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街には地区ごとに違う顔がある。
小売商が建ち並ぶ地区は商品と人でいつもごった返しているし、卸売商が軒を連ねる地区は荷を満載した大きな箱と、それを運ぶ屈強な人夫達が怒鳴り声を上げている。
うって変わって厳粛な雰囲気が支配し、人を寄せ付けない厳めしい建物が並ぶのが金融街だ。
国中に支店を持つ銀行や、直接商品を取り扱わず、帳簿と契約書でやり取りをする大商人の事務所が並ぶ。
常に静かな雰囲気だが、この時期最も活気があるのは、実はこの金融街だったりする。
すでに実際に商品を扱う事は、冬が来る前に大方済ませてしまった商人達が、去年の取引を決算したり、今年の取引の契約を結んだりして、数えきれない数の契約書が交わされ、夥しい金額が帳簿の上を動いている。
この街の例に漏れず高層建築の事務所の最上階の一室で、その男は待っていた。
「やあ安東家の皆様、お待ちしておりました。ロウ・シーケイです。以後、お見知りおきを」
ロウ・シーケイと名乗ったこの男が、今回の硝石取引の交渉相手らしい。柔和な微笑みを浮かべたその男は、身長は平均的、丸顔で多少小太りではあるが、はっきり言って特徴を感じない地味な男だった。
もっとも、初対面で全く敵意や警戒心を呼び起こさせないと言うのは、商人としては恐るべき相手かもしれない。現に、かなりの大商人であるらしい。
「できれば、末永くお付き合いをしたいものですな」
握手をしながら提督が言う。
「それは、取引次第です」
そっけない答えである。お互いに商人として取引に来ている以上、余計な美辞麗句は不要という事かもしれない。
ロウは提督の次にエステルとも握手を交わすと、ジャンにまで手を差し出した。よもや自分がそんな対応をされるとは夢にも思っていなかったジャンは面食らい、少し間をおいておずおずを握手を交わした。ロウは終始柔和な笑みである。
「お掛けになってください。飲み物は何を持って来させましょうか」
「いや、お気遣いは無用です。さっそく商談に入りましょう」
「では、そういたしましょうか」
提督とロウが机を挟んで向き合って座り、提督の左右にエステルとジャンが控える。ジャンは書類がいくらか入ったかばんを持っていて、名目上はかばん持ちという事で同席している。
書類が入っていると言っても、提督がどうせ使いはしないだろうが、と言っていたので、念のためと言うよりも、演出のための小道具と言うのがジャンの役割と言って良い。その点では、エステルも似たようなものである。
一方のロウは、ごく自然体と言う風を崩さない。自然体でいること自体が演技演出なのかもしれないが、少なくとも今のところ、表面上は無防備に見える。
「さて、事前に話し合った内容では、あなた方安東家は今年一年で10トンの硝石を購入したい。まとまった量の硝石を私が買い付け、それをこの街で安東家に売る。
商品の引き渡しは1トンを一つの単位とし、代金は引渡しの際に支払う。ただし代金はこれからの交渉で取り決めた値で常に支払う。
間違いありませんね?」
「間違いない。付け加えるならば、我が安東家がそちらから買い付けた硝石で利益を上げることができれば、来年以降はさらに大量の硝石の買い付けを行う事もありうる。
その場合は当然、ロウ殿から優先して買わせてもらおう」
「来年の事を言えば鬼が笑うと言います。今年の取引も決まっていないうちから、不確かな来年以降の取引を当てにする事はできませんよ」
「ええ、解っておりますとも。ただ事実として、こちらの意向を示しただけの事です」
穏やかなやり取りだが、どこか水面下に押し込んだような緊迫感が漂い始めた。
「……では代金の話に入りましょうか。通常取引の際の一単位である60㎏当たりいくらか、セルス建てで行いましょう」
ロウ氏はいきなり本丸での勝負を持ちかけた。大胆に打って出た事は確かだが、他に手が無い事も把握しての行動である。
ロウとの交渉が物別れに終わっても、代わりに買い付けを頼む事の出来る大商人を見つけるのは、そう難しい事ではない。しかも安東家は、独自の交易手段を持っていて、自力で硝石を買い集める事も出来る。
それでもこうして商人を仲介しているのは、今安東家は西国から硝石を買い付ける際、都の外港を避けて通る事の出来ない。そこを保有する北朝政府とは敵対する南朝方を、名目だけとは言え名乗っていると言う、政治的な理由からである。
南朝方を名乗る安東家が、北朝政府の御膝元である港に入港して、軍需物資である硝石を大量に買い付ける。政府が知れば、自分達にも入出港料や関税が入る以上、止める様な事はしないだろうが、どれほど関税を掛けられるか解らない。
だからこうして商人を仲介しているが、関税に目をつぶれば独自に買い付ける事は決して不可能ではない。単に、商人を仲介した方が安く上がる可能性が高いから話を持ちかけているのである。
つまり、この話が破談になったところで、安東家には何の痛痒も無い。例え全ての交渉相手の商人から断られたとしても、いくらか高くつく事に目をつぶれば問題無く買えるのである。
この交渉は、買い手である安東家の方が圧倒的に強い。だからロウは、下手な搦め手や外堀埋めに効果は無いと判断し、いきなり本丸の値段交渉に踏み込んだ。
「現在の硝石の相場は、単位当たり4,000セルスです」
アウレ金貨換算で2アウレ。従来の値から据え置きと言える。
