3・エステル
月日の流れを意識した事が無かった身にとって、もう第21節に入った事は意外な驚きだった。
高星が戦場へと向かってからすでに十五日が過ぎた事になる、極力戦いを避けようと努力していた高星は、今頃戦場にあってどうしているのだろうか。
「――おい、聞いているのか」
「っ!」
いきなり現実に引き戻されて、初めて自分がまた思考の海に沈んでいた事に気づく。
どうも最近こういう事が多いのは何も考えず、ただ言われるがままに生きてきた反動なのだろうか。
「ふむ、身が入らないなら無理する事も無いだろう。急ぐ事でもないし、今日はここまでにしようか」
「すみません……」
流石に気まずくて消え入りそうな声になる。エステルに身の振り方の参考にと、様々な職業や組織の詳しい説明をしてもらっていたのに、まるで聞いていなかった。
「そう情けない声を出すな。頃合いも良いし、今日は私がお茶に誘った事にしよう」
「ありがとうございます」
思えばエステルとは事務的な話以外は、まだあまりした事が無い。
まさか二人きりで黙ってお茶を飲むだけという訳にもいかないだろうから、何か話題を考えなくてはと思いながら、戸棚からティーセットを取り出すエステルの後姿を眺める。正直この気苦労だけは慣れないから放り出したいところだ。
無駄の無い、優雅でしなやかな手つきでエステルがお茶を入れている。その後姿を眺めていたら、ふと正面から見ていては気付かない事に気付いた。
腰の後ろに大型のナイフを差している。それ自体は大した事ではない、剣を失った時の予備として、また便利な道具としてナイフを携帯する者は少なくない。
興味を引いたのはそれが銀製である事が解ったからだ。おそらく刀身には凝った彫刻が刻まれているのだろう、貴族が所有する様な高価な物だ。
それに気が付いたのは、嫌な昔取った杵柄というべきか、金目の物に対する嗅覚がかなり研ぎ澄まされてしまっているからだ。
一つ気付くと連鎖的に気付くものである、今まであまり気にしてはいなかったエステルの衣服をよく見れば、ボタンや留め金は貴金属製、目立たないように控えめなアクセサリーはよく見れば結構な数で、その全てに宝石がついている。
想像の域を出ないが、服の裾などに金の小粒や真珠を隠し持とうと思えば、いくらでも隠し場所があるような造りになっている。
その全て合わせれば相当な金額になるはずだ、しかし今の今まで全くそれと気づけなかった、実に巧妙に隠されている。
そう、隠されているのだ。一つ一つはそれほどでもないが、全部合わせるとかなりの金額の金目の物が、見えない様に、気が付かない様に隠し持たれている。
これはちょっと普通ではない、金持ちや貴族が高価な装飾品を着けるときは、それを見せびらかすためにできるだけ目立たそうとする。
まあ、ファッションとしてバランスのために目立たない様にする事もあるのだろうが、基本的に全体としては目立つために装飾品を着ける。
だからこれだけ目立たない様に慎重に、それでもあえて高価な品を身に着けるのは何か別の目的があると考えて良いはずだ。ならその目的とは何か?
