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魔窟だと思った。
表向きはきれいな街並みである。敷石舗装の道は塵一つ無いくらいに掃き清められ、建ち並ぶ邸宅はどれも、数学者が喜びそうなくらい整った幾何学的な姿をしていた。
三階建て以上の建築である事はこの街の例に漏れないが、他の地区で見られるような、箱を積み重ねたような背高な姿の建物とは違い、高さ以上に横幅のある邸宅が並んでいる。もはや宮殿と呼ぶ方が適切かもしれない。
温暖な島とは言え、真冬の最中なので花こそ咲いていないが、代わりに常緑の庭木が目にまぶしい。それも綺麗に刈り整えられ、配置から何から全てが計算尽である。
これだけ整っていると、そこに人が生活していると言う感じがしない。どこか無機質で冷たい印象がした。
商人とその関係者が人口の半数を占めるこの活気あふれる島で、異様とも言えるほどに秩序だったこの地区の住人は、政治家達である。
「きれいな街ですね。きれいすぎて、嘘くさい」
ジャンは思わず顔をしかめて、吐き捨てる様に言った。
「ふむ、こういう場所は苦手か? 確かに居心地が良いとは言い難いか。無理をして付いて来なくてもよかったのだぞ?」
「いえ、お邪魔でなければ行かせてください。こういう場所に慣れるのも、棟梁の出した課題の内なんだと思いますから」
「そうか、ならば励まなくてはな。さて、この辺りのはずだが……」
提督がロウから受け取った地図を見て、目的の場所を確認する。
ロウが紹介状を書いてくれたコルデロ氏というのは、この街の最高意思決定機関である九人委員会の一人であると言う。街の最有力者と言ってよい。
そんな人物を紹介してくれるとは、味方ならばロウもなかなかいい人だとジャンは思った。ただそう思いつつも、何か引っ掛かりの様なものを感じていた。
これが提督からしてみれば、ロウが紹介状を書いてくれたのは、善意でも何でもない。駆け引きの末に自分が書かせたものだった。
骨の髄まで商人のロウや、そんな商人と言う人種との付き合いの長い提督にしてみれば、何気ない雑談の中で駆け引きをするのは、当然の芸当である。
初め提督がいつも上手く行けばいいとぼやく事で、問題を抱えている事をほのめかし、ロウがそれに応えた。
その背景には、ジルコン相場の一件は、安東家側の協力が無ければ成り立たなかったのだから、相場で儲けた分とは別に、見返りが有ってはいいのではないかと言う、言外の要求がある。
一言も言葉には出さずに話し合い、交渉し、駆け引きをする。腹芸である。
流石に具体的な問題は言葉にせずに伝える事は出来なかったが、当事者以外にはほとんど雑談・ぼやきとしか聞こえなかっただろう。
結局、ロウがジルコン相場の件の返礼として、この街の有力者であるコルデロ氏を紹介した。向こうが別段渋らなかった事もあるが、提督が要求を通した事には変わりない。
「この先の様だな」
提督が地図から顔を上げ、角を曲がる。角を曲がったところで、この地区に入って初めての通行人とすれ違った。
長身大柄な提督と比べると10㎝程背の低い、卵に髪と髭が生えた様な頭の男とすれ違った。
その男と提督が、すれ違う時に軽く会釈を交わす。ジャンも頭を下げながら、妙に縁が有るなと思った。
この男を見かけるのは、女連れで土産物屋で土産を買っていたとき、ジルコン相場で上手い事儲けているらしいところ、そして今で三度目である。
もっとも、こちらがちらと見かけただけで、向こうはこちらの事などまるで知らないであろうが。
特に言葉を交わす訳でも無くごく普通にすれ違い、しばらく歩いたところで提督が不意に、厳しい声音で呟いた。
「何故、あの男がこんな所に居る」
「知り合いですか?」
「そうではないが、あの男は有名だ。まあ、名前は有名でも顔を知らない者の方が当然多いだろうが」
「……何者ですか?」
「財務卿、ジャスティン・ピニエル」