ロウは安東家が直接硝石を買い付けたとして、北朝政府がどれだけの関税を掛けるだろうかと考える。多分、積み荷の値に対して何割と言うレベルで掛けるだろう。つまり、それよりは安い値でないと、向こうは交渉を蹴る。
「4,200セルス」
相場の5%増しという値を提示して見せた。これならば確実に直接買い付けよりは安いだろう。
提督の顔が、あからさまにしかめっ面になる。
「大量買い付けなのですから、その分相場よりは安く買えるでしょう。こちらとしては3,800を要求する」
5%増しに対して、5%引きを要求する。どこまでも対等に戦う気でいるぞと言う意思表示だろう。交渉の場で見せる表情など、全て演技と見るのが当然だ。
「買いが多ければ値上がりするのが商品と言う物ですから、大量買い付けだからと言って安く仕入れられるとは限りません。
むしろ買い付ける事によって、今の相場よりも値上がりする事も考えられます。ですから4,150」
「契約では、相場の変動にかかわらず10トンの硝石を用意していただければ、全て買うとしている。硝石10トン分の確実な利益が得られるという事は大きいはずだ。
それとも我が安東家の支払い能力をお疑いかな?」
「まさか、そのような事は。安東家の経済力は北方航路を利用する商人ならば知らぬ者は居ないでしょう」
「ならば、3,900」
「4,100」
「それは容認できるものではありませんな。こちらとしては他を当たってもいいのですが?」
「それはどうでしょう。聞けばこの度、玄州の総督に就いたユアン公爵は、大勢の学者や錬金術師などを集めて研究を行っていると聞きます。
大量の硝石を売り込めば、良い値で買ってくれる可能性は十分にあるでしょう。何も安東家だけが硝石を欲している訳ではありません」
「む……」
提督の頬が微かに動いた。それ以上は顔に出さずに済んだが、この一撃は厳しいと言えた。確かにユアン公爵が玄州の属州総督に就いたと言う最新情報はあったが、それを硝石取引に絡めてくるのはしてやられた感がある。
しかも北朝方の中心人物の一方であるユアン公爵相手なら、関税を掛けられるどころか、上手く取り入れば免税特権を得られるかもしれない。
財力は大きな力だが、権力を相手にしては分が悪い。
「やむを得ませんな、現在相場の4,000。これで取引をお願いしたい」
「さて、冷徹な商人ならばここで4,050と言うべきなのですが……いいでしょう、硝石60㎏当たり4,000セルスで手を打ちましょう」
「ここにきて急に手心を加えられるとは、かえって恐ろしいですな」
「なに、私もあなた方と良好な関係を築いて、末永くお付き合いしたいと思っていたのですよ。
実を言えば、あなた方のご主君に少し興味があります」
「殿に?」
「まあそれはそれ、いずれ手土産の一つでも持ってご挨拶に伺います。今はこの商談をまとめましょう」
ロウが契約書を取り出す。事前協議の段階で、基本的な文面はできていたらしい。具体的な内容に関わる所を書き、末尾に自分の署名をした。
「ご確認ください」
提督が契約書を受け取って、厳しい目つきでそれを確認する。罠の文言、どうとでも解釈できる文章、後で書き加えられる造り、数字の桁や単位の意図的な間違い、最終決定権の持ち主の名前が無くて反故にできるなど、契約書は危険な罠に満ちている。
間違いなくただ一つの意味しか持たないと確認して、署名をする。
「契約成立ですな」
ロウと提督が立ち上がって固く握手を交わす。双方、先程までの厳しい交渉からうって変わって、にこやかな笑みを浮かべて相手の手を握った。
「航路が開く時期になり次第、最初の仕入れ分を引き渡せると思います」
「心得ました。では万事、よろしく」
「儲けさせていただきますよ」
ロウがもう一度にこやかな笑みを浮かべる。提督も笑顔は崩さないが、こちらの方は内心を表に出さないための笑顔だろう。
◇
一応、首尾よく交渉をまとめて宿に戻ると、提督は一階ロビーの長椅子に座り込んだ。
「やれやれ、交渉事に長けた商人の相手は疲れるわい」
「提督がこんなに追い詰められた様子でいるのは、初めて見ました」
「相場よりは安く買いたかったのだがな、購入量が少なかったのと、やはりユアン公爵がちょうど玄州に出てきたのがまずかった。
儂らが半年早いか、ユアン公爵の玄州入りが半年遅ければ、3,900くらいでまとめられたのではないかと思う。こればっかりはどうしようもないわい」
「巡り合わせの悪さは諦めるしかあるまい。それよりも、もっと気になる事がある」
交渉事は不得手と自覚して、終始無言を通してきたエステルがここにきて懸念を示した。
「ユアン公爵が、このアドス市を放置するとは思えん。なにせ行政区画上は、アドス島は玄州に属するのだからな」
「それはつまり、この街がその公爵の管轄下になるという事ですか」
「名目上はそうなる。そしてそれを、名目だけでは無くしようと考えるだろう。
なにせ自治都市で徴収される税は、ほとんどが自治組織の懐に入る。それを自分の懐に入れられれば、大幅な増収だ。しかもこの島から上がる利権は、計り知れない。
ユアン公爵は豪腕だともっぱらの噂だ、自分の意に従わない者には堂々と締め付けをしてくる事だろう。すでに動き出しているかもしれん」
「北方航路の要衝で揉め事となれば、儂らの商売には影響は免れんだろうな。まして、ユアン公爵が軍事行動に踏み切ったりしたら、航路は断ち切られてしまう。
それは儂らにとっても、アドス市にとっても喜ばしくは無いな」
ユアン公爵が強引な手法でアドス市を支配下に置こうとする事は、アドス市にとっても、安東家にとっても好ましくない。ならばどうするか?