思い当たる節はあった。組織が金の運搬をするとき、大金をそのまま運んでは目立ちすぎるので、小分けにして別々に運んでいた。
しかも宝石などに換えてから運べば、高価な割に小さいので密輸にも適している。そこまで行かなくても旅人は緊急の資金として換金性が高く、かつ小さくて持ち運びやすい装飾品や銀のナイフを持つ事があるという。
つまりエステルは緊急時の資金とするために、多くの装飾品を身に着けているという事になる。
しかし分からないのはそうしなければならない理由だ。用心にしても日常からというのは少し用心が過ぎる気もする。
「どうした、茶が冷めるぞ」
「あっ、いただきま、あぢっ!」
「おいおい大丈夫か? 今日はやけにぼんやりしているようだが」
「すみません、考え事が多くて……」
「考え事、か……。そうだな、初めてここに来ると皆いろんな事を考える様だ」
「……それはエステルさんもですか?」
「そうだ、今はあれからもう三年も経ったのかと驚いている」
「それは……腰の銀のナイフと関わりがある事ですか?」
「なぜそう思う?」
「別にナイフだけを見てそう思った訳じゃありません。よく見るとたくさんの宝石を身に着けているし、服の金具も金銀の様なので全体からそう推測したまでです」
「これは参ったな、目立たせない事にずいぶん気を使っていたつもりなのだがそこまで見抜かれたか。これでばれたのは二人目、いや三人目かな」
「三人目?」
「一人は高星、もう一人はおそらくだが提督だ。どちらが欠けても今の私は無かっただろうな」
「……エステルさん、あなたは何者ですか?」
「私に興味があるか?」
「はい。もっと言えば子爵に興味があるので、その側近と言うべき立場のエステルさんにも興味があります」
「そうか、ではお茶のおかわりがいるな」
そう言うと、エステルは再びお茶を入れるべく立ち上がった。
◇
「さて、やはり順を追って話していくのが分かりやすいだろうな。たしか君にはまだ私のフルネームを教えていなかったな?」
「はい、まだ聞いていません」
「私のフルネームはエステリーゼ・ハーカーというのだが、この名をどう思う?」
「どうって言われましても……えっと、貴族の出ですか?」
「ほぼ正解だ、私の父はエイブラハム・フォン・ハーカー伯爵、私はその養女だ」
「じゃあ、実父は?」
「人ではない」
「人じゃ……ない?」
「君は妖魔の類を見たことはあるか?」
「いえ、昔話に聞くくらいでしか知りません。昔は実在したという事は知っていますが」
「今も実在はしているよ、ただ数は絶滅寸前まで減っているがね。私がその実証だ」
「じゃあ、本当にエステルさんの親は」
「最上級妖魔、吸血鬼だ。母は人間だが私を産んですぐに死んだらしい。全く、人間と吸血鬼の子なんて、お話としてはありきたりで驚きも無いところだな」
エステルは冗談めかして言っているが、そんな出自を持てばどんな人生を歩む事になるかなど、それこそ物語としてはありきたりすぎて、容易に想像ができるというものだ。
「じゃあやっぱり、エステルさんの身に着けている装飾品は……」
「万が一に備えて自衛は欠かせなかったからな、すっかり習慣になってしまって今でも手放すと落ち着かないのだ。
宝石を持つにも大きい物よりも小さい物を数多くの方が換金しやすい、裸の宝石よりもアクセサリーに加工したものの方が換金しやすく、自然に身に着けられるなどと言った知識ばかり豊富になってしまったよ」
◇
「妖魔が徹底的に討伐の対象にされ、数を減らしたのはひとえにその強すぎる能力にある。
高星の表現を借りれば『普通の虎ならば森にすむ限り生かしてもらえるが、いつ襲来するか解らない翼の生えた虎ならば静かに暮らしたくても殺される』だそうだ。
そうなれば妖魔自体に対する憎悪や軽蔑はいやがうえにも高まる、ましてそんなものとの間にできた子などはな」
「それじゃ、エステルさんの親はやっぱり……」
「顔も声も知らない父が倒された後、赤子の私を見つけたときは大層驚いたそうだ。当然、その場で殺すべしという声は強かったらしい。
だが父は……ハーカー伯爵は私を養女として育ててくれた。平坦な人生ではなかったが、父の友人達も理解を示してくれたし、自分を不幸だと思ったことは無かった。
あの日まではな」
「やっぱり、生まれに関わる事ですか?」
「いや、直接的には全く別だ。十年前に西方で大地震があったことは知っているな?」
「霊帝崩御とユウキ合戦勃発に、ほぼ時を同じくして起きた地震ですね」
「ハーカー伯爵家の領地もその被災地だったんだ。当時、父と私は都にいたからその時は無事だったのだが……。
