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流刑人形の哀歌  作者: 無暗道人
リョウシュンの策謀
78/366

3

 海に突き出た桟橋を吹く風は、身を切り裂く様な冷たさだった。

 今日は、雪は降ってはいない。だが風は強く海から吹きつけ、白波が無数に立っている。そろそろ今年最後の船が戻ってくる時期で、港には人影がまばらだった。

 桟橋の先に座り込むジャンに、声を掛ける者は誰も居ない。いや、ここに居るという事に気付いている者も居ないだろう。それでよかった。無性に一人になりたかった。

 ヤコエ回廊の戦いから、まだ10日も経ってはいない。戦いが始まる前、自分は武勲を立てたいと強く思っていた。それはもっと前、春の反乱の頃から抱き始めた思いだ。

 だからついにそれを成し遂げた時、念願叶ったのだ。そう、自分は武勲を立てる事、つまり、人を殺す事を念願にしていたのだ。それに気付いてしまった。

 別に今更人殺しをする事に特別な思いは無い。10年も前から、自分の手はとっくに色んなもので汚れているのだ。

 ただその頃は特に何かを思う事も無く、ただ意思の無い道具となって淡々と人を殺していた。もちろん、だからあの頃の自分がした事に、罪が無いなどと言う気も毛頭無い。

 自分の心を重くしているのは、所詮人殺しでしか無い事を、その点に気付く事も無く熱望していた事、そしてそれを成し遂げた事に充足感を覚えた事。

 さらにその上、自分はそんなどうしようもない事を望む事すら、分不相応な無力な者だという事。


「はぁ……」


 吐いた息が白い。それを確認するや否や、息は上らずに、横に流れていく。

 今思った事は所詮後付だ。あの時、血に濡れた自分の手を見た時、言葉になるよりも早く、直感的にそれを悟って、冷めた。

 言葉は全てが終わってから、それを表現するために後付けしたものに過ぎない。だから完全に正確ではないかもしれない。

 だがそれでも、言葉にしない事には自分でも振り返れないから言葉にした。言葉にするとつまり、まず自分は全く駄目なのだ。何をやっても駄目なのだ。

 無論、新兵と言う事になる自分が、武勇や知略で他人より優れている事などほとんど無い。それは当然だ。

 だがそれでも、自分はどこまでも凡庸なのだ。どれほど専心努力しても、平凡な成果しか上げられず、平凡な力量しか身に付かない。同じ新兵でも、陶明(とうめい)などは自分よりよほど武術の才能が有る。

 そんな無力で無能な自分が、赫々たる武勲にあこがれ、戦場に身を投じてそれを実現する機会を熱望していたのだ。これだけでも分不相応な思い上がりだろう。

 その上、武勲を上げるという事を輝かしいものの様に思い込み、それがただの人殺しでしかないという事を全く失念していた。

 現実を知らずに英雄譚を読み過ぎた少年ならいざ知らず、どす黒い人間の暗部は見飽きるほど見たはずの自分があっさりそれを忘れるなど、救い様も無く愚かではないか。

 極め付きに、人を殺してその手を血に染めてもなお、その事にしばらく気が付かなかった。ついに念願の武勲を上げた事に、充足感で一杯だったのだ。人を殺して満足感を得ている、全く以てどうしようもない。

 いっそ気付かないままでいれば楽だったかもしれない。だが自分の無力で、思い上がって、都合の悪い事を簡単に忘れて、人を殺して喜んでいる。そんな極限の駄目さを自覚してしまった。

 自分自身が、吐き気を催すほど嫌いになった。


「俺は……俺なんかは……」


 人間失格だ。


 いまさらか。


 紅夜叉なら、こんな思いはしないのだろう。人を殺して後ろめたい思いを抱かない事を後ろめたく思う。それは人間だからだ。

 人食い虎が人を食い殺してそれを悔いなくても、それはあたりまえの事だ。どこかで人間として踏みとどまりたいと思っていても、大部分において人間を捨てた存在が、人間として救い難い自分自身を忌む事は無い。

 自分もそちらに行けたらどんなに楽だろうかと思うが、無力で無能な自分は、人間以下に飛び降りる事さえできない。

 イスカなら、もう覚悟は決まっているのだろう。自分の信じる道があって、自分の戦いに意味を見つけているのだろう。

 だから手を血に染めても進むし、きっと立ち止まってもまた立ち上がるのだろう。己が無力だと思えば極限まで努力する事ができるし、遥か遠い理想でも、間違ってはいないと信じる事ができるのだろう。そして、その道の途中で倒れた屍の事を、忘れずにいる事も出来るだろう。

 自分には覚悟なんて無い、信じるものも無い。ただ表向き輝かしい栄光に目を奪われ、その陰に何があるかもよく考えず手を伸ばしただけだ。ましてや自分のしてきた事に意味など無い。