「財務卿!? 財務卿ってあの、政府の役職では上から二番目の、九卿の一つですよね?」
「その財務卿だ。しかもあの男は財政の天才だ、『ピニエル財務卿ある限り、帝国財政に破たんはあり得ない』とまで言われている」
「超が付く程の大物じゃないですか」
「だからこそ、何故ここに居るのかだ。財務卿ともあろうものが、このご時世に休暇でもあるまい。
……どうやら儂らの知らないところで、この島、この街は、何か厄介な事になっているらしいな」
「普通に考えればまあ、金を得る事が目的でしょうね。この島には税金でも金でも、いくらでも金の取れるところがあるというのは、俺でも解りますから」
「そうだな。問題はどこからどう金を取る気でいるのかだ。もちろん、それ以外の可能性もありうる。今は情報が少なすぎるの」
「……こういうのは信用すべきかどうか怪しいんですが、嫌な予感がします。
一見、何の変哲も無い簡単な仕事だけど、実は何か大きな犯罪計画の一部に、知らずに組み込まれているときの感覚に似ていますね」
「儂も、平静を装ってはいるが、その裏で謀を巡らしている敵と対峙した時に近い様な予感がするわい。
まあ、あまりの情報が無さすぎる状態で、不用意な行動はかえって危険だ。今は、当初の目的に専念するとしよう。ここだ」
一軒の邸宅の門前で立ち止まる。豪奢で壮麗な邸宅ではあったが、これをこう配置すると美しいと言う理屈だけでできた様な、無個性な邸宅だった。
周囲のどの邸宅も同じ様に無個性な豪華さなので、地図無しで再び訪れると迷ってしまうかもしれない。
門に備え付けられた鐘を鳴らすと、すぐに屋敷の中から使用人が姿を現して、用件を尋ねた。
提督が名乗り、ロウの紹介状を渡す。しばらく待つように言われ、椅子を勧められた。塀の陰に、外から見えない様に用意されていたようだ。
遠慮なく椅子に腰を下ろし、庭を眺めて待つ。庭もやはり狂い無く幾何学的に整えられていて、美しくはあるが見ていてすぐに飽きた。
再び使用人が現れ中へ案内された時には、ずいぶん待たされたように感じた。だが座っていた椅子がまだ温まっていなかったので、実際はすぐだったのだろう。
◇
邸内の客間に案内された。その間の廊下などの様子は、碌に見もしなかった。どうせ、外見と同じ様に、無個性な豪華さで飾り立てられているのだろう。
客間の、沈み込む様なふかふかのソファに座り、いくらかもしないうちにこの屋敷の主が姿を現した。
「お待たせした、私がアドス市九人委員会委員・コルデロです」
コルデロはすでに総白髪で皺だらけの老人だったが、その足取り、声、立ち振る舞いは、若者並みとはいかないが、壮年の男と比べても遜色なかった。
「まずは、急な訪問をお詫びいたします」
「なに、ロウ殿の紹介とあらば会わぬ理由はありません。彼の人を見る目は一流ですから」
当たり障りの無いあいさつを交わし、コルデロが向かいのソファに座る。すかさず給仕が現れ、紅茶を出してまたすぐに退室していった。
「さて、世間話をするような関係でもありませんし、さっそく用件を聞きましょうか」
「ではこちらも遠慮なく。今回お尋ねしたのは、交易に関する当家とアドス市の契約について話し合いたいのです」
「ふむ、確か現在我が街と安東家の間には、特別な関係はありませんでしたな」
「はい、現在は他の商船と同じ条件で、交易をさせていただいております。
しかし当家では今後、さらなる交易の拡大を計画しており、その端緒としてロウ殿との大口の取引契約を先頃結んだばかりです。
交易船が徐々に減少しつつある現状において、交易の拡大を図る我が安東家の存在は、そちらにとっても重要なものになるのではないですか?」
「なるほど、それで我が街との間に安東家の交易船を優遇する契約を結びたいと。
確かに交易船の減少による税収の先細りは、我が街においても懸案事項ではあります。そしてそういう状況下で、交易量の大幅拡大を行ってくれる存在は、優遇するだけの価値はあるでしょう」