三年前、七年の時を置いてあの地震が父を襲ったんだ」
「……一体何が?」
「領地に戻り、見回りに出ていた父が倒壊した建物の下敷きになって亡くなった。
その建物は比較的被害が少なかったので、復興で手が足りなかったこともあって、簡単な補修で済まされていたのだが、目に見えない基礎の部分は限界が来ていたのだ」
言葉も無かった、とっくの昔の事になったはずの地震に、そんなタイミングで牙をむかれたらどれほどの衝撃だろうか。
「あの時は流石に運命を呪ったよ、私がこんな生まれだから運命はこうも私に辛く当たるのかとね。
結局、ハーカー伯爵家は断絶になった。後継ぎとなれる子が女の、しかも養女一人と言うのもあったが、私の生まれが悪い方向に働いたというのはきっと妄想でもないだろう」
「その後、エステルさんはどうしたんですか?」
「しばらくは父の友人たちの世話になって暮らしたが、居心地が悪くてな。いや、父の友人たちは皆親切にしてくれたのだが、それがかえって辛かった。
いっそ一人で、どこか遠くに行って暮らそうかと思っていたところに提督が現れてな、私さえよければ家の次期当主の傍で働かないかと言ってきた」
「なぜそこで提督が?」
「安東家の海運・商売の責任者でもあるからな、顧客としての貴族に幅広い人脈があるらしい。父の死とハーカー家の断絶は、当時結構な話題になっていたしな」
「それでエステルさんは提督の招きに応じてやって来たと」
「私としては半ば自棄のつもりで北の果てまで来たと言ったところだ、あの頃の私はとにかく思考が後ろ向きだった。
次期当主――つまりは高星の件はともかく、北の流刑地なんて私にはお似合いだとやさぐれていたものだ」
エステルの目が少し細くなる、きっと昔の事を回顧しているのだろう。無言のまま一口紅茶に口をつけ、カップを置くとエステルはいよいよ高星との出会いについて語りだした。
◇
およそ二十日の船旅を経て、この街の港に入港した時の事はよく覚えていない。そんなことに気を回すような精神状態ではなかったからだろうが、今思うと惜しい事をしたものだとも思う。
エステルは丘の上の子爵家の館に通され、まずは逗留する客間に案内された。当時はまだこの屋敷も無かった。高星がこの屋敷の建築を決めたのは、エステルが正式に副官に就いて最初の仕事だった。
客間で荷解きをしているとき、風を切る音に気付いた。しばらく耳を澄まして、それが窓の外から聞こえてくる事に気づき、窓を開けた。
するとどうだ、眼下の中庭で剣を振っている者がいるではないか。両刃剣の剣術は学んでいたが、片刃のいわゆる刀の剣術は知らなかったので興味が湧いた。折れず、曲がらず、よく切れると噂の刀を使った剣術を見てみたいと思った。
中庭に降りてみると当時二十歳のその男は、刀を構えて簀巻きに向かっている所だった。
その男は簀巻きを斬ること二回、いずれも腕の力を使わず体捌きだけで斬り、簀巻きは半分も切れていなかった。
正直、拍子抜けた。鮮やかな一刀両断を期待していたのに半分も切れないのだから。それでつい口を出した。
「なんだ、半分も斬れていないではないか」
するとその男はこちらに冷たい視線を向けて、その手に持った白刃の様に鋭く冷たい言葉を返した。
「剣術は見世物ではない、これだけでも手首なら落とせるし、首や脇や股なら動脈を切断されて死ぬ。
10㎝切り込めば人は死ぬと言うが、本当に殺すならば1cmで十分だ。それ以上は無駄な動き、排除すべきものだ」
全く、殺人術としての実用以外の全てを排除した言葉だった。鼻白んでいる所へ銀華がやってきて、初めてそれが高星だと知った時は驚きと戸惑いで言葉も無かった。
その後、安東高星という男の事を知るために毎日のように語り合った。いやそれは適切ではない、意見をぶつけ合ったと言う方が近い。
その中で見えてきたのはまず、この男は武術も学識もずば抜けて優れているが、それが実用に偏っていて一点の装飾も無いと言う事だった。
こんな事があった、いずれ領地を治める身になるだろう高星に統治者としての資質について質問をぶつけていた時の事。話を続けるうちに「要するに君は性悪説の立場からものをいう訳だな」と言ったら高星はこう返した。
「人間の本質が善であるか悪であるかを論じる事に意味は無い。
善であるならばそれが発揮されるようにすればいいし、悪であるならばその害を予防する対策をしておけばいいだけの事。
要は事前の準備さえ十分ならば人間の本質などどうでもいいのだ」
人間の本質などどうでもいいと言っているが、統治の本質は鋭く抑えた言葉だった。