 だから手が血に染まればこうして立ち止まっているし、人並みの努力はできても人並み以上の努力はできない。

 目指すものが遥かに遠ければあきらめてしまうだろうし、そもそも目指す場所が解らない。そして、自分が殺した相手の事を忘れようとしている。

 そんな自分に嫌気がさし、こんな自分を変えたいとは思うが、変われるものならばとっくに変わっていただろう。

 変わる事すらできない、自分を変える努力すらできないから、自分は漂流を続けてきたのだ。

 どこまで行っても自分には無力と愚かさしかなかった。力が有って、道をはっきり自覚する賢さを持った人間などには、到底なれそうも無かった。


「棟梁みたいには、俺は成れない……」


 力と賢さを持った人間として、真っ先に高星が浮かんだ。無意識に呟いていた。


     ◇


「呼んだか」


 座ったまま飛び上がる様に姿勢を崩した。長身の高星がすぐ後ろに立っていて、顔を見るのにほとんど真上を見上げなければならなかった。


「棟梁!? なんで……」

「お前が最近元気が無い事に、気付かないとでも思っているのか? 戦の後から何か考えている様だが、見るからに碌な事は考えていない様だな」

「まあ……平たく言えば、自己嫌悪でしょうか」

「自己嫌悪か。私にも覚えがあるが、その先には何も無いぞ」

「解ってますよ、そんな事は。でもいいんです、最初から何も有りはしないんですから」

「まあいい。取りあえず考えている事を全部話せ。私が何か言うとしたらその後だ」


 話したくなかったので、目を逸らした。


「話せ。これは命令だ」


 拒否は許さないと言う意思が、はっきりと感じられる強い口調だった。渋々思っている事を語り始めた。

 ここしばらくの間、数えきれないほど同じ事を繰り返し思っては自己嫌悪しているので、いざ話すとなると淀み無く言葉を紡ぐ事ができた。

 話すほどに心が重くなっていく、高星はそれを黙って聞いていたが、あるところに差し掛かった時、ジャンの言葉を遮った。


「まて、もう一度言ってみろ」

「え?」

「今のところをもう一度言ってみろと言ったのだ」

「……俺は人間失格だ」

「そうか、お前は人間失格か。それが吐き気を催すほど嫌いか……」


 高星が目を閉じ、ため息にも似た息を吐く。


「ジャン。息を止めろ」

「へ?」


 構える間も無く二度の衝撃に襲われた。全身に刃物を当てられたような感覚がする。口の中が塩辛く、鼻が痛い。冬の海に蹴り落とされたと理解して、()()うの体で桟橋の足にしがみついた。

 桟橋の上から差し伸べられる高星の手を取り、どうにか桟橋の上に上がる事が出来た。


「ジャン、お前まさか忘れたのではなかろうな? 私がこの手を血に染めて、父を殺して当主の座を奪う事を迷っていた時、背中を押して私に決心させたのは、お前の言葉だった」

「ああ、覚えている」


 せき込みながら、息も絶え絶えに答える。


「忘れていたら、もう一度海に叩き込んでやるところだった」

「……命拾いしました」

「そうだな。それで、その時私は言ったはずだ。『まさか私にだけ覚悟を決めさせようと言うのではないだろうな?』と。

 私に血の河を渡る覚悟を決めさせたのがお前だ。ならばお前が手を血に染めるのは、私に対する義務だ」

「義務だから、あきらめろと?」

「義務として手を血に染めるなら、お前には戦う意味も理由もあるではないか。

 それに私は、この道を選んだ事を後悔しては居ないし、あの時お前が背中を押してくれた事に感謝している」


 ああそうか。自分が戦う意味も、理由も、理想も、信じるものも、全て最初からあったのだ。

 高星が理想を叶える瞬間を見るのが自分の理想で、そのために高星の理想を手助けするのが自分の戦う意味、そして生きる理由なのだ。


「ジャン、お前が私の背中を押したあの日の事を覚えているか? あの日、私が言った事を覚えているか?」


 あの日、高星が何と言っていたか。具体的な言葉はすぐには思い出せない。だがそれでも。


「忘れ去ってはいないと思います」

「ならば、有能か無能かは決定的な意味を持たないと言った事を覚えているか」


 その言葉ならすぐに思い出せる。あの時、自分を叱咤してくれた言葉なのだから。


「事の成否を分けるのは、一番無能な奴の働きかもしれない。そう棟梁は言いました」

「そうだ。無能者には無能者なりの価値と戦い方がある。もしお前が居なくなったら、私は誰に雑用を命じればいい?」

「誰でもいいんじゃないですか?」

「雑用は命じれば誰でもできるだろう。だがお前がやらずに他の誰かがやれば、そいつがしていた仕事は誰がやる? それがどこまでも連なって、最終的には私の負担が増えるのだ。

