益も勘定に入っている。
ピニエル財務卿は、それらの思惑を全てとは言わないが、相当な程度には予想していた。その上で、この話に乗った。
政府にとって最も悪いのは、2度目の投票でアドス市が裏切り、公爵派を勝たせてしまう事であり、そこはアドス市を信じるしかないと言う危うさを抱えてはいる。
しかし、目の前の相手は損得計算に長けていると見て、信じる事にした。
中途半端な損得計算ならば、公爵派に話を持ちかけて漁夫の利を狙うはずである。だがそこをあえて政府派である自分に話を持ちかけて来た時点で、目先では無く、先の先まで見通しての行動である事が明らかだ。
ならば、信用を裏切る事は無い。裏切りをすればその時の利益は大きいだろうが、裏切者に次の取引を持ちかける者はおらず、その先の利益は無い。
先の先まで見据えて、長期に渡って利益を得る事で、最終的に一度の裏切りよりも大きな利益を得ようと考えている者なら、なにより信用を大事にする。それこそが最大の投資である事を知っているからだ。
この男は裏切らない。裏切らない方が利益になる事を知っているから。故に、信用に値する。
何も言わなくても、行動は雄弁である。長い目で利益の流れを見ればそれが解る。財務卿は、利益の流れから意図を読み取れる人間だった。