そんなことを続けているうちに、エステルはいつしか高星に強い共感を覚えていた。高星の優秀さが、過酷な環境の中で周囲に認めてもらいたい一心で身に付けたものだと気づいたから。そしてそれは自分にも覚えがあったものだったから。
尤も、高星のそれはエステルのそれを遥かに凌駕していた。幸か不幸かエステルには父や父の友人といった理解者がいたから、高星ほどは実用だけを鋭く磨く様な事はしなかった。
高星にはそれすらなかったから、エステルを遥かに超える高みまで実力を磨き続けた。それが二人の違いだった。
結局、高星の下に来る事を決心した。この地の人々はエステルの生まれを知っても、あまり気にしないので居心地が良かった事もあるが、やはり高星の存在は決定的だった。
自分と高星には似ている所がある、だからこそ違いがはっきりと解る、そしてそれは何かを為そうとするときに補い合うものだと感じた。
さらに高星には何かを為そうという、いや、自分の手で現状を変えて見せようという意志がある、それを感じ取った。
だからエステル・ハーカーはここにいる。安東高星という男と同じものを見るために。
◇
「私と高星の出会いは大体こんな所だ」
「今の子爵とはだいぶ印象が違うような気がします」
「そうだな、表面を飾るという事を全くしなかった高星が『政治』を学んだのは間違いなく私の影響だろうな」
「政治?」
「尤も広い意味での『政治』だ。つまり、相手に与える影響を考慮して言葉や振る舞いを選ぶこと、だ。
こんな言葉を知っているか? 『嘘をつく事とあえて誤解を招く表現を使う事は違う』」
「はあ……」
「まあ、君にはまだ早いかもしれんな。高星など今では『用兵は騙し合い、つまり嘘の吐き合いだ。ならばそれに先立つ政治も嘘だ、人間関係も嘘だ、嘘の全くない人間こそ大きな嘘をついている』という始末だが」
「あ、それなら今の子爵のイメージとぴったり合います」
「私などはこっちに来て少しは素の自分を出せるようになった気がするが、高星はすっかり演技が上手くなった。
だがそれは先に進むためには必要となる技術だ。高星が私を見て、私からそれを学んだという事は、先に進む意志があるという何よりの証拠だろう」
「先……子爵は何を目指しているのでしょうか?」
「高星の目指しているものか……昔ならばもっと解りやすかったのだが、今は腹の内を見せない事が多くなった。
それはつまり自分の考えを人に知らせる訳にはいかないからなのだろうが」
エステルの顔が明らかに曇る、中を見ないままカップに口をつけて空である事に気づき、恥ずかしそうに少し笑う。
「そうだ、一つ忘れていた」
「なんですか?」
「私がここで高星についていく事を決めたもう一つの理由だ」
「もう一つの理由? それは一体?」
「銀華さんが居る事だよ、あの頃の高星とは衝突してばかりだったからな、それをなだめる銀華さんが居るという事が最後の一押しになったのさ」
「ああ……あの人ならなんとなく解る気がします」
「あの頃の高星は抜身の刃の様なものだ。それも鞘どころか柄も鍔も無いむき出しの刀身だ。なまじ名刀なだけに危なくて使い物にならなし、置き所も無い。自分自身の扱いにも困っている様子だった」
「なら、エステルさんが鞘ですか」
「いや、鞘というなら銀華さんだろう。私は柄と鍔といったところだ、使える様にはなったが常時抜身ではやはり扱いに困る。必要のないときに刃を収める所、帰るべき在るべき場所という意味での鞘はやはり銀華さんだろう」
「銀華さんか……エステルさんが子爵と初めて会ったとき、もう銀華さんが居たと言っていましたよね?」
「ああ、最初に高星の傍に付いたのはあの人だ。高星について私も知らない事も知っているのだろう。私はあえて聞いた事は無いが、お前が気になるというのなら聞いてみるのもいいだろう」
「銀華さんが……そうか……ありがとうございました」
「また、お茶を飲みに来るといい。今度は茶菓子を用意しておこう」
「じゃあ、期待しておきます」
高星についてこれまで以上に踏み込んだ話を聞く事ができた、だがもっと深いところがありそれは銀華だけが知っているという。
そこは踏み込んでも良い部分なのだろうかという躊躇もある、だがそれ以上にジャンはどうしてか高星について、高星の根源について知りたいと強く思っていた。
ドアを開けて半分くぐったところで、ふと単純な疑問が頭をよぎった。その場で振り向き、エステルにその疑問をぶつける。
「エステルさんはなぜ銀華さんに子爵の事を聞かないんですか?」
その問いに関する答えは問いと同じくらい単純だった。
「高星を信頼しているからな。何があろうと何を知ろうと私の信頼は揺るがない、そう決めた。だからあえて聞く必要はないのだよ」