「なら、この街と手を組めばいいんじゃないですか? 公爵や、他の誰かが余計なちょっかいを出して来たら、安東家の海軍が守る。その見返りに、なんか要求すればいいんじゃないかと思いますが?」
ごく単純な発想。だが、かなり急所を抑えていた。提督とエステルがそれぞれ、急速に思考を巡らす。ややあってエステルが無言のまま提督と目を合わせる。提督はそれに応えて、無言でうなずいた。
「坊主! お主良い所に目を付けるな! 流石殿のお気に入りだわい!」
提督がジャンの頭をわしゃわしゃと撫でる。その手は力強く、痛みでジャンは涙目になった。
◇
ロウとの硝石取引の交渉から数日が経った。今はアドス市の自治組織との事前交渉中だと言う。
流石に一介の商人との商談と違い、対等な立場とも言える自治組織との交渉は難航しており、本交渉のめども未だ立たないと言う。
交渉の内容が、安東家の交易船の入出港料に関わる事も難航の原因となっている。
入出港料の値引きを勝ち取りたい安東家に対して、海上交通の要衝として重要度の高いアドス市側は、常に強気な態度を崩さないと言う。
誰か一人に値引きを認めれば、なし崩し的に他の者にも値引きを認めざるを得なくなる事を恐れても居るのだろう。
ジャンは交渉術や商取引の知識などを学びつつ、空いた時間でこの黄金の島を満喫する日々をしばし過ごしていた。
少し足を延ばして南部の山地に登った時は、本当にこの島とその周辺だけが、くりぬいたように穏やかな気候である事を実感した。沖の海は荒波で真っ白だったのである。
そんな日々にも少し飽きてきた頃、ジャン達の滞在する宿に一人の客が訪ねてきた。
「ロウ殿が来ていると?」
「はい、お客様と面談をご希望されております」
「先方に異存がなければ、これからすぐでも構わないと伝えてくれ」
「かしこまりました」
宿の従業員が退室すると、提督は何事かと訝しんだが、ともかくエステルを呼んでくるようにと、居合わせたジャンに言った。
ジャンとしては、良い時に居合わせたと言う思いである。先に丁々発止の交渉を繰り広げた大商人が、何の用で向こうから訪ねて来るのか。
良く無い知らせではないかと言う不安もあるが、それ以上にこの流れのまま同席できる可能性が高い事に、好奇心が満たされる思いだった。
ロウは、以前会った時と変わらぬ様子で入室し、提督と向き合う形で席に着いた。
ジャンが四人分のお茶を自発的に用意して差し出し、ちゃっかりと自分も席に着く。咎められる事は無かった。
「それで、御用はなんでしょうか? もしや先だっての取引に何か不都合が?」
「いえいえ、今日はまた別件です。すでに交わした契約に関わる事ならば、真っ先にそれを伝えますよ」
「確かに。では一体何の御用でしょうか?」
「そちら、お金はお持ちでしょうか? それも、あなた方の一存で自由にできる、できるだけ額の大きいお金が」
「金? ……大商人ロウ氏ともあろうお方が、借金の相談とは思えませんが」
ロウ氏はすぐには答えず、悠々とした様子でお茶を一口飲むと、机の上に肘を立て、手を組んで答えた。
「商売の話を持ってきたのですよ。ある儲けを得るために、資金力のある協力者を必要としています」
今までに見た事の無い、悪だくみをしていますと言わんばかりの笑みを、ロウは浮かべていた。