一見、こちらに好意的な発言である。しかし提督はコルデロがこちらに好意的であるとは思わなかった。次のコルデロの言葉は、すでに予想している。
「しかし、そう容易くあなた方だけを優遇する訳にはいきません。誰かを優遇する措置を取れば、『なぜ我々には優遇措置が無いのか、我々にも十分優遇されるだけの価値があるはずだ』と主張する者が必ず出ます。
それに一度でも優遇措置を与えると、それを白紙撤回するのは非常に困難です。あなた方の言う交易量の拡大が、せいぜい5・6年で終わり、その後取引量が激減されては我が街としては赤字です。
今の様な将来に不安のあるご時世では、そう容易く甘い未来の話に乗る訳には参りません」
やはり、予想通りの返答だった。そもそもこれまで自治会の担当部署との交渉において、同じ様な対応をされているのだ。わざわざ有力者との面会に漕ぎ着けたのは、ここから先の交渉をするためである。
取引の鉄則はギブアンドテイク、即ち双方共に得をする形を作る事である。今、安東家が交易量を増やすので、アドス市に優遇してもらいたい。優遇の結果さらに交易量が増えれば、アドス市も税収を増やす事ができる。というのがこちらの主張である。
これに乗ってこないという事は、安東家に優遇を与えても、それに見合った利益が得られるか不安視しているという事である。
今、コルデロが言った様に、優遇措置による出費が回収できないまま、安東家の扱う交易量が減っては赤字確定なのである。
ならばアドス市の側に、何かしらの安心できる材料を提示すればいい。
「こういうのはどうでしょう、優遇措置を受ける代わりに、年間取扱量を定めるのです。そして年初に保証金をそちらに預け、年間取扱量が規定を下回ったら保証金は、規約違反の代償としてそちらで没収して構いません。
これでまず5年程様子を見て、一度も規約違反が無かったら、保証金無しの優遇措置に移行してもらう、というのは」
「ほう、保証金ですか。つまりそちらは、保証金を預けるだけで、返してもらう自信がおありだと」
「もちろん一度でも保証金を没収したら、そこで契約は打ち切りでも構いません」
「ふむ……確かにそれなら大分不安は無くなるが……」
コルデロの態度がいまいち煮え切らない。話を聞いていてジャンは、妙だと思った。
両者の交渉の詳細な部分までは門外漢のジャンには解らない。だが大筋を言えば、投資の話だと理解した。
アドス市が安東家に対して優遇措置を取ると言う投資をすれば、安東家は交易の取引量を増やし、税収と言う形でアドス市に大きくなって返ってくると言う投資の話である。
アドス市としては、投資先が投資した金を返してくれないうちに潰れてはかなわない。だから提督は、万一の場合は保証金を払うので損はさせないと持ちかけているのである。
具体的にどれほどのリスクが有り、どれほどのリターンが有るかは解らないが、決してハイリスクローリターンな話ではないはずだ。
それなのに何か渋っている。何かこの交渉とは別のところで、躊躇させる理由があるのではないかと思った。
不意に、卵に髪と髭が生えた様な顔を思い出した。財務卿ジャスティン・ピニエル、もしや彼がこの街に居る事が、目の前のコルデロ氏が、ひいてはアドス市が安東家と契約を結ぶ事を渋る理由ではないかと思った。
◇
ドアをノックする音が短く響く。屋敷の使用人が一人、どこか困惑した様子で部屋に入ってきた。
「失礼いたします。ご主人様、お客様がお見えです」
「どちらのお方だ?」
「それが……グオ・コウゼ様がお見えです」
途端にコルデロが顔をしかめた。この街の最高意思決定機関に席を持つ政治家にしては、らしくない露骨な嫌悪の顔だった。
「またあの男か。構わん。適当に言ってお引き取り願え」
「はっ」
使用人がそそくさと退室し、コルデロは鼻でため息を吐いた。
「失礼した。お見苦しい所を見せてしまったな」
「いえ、歳のせいか少しぼうっとしていたので、何も見てはおりません。何かありましたかな?」
提督が空とぼける。