 無能者が雑用をするから、有能者が自分にしかできない仕事に専念できる。どんな有能な者でも、一人で十人分のつまらない仕事はこなせない」

「励まされているのかどうか、よく解んないですよ」

「別に励ましてなどいない。事実を述べただけだ」

「そうですか。でも……それだけじゃありません。俺は自分を変える努力ができません。どうしても途中であきらめてしまう。

 理想も覚悟も持ってないからだと思いますけど、戦う理由があると解っても、努力できる強さが俺にはあると思えません」

「何が努力だ、馬鹿馬鹿しい」


 高星は一度大きくため息をつき、吐き捨てる様に言った。


「努力をしたなんて自覚を持ち、それを口にするような奴の努力なんぞに価値は無い。そんなエセ努力、血を吐くだけ我が身を苛め抜いても、何の身にもなりはせんわ」

「努力なんて意味が無いと?」

「努力と言うのは他人から言われる言葉であって、自分で言う物ではない。

 他人は努力したと言うが、己はただ好きだから励み、必要だと思うから勤しみ、目指すものがあるから苦痛に耐えるのだ。

 努力する事を目的として、ただ努力のために努力し、無理して苦痛に耐えたところで、何一つ得られるものか」

「……そういうものですか?」

「お前は私が課題を与えたり、演習でどう軍を動せばいいか考えさせたとき、実にいい顔をしていたぞ。あのとき努力をしなければと思い、自分の身にムチ打ったか?」

「……いいえ」


 楽では無かった。だが苦痛を感じた記憶は無い。


「ほれ見ろ。努力云々と思い悩むくらいなら、まず自分が求めているものを明確にしろ」

「自分が何も求めていると思えなかったら?」

「火を点けてくれる何かを探すんだな。それに、お前は努力より大事なものをすでに持っているではないか。それをまず自覚しろ」

「努力より大事なもの?」


 なんだろう。努力より大事なものという部分を省いても、自分は何かを持っていただろうか? いつだって自分には何も無かったはずだ。


「努力は無駄では無いが――他人から見て努力だ――無駄では無いが、例えば十年前から努力している者に、これから努力する者は決して追いつけない。

 これから十年努力する間に、十年努力をつづけた人間が、その後の十年何もしないと言うのはまず考えられない。あるとすればそれは死んでいるからだろう。

 自分が十年分積み重ねた時、追いかけていた相手は二十年分積み重ねている。単純に積み重ねを競う限り、先を行く者には決して追いつけない。

 ならどうすればいいか、解るか?」

「……積み重ねの量を競うのではなく、全く新しい物を持ちだして対抗する。ですか?」

「それも一つの答えだろう。努力するとは手札を増やす事だ。だがいくら手札を増やしても、それが役を作らなければ勝つ事は出来ない。

 三枚の手札しかなくても、それでできる最高の役を作れば、七枚の手札を持つがそれを活かし切れない相手に勝てるだろう。

 一対一で戦わねばならない理由も無い。十人が一枚ずつ手札を持ち寄って、七枚の手札を持つ一人を倒せばいい。

 先の戦で、お前はそれをやって見せたではないか」


 先の戦でジャンがそれをやって見せた。十に人が一枚ずつ手札を持ち寄り、七枚の手札を持つ一人を倒す。

 親衛隊の仲間と組んで、敵の小隊長を討ち取った事を言っていると気付いた。


「見てたんですか」

「お前は私から離れすぎないように戦っていたからな、良く見えていた。

 常に数人で一人を相手取り、安全確実に仕留める。その成果として、ひよっこの新兵に過ぎないお前が、敵の小隊長を討ち取る手柄を立てた。

 一騎打ちをしていたら勝ち目など無かっただろう。大したものだ、あれはお前が考えたのか?」

「あ……はい! 戦が始まる前に色々考えて、それでできるだけ組んで行動しようと仲間と相談して」

「ほう、仲間か。お前の口からそんな言葉が出るとはな」

「えっ、あれ……?」


 言われて初めて気が付いた。およそ自分には似つかわしくないと思っていた言葉が、無意識のうちに口から出ていた。


「戦場で生死を共にすれば、戦友だと思えるのは当然だ。同じ戦場に立った仲というものは、他には代えがたい結びつきができるものだ」


 呆然自失。何もありはしないと思っていた自分が、いつの間にか多くのものを得ていた。信じるもの、努力を超える工夫、戦友と言える者……それに気付かなかった事に愕然とし、気付いてみたら重すぎる様な気がして、どうすればいいか解らなかった。


「つまらん悩みは無くなったようだな?」

「……代わりに別の悩みが生まれたような感じですけど」

「それはそういうものだ、悩みが尽きる事は無い。だがとりあえず、今までの悩みは無くなった。ならこれからは、新しい悩みを抱えながら進め。進めるな?」

「……はい!」

「よし、では帰ろうか。お前唇が紫色だぞ、早く帰らねば風邪をひく」

「誰のせいですか」

「蹴っ飛ばしたのは私だが、蹴っ飛ばされたのはお前の自身せいだ」


 敵わないなと思った。だからこそ、この人がどこまで行くのか見てみたのだろう。そして自分も、この人にどこまでも進んで欲しいのだろう。

 そうジャンは思いを新たにして、盛大にくしゃみを一つした。


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