「ははは、あなたもなかなか大した御仁だ。しかしまあ、せっかくご足労いただいたが、これ以上のお話は互いに得る物が無いと思っていただきたい。
ロウ殿の紹介と言えども、次は会えるか解りません。なにせ多忙なもので。いずれ落ち着いたら、またゆっくりお話ししたいものです」
「……左様ですか。致し方ありませんな。ではこれで失礼いたします。貴重なお時間を割いていただき、誠に申し訳ない」
交渉は決裂してしまったのか。ジャンは軽い失望を覚えながら提督と共に一礼し、緊張と失望から来る疲労感に包まれて帰路に就いた。
◇
コルデロ邸の門では、グオ・コウゼとか言う客と使用人が押し問答をしていた。居丈高な物言いをしているその客は、痩身で神経質そうな印象だった。
どこかで見た事が有るなと少し考え、ジルコン相場のときに、値上がりを期待して必死に買い支えをしていた男だと思いだした。おそらく、大損した事だろう。
なんとなく関わり合いになりたく無い様な気がして、顔を背けてそそくさとその場を去り、押し問答の声も聞こえなくなったところで口を開いた。
「結局、収穫はありませんでしたね」
せっかくロウが紹介状を書いてくれたこの街の有力者だと言うのに、得る物は無く、次は会えるか解らないとまで言われた。完全に無駄足で終わったと言って良い。
だが提督の認識は違った。
「そうでも無い。少なくとも、これからどうするかは決まった」
「え? でも、忙しいからもう会えないって、あれはどう考えても遠まわしに『もう来るな』って事でしょう?」
「まあ、普通はそう受け取るだろう。だがコルデロ殿の最後の言葉をもう一度よく考えてみろ。
『次はいつ会えるか解らない』とは『会っても無駄だ』という事だ、これは解っているな?」
「はい」
「ではなぜ会っても無駄なのか。『会っても無駄』という事は、『両者の間で交渉しても無駄』という事になる。何故交渉しても無駄なのか。それは両者の交渉以外のところ、第三者の存在が障害になっているからの可能性が高い。
コルデロ殿は『なにせ多忙なもので』と言った。これをただの言い訳では無いと考えると、『別に厄介な問題を抱えていて、安東家との交渉どころでは無い』という意味に取れる。
また『いずれ落ち着いたら、またゆっくりお話ししたいものです』とも言っていた。これはつまり、『今抱えている問題さえ片付けば、儂らとの交渉には前向きな意思が有る』という事だ」
「それは……ちょっと都合よく解釈しすぎじゃないですか?」
「言葉だけならそうかもしれん。だが傍証が二つ有る。一つは財務卿がこの街に居るという事だ」
「あ、それは俺も考えました。提督の持ちかけた取引は、俺から見ても対等な物でしたし、提督や棟梁が、一方的に相手を食い物にする様な契約を持ちかけるとは思えません。そもそもそれに引っかかる様な、甘い相手とも思えません。
それなのに相手は渋っていた。何か理由があるんじゃないかと思って、それは財務卿なんて大物がこの島に居る事と、無関係ではないだろうと思いました」
「おお、まさにその通り! なかなか目の付け所が鋭いな。流石、殿のお気に入りなだけはあるか」
「それはもういいですから……。それで、傍証の二つ目と言うのは?」
「門前で騒いでいたあの男だよ。コルデロ殿が嫌悪を隠しきれずに、門前払いを食らわせているところを見るに、余程しつこく押しかけていると見るべきだろう。
この街の最有力者の邸宅にしつこく押しかける事の出来る男が、只者であるはずはない。おそらく何らかの立場を持っていて、無下にできない相手なのだろう」
「それもコルデロ殿……と言うより、この街にとって不都合な要求を押し通そうとしている相手?」
「そう考えるのが妥当だ。つまりあの二人に関わる何かが、多忙の理由、厄介な問題という訳だ」
「……その厄介な問題を解決する手伝いが出来たら、大きな恩を売れますよね?」
「儂もそう思う。まずは今、この街を覆っている問題が何なのか、それを調べるとしよう」




